つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< April 2020 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
 
ARCHIVES
RECENT COMMENT
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本                  文中敬称略             ver.1.01

 

 

NHKの朝ドラ『エール』のモデルでもある作曲家古関裕而は、戦前から戦中へ、そして戦後の高度経済成長期に至るまで、多くの国民に口ずさまれる名曲の数々を生み、ヒットさせ続けた唯一無二の存在である。

 

「六甲颪」(1936)「露営の歌」(1937)「若鷲の歌」(1943)「栄冠は君に輝く」(1948)「高原列車は行く」(1954)「モスラの歌」(1961)「巨人軍の歌(闘魂込めて)」(1963)「オリンピック・マーチ」(1964)…。

 

歌謡曲から軍歌、行進曲、映画音楽、校歌、社歌など、生涯にわたって作られた曲は5千曲以上と言われる。

 

辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書)は、その作曲家としての足跡を、激動の昭和史の中で浮き彫りにした、評伝的ドキュメンタリーである。

 

福島に生まれ、福島を愛し続けた 古関裕而(本名、古関裕二)は、小学校のころよりピアノの伴奏をしたり作曲したりと、その音楽の才を発揮し、やむなく進んだ商業学校時代に貪欲にクラシック音楽の知識を吸収し、作曲の才能に磨きをかけるも、音楽家としての道は親の望むものではなかった。

 

銀行に就職しながらも、音楽への想いやみがたく、やがて曲を送った英国音楽協会より賞金を与えられ、それが大きく報道される。ファンとなった女性内山金子と大恋愛ののち、結婚し、上京する。山田耕作の後押しもあって、コロンビア専属の作曲家として、200円という当時としては破格の月給を得るも、ヒット曲には恵まれず、降給の憂き目にあった。しかし、「利根の舟唄」「船頭可愛いや」のヒット以降、確固たる地位を築き上げるようになる。

 

太平洋戦争が勃発すると、軍歌の分野でも、大きなヒットを飛ばし、その地位は不動のものとなる。とはいえ、軍の要請で、中国まや南方まで赴き、九死に一生を得るなど、波乱の時代を何とか生き延びたのだった。

 

戦後も、その戦中の仕事を咎められることは少なく、次々とヒット曲を飛ばし続け、さまざまな分野の多くの名曲を世に送り出し続け、その勢いは長年連れ添った恋女房である金子の死まで続くのであった。

 

多くの人びとが、時代の変わり目で淘汰され、表舞台から姿を消す中で、古関は、その勢いを失うことなく、日本の歌謡史に君臨し輝き続けた。その音楽は、勇壮でありながら、哀愁があり、どこか懐かしさの漂うものであり、それこそがまさに日本人の心性にマッチしたものであった。このことは、若い兵士たちに長調と短調二つのバージョンを作った「若鷲の歌」のいずれかを選ばせるか場面に端的に現れている。

 

「いま二曲を歌ってもらうから、いいと思う曲に手をあげろ」

 波平は、はじめ長調、つぎに短調の曲を歌った。

「前の歌がいいと思うもの!」

 隊長の声に、一〇人ほどの生徒が手をあげた。

「あとの曲がいいと思うもの!」

 ふたたび隊長が問うと、こんどは生徒のほとんどがこぶしを高くあげた。

「よし、あとの曲に決める」

 こうして生徒の意見により、短調のメロディーに決まった。そしてそれこそ、「哀調を帯びながらもまた勇ましく、しかも何ともいへず望郷の念をそそる音律」という、ヒットした古関軍歌の特色をすべて備えたものだった。

  pp177-178

 

『古関裕而の昭和史』は、これまでの辻田の著作とは異なり、単に豊富な資料やデータによって古関の音楽家としての歴史的足跡を明らかにするだけでなく、古関の人生の物語をも同時に明らかにする。それは、音楽を通した将来の妻金子との熱愛ぶりや、命からがら逃げかえった戦地への慰問、さらには戦後のクレイジーな仕事ぶりの場面に現れている。

 

 四月に入ると、ふたりは互いの恋愛感情を吐露した。金子が「私は貴方が好きです。私は大好きです。好きで好きで(原文は踊り字使用)たまらないのです」(三日)と書けば、裕而も負けずに「最も愛する(こんな文字を用ふるのをお許し下さい。この文字以外に、自分の胸中を表現する字は無いのです。)内山金子さん」(四日)と書く始末。

pp49-50

 

菊田一夫とコンビを組んだラジオドラマ「金の鳴る丘」では、菊田の台本が上がらないままに、古関が放送本番を即興演奏でつなぐこともあった。

 

 あるとき、どうしても菊田の台本があがってこないことがあった。放送時間が近づいてくるので、古関は手ぶらで、ナレーターの巌金四郎とともにスタジオに入れられた。ハモンド・オルガンのまえで待っていると、紙が回ってきた。これまでのあらすじに、「音楽は中断せずにつづけて演奏」」と書いてあるだけだった。

 これではなにがなんだかわからない。古関はやむなく、ナレーションを聞きながら、即興で演奏を行った。横目で副調整室をみると、菊田が夢中で原稿を書いている。とはいえ、その内容がわかるはずもなかった。

 

                 ナレーションを聞きながらとっさに音色を変え、演奏しながらレジストレーションを組み立てておく。そのスリ     ルに胸が震えた。(『鐘よ鳴り響け』)

  pp212-213

 

激動の昭和を生きるということの意味が、古関の生の活力が、どの場面からもひしひしと伝わってくるのである。

 

『古関裕而の昭和史』は、辻田真佐憲が伝記文学という新機軸へと一歩を踏み出した名著である。本書を読むだけで、数々の名曲とともに、日本の近現代史の知られざる裏面の数々が深く心の中に刻まれるだろう。

 

関連ページ:

書評 | 00:41 | comments(0) | - | - |
[新潮 2020 5月号 岸政彦『リリアン』]

 文中敬称略                                               ver.1.01

 

 

[新潮 2020年5月号]に掲載された岸政彦『リリアン』は、大阪に住む一人のジャズバンドの男とスナックで働く一人の女を中心にした、大阪の生活を描いた小説である。ストーリーらしいものはなく、ひたすら二人の行動と会話が描かれ、大阪で生きる人の姿を、安孫子という場末周辺での行動と、男女のとりとめもない会話の中で、浮き彫りにする小説である。

 

女の名前は美沙。ドミンゴというバーで働いている。かつて、結婚し子供もいたようだが、多くは語らない。

 

10歳年下の「俺」と語る話者の男の名前は定かでなく、ジャズで、ベースを弾いている。バーなどでトリオとして演奏するほか、スクールでも教えて何とか食いつないでいる。

 

 最近はもう、音楽をやめようかとそればかり考えている。やめて何ができるわけでもないのだが、ぱっとしないまま、だらだらと飯だけが食えているいまの状態に嫌気がさしている。飯だけがだらだら食える状態、というのは、残酷なものだ。やめどきが見つからない。p32

 

二人が出会うのはだいたい夜である。いつしか、二人でいい仲になりながらも、それ以上には進まない。

 

冒頭で、夜の街へと繰り出す行為が、シュノーケルで泳ぎだすイメージへと重ね合わされている。

 

 ひとりで家を出て飲みにいくとき、誰もいない浜辺でシュノーケルをつけて、ゆっくりと海に入っていくときの感じに似てるといつも思う。p30

 

そのように、暗い海を、夢見心地で漂うように、安孫子や十三などのうらぶれた感じのするあちこちの大阪の場末の街を、歩き、酒を飲み、そして演奏を続ける生活、そんな中で出会ったのが、美沙だったのだ。

 

ふたりの会話は、会話のための鍵括弧さえも消え去ったボーダーレスなものだ。同じことを語り続けるブランショの「複数の言葉」のように、デュラスの小説の男女の会話のように、とりとめもない会話が続く。だが、それが関西弁で行われるとき、何か異なる世界が生まれる。

 

 あ、ここもなんか建つんかな。

 建つんやな。

 ここ前何やったっけ。

 わからんな、俺そういうの全部忘れるわ。美沙さんもそういうんことよう覚えてるよないつも。

 私もわからへんけど。あ、わかった、うどん屋ちゃう?

 うどん屋あったなあ。あったあった。

 うどん屋っていうか。うどん屋が入った古いビルな。

 そうそう、上が古いマンション。p34

 

二人が語るのは、大阪のあちこちの街のこと、そしてその中で生きて来たそれぞれの生活史だ。

 

会話が続く限り、それはほとんど詩のように、あるいはジャズのセッションの即興のように、鳴り続ける。

 

「俺」の語る犬の記憶、それは小学校の時代の、とある女生徒の記憶だ。

 

そして美沙の中のリリアンの記憶。女の子の間でブームになった刺繍の一種、リリアンは、ほとんど役に立たない。だが、それが心に引っかかり続けているのはなぜだろうか。

 

美沙が自ら語る普通の子のイメージは、俺の中では、そのまま「虫」と呼ばれ、クラスから仲間外れにされていた女の子と重なる。

 

 どんな子やったん?

 うーん。なんかおとなしい。おとなしいっていうか、友だちはまあ、おるけど、

 うん、

 なんか、おったやろ。普通の子。そんな感じやったな。普通の子やったわ。

 普通の子ってどんなんや

 なんか、良くも悪くもなく。勉強も真ん中ぐらいで。

 ああ。

 そんな感じ。友だちもまあ、おるけど、クラス替えしたらもう遊ばへん、みたいな。

 p47

 

二人は、関係を深めるでもなく、十代の少年少女のように、千里の万博記念公園へと繰り出す。そして、肩を寄せ合いながら一夜を過ごすのだった。二人が過ごす時間の経過は、初々しく、親密で、とても美しい。Tender is the night.

 

 夜空がもっと暗くなる。

 エキスポランドの遊園地が取り壊されたあとにできた巨大なショッピングセンターの明かりが消えた。ライトアップされていた太陽の塔や観覧車の明かりも消える。

 遠くに見えていた阪大のキャンパスの明かりも、いっせいに消える。

 千里中央や茨木のビルや団地の明かりも、少しずつ順番に消えていく。

 ほんの少しだけまたたいていた星も、ひとつずつ消えていく。

 世界から光が完全に消える。

 p59


並行して、それ以上は上に行けないが、けれども食えている以上止めることもできず続けているジャズのセッションの日々が、その熱気が描かれる。『リリアン』は、ジャズのセッションを描いた音楽小説でもあるのだ。

 

とりわけ素敵な一行は、コード進行が詩のように語られるところ。痺れる一行だ。

 

 B♭7は、E♭に帰るため。F7は、B♭7に帰るため。Cm7は、F7に帰るため。

 Cm7はF7に帰ってくる。F7はB♭7に帰ってくる。B♭7はE♭に帰ってくる。

 そこで旅は終わる。

 ただいま。p79

 

人が生きてゆく中で、人との出会いもあれば、別れもある。そして、その間にも、街は変化してゆく。ジャズの熱演が行われたクラブも閉店となり、二人の出会いの場所であったドミンゴもまた閉店となる。それらの場所で過ごした時間は、二度と戻らない。

 

 あそこ最後やねん

 最後?

 店つぶれるねん。もう閉めはるねんて。昔からやってる、ふるーいジャズクラブやねんけど

 そうなん。

 もう大阪も、そういう店どんどんなくなっていく。

 そうなんや

 p62

 

『リリアン』は、大阪という愛しくてろくでもない街での浮草のような男女の生活を描いた、大阪版『日々の泡』である。『ビニール傘』よりもさらに深く沈潜し、これまで描かれたことがなかった岸政彦の音楽世界が開花する傑作小説である。

 

関連ページ:
鈴木智彦『ヤクザときどきピアノ』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本    文中敬称略                            ver.1.01

 

 

鈴木智彦といえば、『ヤクザと原発』『サカナとヤクザ』などの著作で知られるノンフィクションライターだ。潜入取材を得意とし、ヤクザの大親分のような強面の相手にも、妥協のない取材をぶつける硬派のライターとして有名だ。

 

その鈴木智彦が突如ピアノを習いはじめたいと思い始めた。きっかけは『マンマ・ミーア・ヒア・ウイ・ゴー』という映画に登場したABBAの音楽『ダンシング・クイーン』だった。

 

 ところがABBAのスマッシュ・ヒットである『ダンシング・クイーン』が流れた時、ふいに涙が出たーーー。

 

 というより、涙腺が故障したのかと思うほど涙が溢れて止まらない。すぐに鼻水も出てきて、嗚咽が止まらず、なにが起きたのか把握できなかった。(…)

 

 魂の奥底に入り込んだのは、紛れもなく音楽そのもの……ABBAのメロディ―とリズムとハーモニーだった。

 

 特に特徴あるピアノの旋律が直接感情の根元を揺さぶった。

 

<ピアノでこの曲を弾きたい>

 

 雷に打たれるようにそう思った。身体が音楽で包まれていた。

 pp20-21

 

他の曲などいらない。難易度の高い『ダンシング・クイーン』さえ弾ければいい。その一念でピアノを弾けるようになりたい。

 

とは言え、鈴木は今まで一度もピアノを習ったこともなく、楽譜さえも読めない。はたして52歳になった今から始めることができるだろうか。

 

近所だけで100件はあるピアノ教室に片端から電話したものの、そんなオッサンのワガママを聞いてくれそうな教師はめったにいない。ピアノ教室は、女性と子どもの世界であり、トラブルを避ける意味で、門前払いの教室が少なくなかった。ようやくたどりついたのが、レイコ先生の存在だった。

 

「『ダンシング・クイーン』を弾けますか?」という鈴木に対して、レイコ先生ははっきりと告げる。

 

「練習すれば、弾けない曲などありません」p29

 

ピアノの世界に関しては、確固たる信念を持って 言い切るレイコ先生の言動に、人を殺したことのあるヤクザのようなオーラを感じ、とことんついてゆこうと決意を固めた鈴木であった。

 

 これで駄目ならピアノとは縁がなかったとあきらめられる。

 俺はレイコ先生と心中する。p41

 

かくして、52歳のオッサンとピアノ教師との二人三脚の冒険が始まる。

 

そんな著者の無謀な試みを聞きつけた編集者は、著者にピアノ学習の体験記を課しながら、さらにハードルを上げてきた。一年後に発表会での演奏をゴールとせよというのである。もちろん、取材にこだわりすぎる遅筆の鈴木が何をしそうかもお見通しで、釘を刺すことを忘れなかった。

 

「たとえば楽器メーカーに取材を申し込んでピアノ製造を見学しにいったり、代理店や音楽教室に取材したり、ピアニストや調律師にインタビューしないでください」p74

 

ピアノが弾けるようになるには、練習、練習、練習しかない。

 

だが、待っているのは、決まりきった曲を、決まりきった押しつけのスタイルで弾くように練習するという昔ながらのやり方ではなかった。基本は押さえつつも、相手の年齢や性格、技術に合ったやり方で、その人の一番の望を叶えるかたちで、レッスンは進んでゆく。誰にも開かれた、もう一つの今日的な音楽教育の解がそこにある。

 

とりわけ、感動的なのはベートーヴェンの『よろこびの歌』のレッスンで、ピアノを弾くだけでなく、歌うようにと言われるシーンである。

 

「歌うんですか?俺が習いに来たのはピアノですけど」

 

「私はピアノを教えたい。だから歌おう」

 

 俺は感情が顔に出る。はっきりと眉をひそめていたに違いない。レイコ先生は気にせず続けた。声に教育者の自信と威厳があった。不快な感情が払拭される予感もあったが、禅問答のような返答に不安が残る。次のレイコ先生の説明を聞くまでは。

 

「たどたどしくても一曲が弾けた。すごいことだわ。でも歌ならもっと慣れている。

 

 音楽は誰もが生まれながらに喋れる言語なの。

 pp58-59

 

それに応えるように、著者もまた、自らデジタルピアノを買いながら、知識と技術を貪欲に吸収してゆくのである。どんな分野であろうと、ライターは、その分野の文章を書くまではずぶの素人だ。だが、徹底した取材で新規参入分野を調べこみモノにすることに定評のある鈴木は、ヴァレリー・アファナシェフの『ピアニストは語る』や青柳いずみこ『ピアニストは指先で考える』などピアノについて書かれた本を片端から買い込み、読んでは吸収してゆく。そして、いつの間にか音楽ライターのような蘊蓄を傾けるまでに成長してしまうのである。技術面の上達とともに、理論面でも完全武装をとげ、「Op.4 仁義なきピアノ史――ファミリーの系譜」となって結実する。この成長ぶりが楽しい。

 

年齢をとればとるほど、新しいものをスタートするハードルは高くなる。だが、いったん始めてしまえば、意外に道は開けるものだ。それは、年齢にともなった知恵や経験のなせる技である。

 

 心身が柔軟な子供たちのように、コンクールに出場する腕前にはなれないだろう。それでも大人の優位は必ずある。たとえばそれぞれの仕事で学習のコツを攫んでいるし、単純な反復作業がブレイクスルーに繋がる意外性も経験している。困難を克服する方法も見つけられるし、自分がよく間違う自覚も持っている。なにより言語というツールで現象を深堀りし、ナイーブな子供が泣くような経験ですら客観的に楽しめる。p6

 

『ヤクザときどきピアノ』は、何の物語に似ているかといえば、オードリー・ヘップバーン主演の映画『マイフェアレディ』に似てる。ビジュアルこそ似ても似つかないが、両者に共通して存在するのは、小さな努力の積み重ねによる達成感、そしてかつての不可能をいつしか可能にしてしまう「変身」のテーマである。

 

ピアノは、女子どもの習うもの、小さいころに始めなければ上達は難しい、時間も経済的安定もないフリーライターにピアノの習得など無理だ、ましてヤクザ専科のライターにピアノは似合わない、そんな既成観念を一つ一つぶち壊してゆくたびに、わたしたちの心も一層自由になる。それこそが『ヤクザときどきピアノ』全編に宿る熱気と感動の正体なのである。

書評 | 22:07 | comments(0) | - | - |

(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.