つぶやきコミューン

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福島香織『ウイグル人に何が起きているのか 民族迫害の起源と現在』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

中国に属しながらも、イスラム教圏である新疆ウイグルで行われている未曽有の迫害、人権侵害によって、100万人規模でウイグル人たちは1300ヶ所あると言われる再教育施設へと送られ、その中には多くの文化人や海外経験のある学生も含まれている。中には、施設で病死したり、二度と外の世界に戻ることがかなわない者もいる。海外にいても、安全とは言えない。故郷に残した家族を材料に脅されたり、ビザの書き換えのために中国大使館を訪れた際に拘束されたりと、あらゆる形で罠が待ち構えている。個人の思想や信条だけではなく、民族としての歴史も文化も根こそぎにしようと、さまざまな試みが行われているのである。だが、ウイグルの人びとが置かれた悲惨な状況に関して、めったに日本のメディアで伝えられることはない。

 

一体ウイグルで何が行われているのか。いかなる背景の元、なぜ、いつからそれは行われるようになったのか。そして、これからどうなるのか――――こうした疑問に対して、正面から答えてくれるのが福島香織『ウイグル人に何が起きているのか 民族迫害の起源と現在』(PHP新書)である。

 

中国での取材経験が豊富な福島は、単にメディアで流れる内外の資料を集めるだけでなく、自らカシュガルへと飛び、現地に潜入取材を試みるところから本書を始めている。20年ぶりに訪れたカシュガルの地は、大きく変貌し、漢民族の都市となっていた。至る所に存在する警察官、X線と金属探知機による検査ゲート、一種の交番である「便民警務ステーション」、数十メートルに数台ある監視カメラ。一見して平和で清潔なテーマパークのような都市の背後に存在するのは、容赦ない監視と言論統制の社会。まざに21世紀に顕現したオーウェルの『1984年』の世界である。

 

 カシュガルはどこもかしこも美しく、人々は正直で親切だ。だが、人も含めて全部作り物のようだった。彼らは昔ほど陽気ではなかった。観光客に対しても、客引きもしなれば、ぼったくってやろう、儲けてやろうという欲も見せない。羊の姿は消え、警官と「有悪徐悪」(悪があれば排除する)の標語と監視カメラがあふれていた。p27

 

カシュガルからコナシャハルにバスで移動、さらに農村地区のウパールヘ。閉鎖しているモスクを写真に撮ろうとすると警官に制止される。

 

 理由は分かっている。農村のモスクを手当たり次第に閉鎖して、愛国愛党の垂れ幕でラッピングしている様子が知られたら、やはりそれは宗教を冒涜している証拠として国際社会から批判されるからだ。p35

 

いわば、街そのものが、表向き平和で清潔な観光都市、裏では一分の隙も許さないウイグル人の監獄という「二重思考」の都市なのである。

 

  刺すような日差しと涼しい木陰に彩られた日干し煉瓦(いまは同じ色合いの焼き煉瓦で作り直されている)でできた美しいウイグルの町は、外国人も漢民族も自由に観光できるが、そこに住んでいるウイグル人にとっては巨大な監獄なのだ。外から来た旅行者には、美しい治安のよい理想の観光都市に見える、21世紀で最も残酷な監獄社会。p38

 

真摯なメッセージ性に満ちた「序章 カシュガル探訪―――21世紀で最も残酷な監獄社会」に続く3つの章で本書は構成されている。

 

「第一章 「再教育施設」の悪夢――――犯罪者にされる人々」では、現代の”ラーゲリ”とされる再教育施設の実態が語られる。ほとんどは、テロとはなんの関わりもないウイグル人たちが、イスラム教の中国化、ウイグルの思想的再教育などさまざまな口実で、収容され、時に虐待死する実態が。こうした無差別な迫害が本格化したのは、2014年の習近平が危うく命を落としかけた2014年4月のテロ事件からであった。さらに「社会信用システム」や「監視アプリ」など高度なコンピュータテクノロジーのもと、いかに監視網がウイグル人社会に張りめぐらされたかが語られる。だが、漢民族中心社会における異民族と異宗教に対する迫害以外の要素さえ、そこには見え隠れする。一つは、臓器移植の市場の闇であり、もう一つはウイグル人の多くが、核実験によって被爆したという点である。さらに、欧米のメディアの報道の状況や日本のメディアの腰砕けの理由も明らかにされる。特に、戦慄すべきなのは144pから8ページにわたって並ぶ、(あくまで内外メディアに公表された限りでの)著名ウイグル人の拘束者リストで、大学教授、編集者、新聞記者、作家、詩人、サッカー選手、歌手、俳優、慈善家、経営者などの名前と肩書き、そして死刑や無期懲役などの処遇が一覧にまとめられている。

 

「第二章 民族迫害の起源」では、ウイグル人の起源と、民族の歴史、さらにその中でいつから迫害を受けるようになり、いかなる経緯で今日に至ったかが語られる。決定的になったのは、清朝の時代からである。

 

 康熙帝、雍正帝、乾隆帝と3代にわたる戦争期をへて、清朝はジュンガル帝国を滅ぼし、続いてヤルカンド・ハンを滅ぼして、東トルキスタンにあたるジュンガル・タリム盆地は清朝のものになった。乾隆帝はこの新しい征服地を新疆(新たな領土)と命名。ここにおいて、パミール以東の中央アジアの政治的独立は喪失された。p170

 

この地域は、とりわけ中国とソ連の間の抗争の地となり、何度か自治独立の機会もあったにもかかわらず、ソ連の裏切りによってかなわなかった経緯がある。また、中華人民共和国の成立以降も、文革時代の迫害の後、ウイグル人に対する軟化政策の時期があったが、胡耀邦の失脚とともにその希望も泡と消えた。

 

「第三章 世界の大変局時代における鍵―――米中そして日本で」は、なぜ国際社会の中で、これほど大規模なウイグル人への迫害が容認されてしまったのか、その背景に9・11を端緒とするアメリカの「テロとの戦い」を、中国が隠れ蓑としたことが挙げられる。トランプ政権の成立とともに、中国に対する強いカードとなったウイグル問題だが、本来ウイグル人側に立つべきイスラム国家が、中国への経済依存ゆえに、この問題をスルーしてしまったことが、問題をより深刻化させた一因である。こうした膠着状況を打開する方法の一つとして、ウイグル人作家のノーベル賞受賞などが挙げられるだろう。そして、ラビア・カーディルなどそれにふさわしい作家も、ウイグルには存在する。日本が積極的に発言するようになれば、その発言は無視できないものとなり、解決の糸口がつかめるかもしれない。

 

 ウイグル問題は、客観的にいえば大国の都合によって翻弄される弱小民族の悲哀を凝縮したようなものだと思う。米国がウイグル問題を語れば、それは大きな擁護の力となるが、同時に米国にカードとして利用されているという面は否定できない。だからこそ、私は日本のような、直接ウイグル問題や新疆地域での利害にコミットしない国が、もっと中立で純粋な人権問題、信仰の自由や民族の誇りを守る立場から発言すべきだし、その方が説得力があるのではないか、と考えている。p269

 

北京に支局のある大手メディアによっては、決して大きく報道されることのない問題だけに、書物やSNSを通じて、この問題が広く知られるようになることが期待される。一冊の本が、小さな蝶のはばたきのように、民族の運命を、ウイグル人一人一人の未来をよい方向へ変えるかもしれない。その意味において、『ウイグル人に何が起きているのか』は、英語や中国語に翻訳され、真実が燎原の火のごとく広がることが望まれる、希望の書物である。

 

 Kindle版

 

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堀尾省太『ゴールデンゴールド 6』

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『ゴールデンゴールド 6』は、『刻々』の堀尾省太によるコミック、瀬戸内海のとある島を舞台とした怪奇ファンタジーだ。

 

[1〜5巻のあらすじ]

 

尾道市の沖にある寧島は、橋もかからず、フェリーで陸と結ばれる瀬戸内海に浮かぶ孤島。

 

福山市から、島の祖母の元へと引っ越してきた中学生早坂流花は、海で奇妙な像を拾う。それを祠に祀り、願をかけたことから、その像は生命を得て、動きだすようになった。やがてフクノカミと呼ばれるようになったその像は、たちまちのうちに祖母町子の民宿やよろず屋を繁盛させてゆく。

 

いつしか町子だけでなく、島の人びとは、フクノカミによって操られたかのように、次々と島での事業に手を出し、豊かになってゆく。だが、その流れに乗れない者もいた。やがて、早坂町子の一派と、それに敵対する一派の間に争いが生じ、死者までも出てしまう。

 

地蔵のようなフクノカミの姿は、生粋の島の人には普通の男性にしか見えず、その本当の姿は、島の外から来た人にのみ見えるのだった。当然外から訪れた者の中には、フクノカミの姿を目にし、その正体を暴こうとするものもあった。女性作家の黒蓮、刑事の酒巻…だが、黒蓮とともに行動していた編集者の青木は、東京に帰るとフクノカミの記憶を喪失してしまうため、取材の話は進まず、そして、酒巻も警察は人間しか相手にしないと、フクノカミに関わることを止めてしまう。

 

その間にも、町子の店はコンビニとなり、さらにショッピングモールさえ新設されようとしていた。寧島の港周辺には、繁華街が生まれ、観光客が殺到する。どこまで島は栄えるのか、実は過去の歴史をひもとくと、寧島が大きく栄えた時期があった。そして、あるときその繁栄は惨劇とともに終止符を打ったのだった。

 

フクノカミの存在は、実は最初にフクノカミを祀った流花の祈り、彼女が密かに想いを寄せる同級生の及川が、大阪まで高校進学しなくていいように、アニメイトが島にできてほしいという祈りに拘束されているらしかった。

 

『ゴールデンゴールド』は、5巻末において、さらに二体のフクノカミの仲間が登場する。

                 *                      *  

この6巻では、パチンコ屋の建設を巡り、賛成派と反対派が対立し合うが、それぞれにフクノカミの仲間が紛れ込み、加担しているようだった。両者の関係ははたして、プロレスなのか、それとも本気のバトルなのか、その結果もたらされるものは何か?

 

フクノカミの存在は、いわば人間の欲望や情念を可視化したものと言える。人間の欲望が肥大すれば、その力は強力になり、それが小さくなればその力は弱くなり、身体もやせこけてしまう。

 

二つのフクノカミの分身は異なる欲望や情念を表現する。とすれば、ある感情が別の感情を凌ぐようになれば、その力関係も変動するに違いない。

 

『ゴールデンゴールド』で描かれたことは、実はフクノカミの存在を不可視にしても、いつでも現実に起こりうることばかりだ。そして、多くの離島の住民は、迫りくる少子化過疎化に逆行するような一発逆転の繁栄を願っている。

 

『ゴールデンゴールド』は、荒唐無稽な物語の設定を通じて、地方のリアルを、そこに住む人の願望の悲喜劇を、不気味なフクノカミというゆるキャラのもと、残酷なまでに描き尽くした傑作である。

飲茶『正義の教室 善く生きるための哲学入門』

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火事場で消防士の行く手には、左手には自分の娘がいた。そして、右手には何人もの子どもの泣き叫ぶ声が。どちらを助けるべきか?

もしも嘘をつくことは悪いこと、なら殺人犯が家族の居場所を聞いたら、正直に答えるべきだろうか?

 

こんな極限状況の選択を前にして、いかに行動するのが人間として正しいのか?そうすることで正義の本質を考えさせるのが『地上最強の哲学入門』の著者飲茶による、小説形式の哲学入門書『正義の教室 善く生きるための哲学入門』(ダイアモンド社)である。人類の歴史の中で、正義とは何か、何が正しいのかを語ってきたいくつもの哲学が高校生や教師の言葉によって召喚され、さまざまなシチュエーションの中でその妥当性が検証される。

 

舞台となるのは、とある高校の生徒会の定例会議。主人公は、高校2年生で生徒会長の山下正義だ。

 

彼を取り囲むのは、生徒会の三人の女性。これはハーレムなのか、針のむしろなのか。

 

生徒会の副会長の徳川倫理は、高校1年のときのクラスメートだが、学校の良心と異名をとるほどの模範的な優等生。

最上千幸は、生徒会の会計、正義の幼なじみだが、ことあるごとに正義を学級委員長や生徒会長に推薦してきた因縁付の相手だ。

ミユウことLiberty・自由(ミユウ)・Freedomは、高校3年生。生徒会の庶務で、ハーフである。

 

この四人から、生徒会はなるが、つねに生徒会室では白熱の議論が交わされる。

 

たとえば、購買部で売っている焼きそばパンを買い占め、50円高く売ることは正しいか、間違っているか。

 

倫理は、それは正義に反する行為であるといい、千幸はみんなハッピーになるからその方がいいと言う。

 

「ほら!購買部のおばさんは焼きそばパンが全部売れてハッピー!転売する人はお金が儲かってハッピー!たくさんお金を出してでも食べたい人は食べられてハッピー!焼きそばパンは自分を真に求めてる人のもとに行けてハッピー!どう考えても、全体の幸福度、すなわちハッピーポイントの合計値は向上していると言わざるを得ないわ!」p28

 

これに対して、ミユウは余分な規則はできるだけ少なくすべきだと言い、パンの転売を容認するスタンス。

 

けれども、話はそこで終わらなかった。倫理が、購買部で手術の権利を転売するのははたして正しい行為かと、問いかけ始めたのである。焼きそばパンと一体何が異なるのだろうか?

 

白熱した議論の中、それぞれの正しいとする考え方をどんどんと条件を変えてあてはめながら、議論は展開する。しかし、それがエスカレートするうちに、いつしか正しいかどうかわからない地点にと到達してしまう。一体何が起こっているのだろうか。

 

正義はいつの時代も変わらないものなのか、それとも時代とともに変わりゆくものなのかも問われることになるだろう。

 

倫理、千幸、ミユウは、それぞれに名前と結びついたある哲学を体現した存在であるが、単なる記号の着ぐるみではない。それぞれに何らかの過去の出来事があり、その選択の中で今の考えに至っている。そして、正義に対しても、それぞれに好悪の感情を持っている。つまり、学園ラブコメ的展開に走る可能性もつねにあるのだ。

 

正義が言う言葉に対し、激しく反論するような場合でも、実は隠れた好意の表れなのかもしれないし、個人の過去のトラウマの裏返しであるのかもしれない。屈折した感情が雪解けし、自分に正直になる瞬間が来るかもしれない。そして、迷いに迷ったあげく、正義が最後に選ぶのは誰なのか?そんな恋の行方を見守ることのできる物語でもある。

 

物語の前半で引き合いに出される哲学者は、功利主義のベンサムや、自由主義のJ・S・ミルだが、物語の後半では、ソクラテス、プラトンからフーコーまでの西洋の思想をおさらいしながら、今日までに何が起こってきたのかが、わかりやすく整理される。そして、「正義」の現在地までもが明かされることになるだろう。

 

一見、学園物のラノベ的なノリで書かれているが、その内容は西洋哲学における「正義」の概念を、ソクラテス的手法によって脱構築してみせた、離れ業の哲学小説。そのエッセンスは、単なる哲学史の記憶ではなく、人生の選択を後悔なく考えるための思考訓練である。

 

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