つぶやきコミューン

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坂口恭平『建設現場』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

坂口恭平の『思考都市 坂口恭平 Drawings 1999-2012』に収められたドローイングの中では、人間の頭部がそのまま都市となった絵がある。頭の中で都市を考えるのではなく、思考そのものが都市となりながら、外延として生成する。

 

2018年10月に刊行された小説『建設現場』は、そのまま思考都市を言語として生成したような小説である。

 

この都市の建築現場での作業に従事する「わたし」は、ある場所から別の場所へと移され、時に定期健診を受けさせられながら仕事している。

 

しかし、建設現場の至るところで、崩壊が生じてしまう。崩壊が生じても音もしないが、人々は崩壊が起こったと信じている。そして、次々に生じる崩壊のために、いつまで経っても、建造物は設計図通りに完成することがない。

 

 そうこうしているうちにまた崩壊がはじまった。わたしもすぐに図面をたたみ、一足先に向かっていった労働者たちの後ろから追いかけた。音もせず突然崩壊ははじまる。わたしは崩壊自体を止めないことには、この建設は永遠に終わらないと思うのだが、そういう議論は一切出ない。むしろ、崩壊は建設の一部であると思っているようだった。p21

 

一見すると、『建設現場』の世界は、カフカのいくつかの作品、たとえば『城』、あるいは『万里の長城(シナの長城)』(一区画が完成すると労働者たちは離れた別の場所へと移される)に似ている。具体的な場所があり、目の前の人とのやりとりが克明に描写されながら、今どこにいるのか、何のために何をやろうとしているのか、どこにたどりつこうとしているのか、全く見えてこない、官僚主義に支配されたディストピア的な世界であるようだ。

 

だが、一体一つの大きな違いがある。カフカの世界は、堅固で閉ざされた迷宮であるが、『建設現場』の世界は、完成を目指しながら、決して完成されることはない。設計図に沿って建設工事が行われる一方で、次々に崩壊が生じ続けるのである。

 

建設工事が、崩壊へと見舞われる。そんな神話を、私たちは知っている。『建設現場』の世界は、トラックやバス、クレーン車、エレベーターなどのある20世紀以降の文明社会のようだが、そこで起こっていることは、バベルの塔の神話そのものであるようにも見える。実際、古びた廃墟の塔が登場する。

 

 大きな塔が建っていた。はじめて見る建物だった。わたしはそこに以前、何が建っていたのか思い出そうとしたが、当然ながら微かな記憶すらすっかり消えてしまっている。塔は大火事で燃えたように真っ黒に焦げていた。

 廃墟になった塔に近づくと、壁は焼け落ち、中では無数の人間が働いていた。高層階ではクレーン車が首を突き出し、鉄骨を運んでいる。ここはわたしが働いていた場所のはずだ。それなのに、わたしは遠くへ来てしまったように感じていて、今すぐにでも帰りたくなっていた。pp240-241

 

そして、言葉もまた崩壊してしまっている。人々は名前を持っており、「わたし」もサルトという名前を持っているが、それは忘れられた名前をふと思い出しただけであり、本当のところ自分の名前であるという確信はえられない。ひょっとしたら、他の人の名前だったかもしれない。

 

「あなたの名前は?」

「サルト」

「それはあなたの本当の名前?」

「忘れてましたが、この前、思い出しました」

p77

 

『建設現場』におけるバベル的な問題は、人の書いた文字、人の話す言葉がわからないことだけでなく、自分の書いたはずの言葉がわからなくなることである。なぜなら、わたしは生成変化し、別のものになってしまうかもしれないからだ。

 

 自分が書いたものを、自ら書いたもかかわらず、わたしはまったく理解できなかった。p62

 

水平的な表層の移動において、官僚主義的ディストピアであった『建設現場』は、垂直のメタモルフォーゼのベクトルが加わることで、ユートピア的生態系を持った、別の世界へと足を踏み入れてしまう。

 

建設が行われる水平の世界は、言葉や図面で支配された、ロゴス中心的に秩序だった世界、「現実」である。しかし、その内部に生じる崩壊は、論理や図面から逃れ続ける感覚の世界、感性的な世界、自由な想像力の世界である。「わたし」は崩壊を食い止めようとして食い止めることができない。書きとめようとして書きとめることができない。崩壊の瞬間に生じるのは、「現実」からの脱出である。

 

  雨が降っていた。これが崩壊ならば、わたしにはなす術がなかった。ただ味わうしかなかった。わたしは動きを止めるどころか、排泄するように瓦礫は体から溢れ、そのまま積み重なると子どもたちが暮らす家の屋根や壁となって、次の瞬間には破裂するように飛び散った。破片は途中で向きを変え、記憶の中の植物や、建物の影になりかわっていった。わたしは、自分が自分でなくなっているような感覚に陥ったが、もう気にしなくなっていた。投げやりになっていたわけではなく、むしろ明晰になっていた。すべてが見えていた。蒸発し、霧になると、そのまま落下した。淀むことなく、まわりの細胞とつながると同時にわたしは生まれ、次の人間に生まれ変わっていった。男がこちらを見ていた。子どもたちもまたこちらを見ていた。彼らにはこれが日常なのか、驚いてはいなかった。わたしは残像のように次々と生まれ変わっていった。p124

 

「現実」とは異なる世界は、身体の内なる他者すべてが解放される世界である。そのためには、言葉や計画、図面の支配力が無効とならねばならない。それが崩壊なのだ。

 

『建設現場』には地図はないと言われるが、全体の見取り図を思い描くことは可能だ。隣り合ってA地区、B地区、C地区があり、「わたし」はC地区の工事に従事していた。海にも接するAの周辺にはF域がある。このF域は、C地区の中にも飛び地のようにF域を持っており、どうやらこのF域が崩壊と関わりがあるらしい。

 

  崩壊はC地区ではなく、F域で起きていた。普段なら違う区域で起きた崩壊であれば、行く必要がないのだが、昨日はC地区の労働者にも全員招集がかかったという。F域には何も建設されていない。そもそも建設現場の敷地外だった。F域はA地区の周辺に広がっている砂地のことを指していたが、なぜかC地区の中にも飛び地のようにF域があった。「今回の崩壊はA地区寄りのF域で起きたのだが、C地区内にあるF域が大きな影響を与えている」と地質課長が言い出したため、早朝に水屋の大幅な変更が決定したという。p67

 

F域は、建設現場の外部である。だが、建設現場の内部であるC域にも、メビウスの帯のように、F域が存在し(内部化された外部)、両者は、共鳴し合う。

 

かくして、F域の謎が問題となる。それは何なのか。そこで何が生じているのか。

 

「わたし」が出会ったトラックの運転手、小説も書いているロンは、その場所を「ムジク」と呼んだ。

 

それは、タルコフスキーの映画『ストーカー』に出てくる、「ゾーン」のような不思議な現象が起こる異世界なのか。

 

確かなことは、崩壊が始まり、「現実」とは異なる世界の法則が支配するときには、水の存在が優勢となる。それは、感覚と想像力の言葉、言葉なき言葉の世界である。

 

  われわれは水滴だった。水滴になる前の水蒸気だった。だからこそ、今もさまよっている。われわれは死んでもないのに姿を消した。見える者も見えなくなった。言葉を発しても、われわれは言葉ですらなくなった。川は雄弁だった。川が語ったことはわれわれの耳の中で鳴っている。それが言葉だった。それがわれわれの巣だった。p262

物語の終わり近くで、「理想宮」を築いたフェルディナン・シュヴァル のように、「わたし」は石を拾っては積み上げるうちに、それは天井の高さを越えた巨大な建築物となる。

 

 わたしはどこにいるのかわからなくなった。わたしがつくりつづけているんものはそれぐらい大きくなっていた。しかし、目に見えてわかるものではなかった。わたしがそう感じていただけだ。それにもかかわらず、気づくとわたしだけでなく、他の人間たちも暮らし始めていた。わたしがつくったものだとは誰も気づいてくれなかった。p297

 

その中に、人々は住み、町はできる。坂口恭平の思考都市から生まれた小説は、もうひとつの思考都市を築くことで終わりへと向かうのである。

 

『建築現場』は、脱構築的な物語、もう一つのバベルの物語である。そして、坂口恭平が、自分の内に築き上げた思考都市そのものである。読むことによって、その住人となりながら、この都市をさまよい歩く中で、読者は内なる未開のエリアを、新たな陸地を見つけることができるだろう。この世界は、一つの定まった解釈を受け入れることを拒絶する。私も『建設現場』のすべての意味を理解しているわけでも、記憶しているわけでもない。ゲームの世界のように、常に新しい冒険が可能であり、新しい意味を発見することのできる開かれた世界なのである。

 

 

関連ページ:

坂口恭平『現実宿り』

 

書評 | 20:55 | comments(0) | - | - |
鴻巣友季子『100分 de 名著 マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」』

 文中敬称略

 

 

『風と共に去りぬ』というと、ヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル主演ヴィクター・フレミング監督のハリウッド映画があまりにも有名である。要所要所で「タラのテーマ」が繰り返される中、広大な南部の自然、歴史の激動を背景に、「自由な」女スカーレット・オハラとちょい悪キザ男のレッド・バトラーを中心に繰り広げられるドラマチックなメロドラマ、そんなイメージ。

 

だが、その中には、原作とは異なる設定も、原作者が望まないような設定も多く含まれる。

 

たとえばスカーレットの容姿。
 

  実際、小説ではどんな容姿だと書いてあるのか。第一巻の一行目はこう書き出されています。「スカーレット・オハラは実のところ美人ではなかったが」。驚きですね。p21

 

本文中の特徴を抜きだしたスカーレットのイメージは、ヴィヴィアン・リーとは別の女性のものである。

 

  まとめてみると、背は低めで、つり目。エラ張り、首は短くふくよか、腕はむっちりしていて、バストは年齢にしては並外れて大きいがウエストは恐ろしく細くて、美脚。おそらく正統派美人というよりは、コンパクトグラマーで、ちょっとファニーフェイス気味の魅力的な女の子、というところだと思います。p22

 

そしてスカーレットの故郷であるタラの家。

 

 映画と原作でもう一つ大きく違うのは、スカーレットの実家<タラ>の外観です。映画のそれは、建物の前面に立派な支柱が四本立つギリシア復興様式的な邸宅ですが、実はこれは、ミッチェルが「頼むからこういう豪邸は絶対つくらないでください」とさんざん頼んだものそのままなのです。ミッチェルは、スクリーンで初めてこれを見たときは「死ぬほどショックだった」と言っています。p23

 

マーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』の原作とはどのようなものだったのか。それは一般に考えられているような田舎の文学少女によって描かれた大衆文学なのか。単に映画のイメージを修正するだけでなく、これまで語られることのなかった『風と共に去りぬ』に秘められた豊かな言語の世界を再発見する試みが、翻訳者鴻巣友季子『100分 de 名著 マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ』(NHK放送出版)である。

 

國分功一郎の『00分 de 名著 スピノザ「エチカ」』同様、本書は4回にわたるNHKのテレビ講座のテキストだが、そこには伊集院光や安倍知みち子といった他の出演者との掛け合いなどは含まれず、あくまで鴻巣による書き下ろしのテキストである。大まかな流れや、トピックに関しては共通しているが、異なる構成とディテールを持っており、独立した一冊の本として読むことができる。

 

「第1回 一筋縄ではいかない物語」では、まずミッチェルの生い立ちと『風と共に去りぬ』執筆に至るまでの経緯が語られる。とりわけ「完璧なレディ」と言われた母メアリー・イザベルの存在が重要だ。

 

  娘が野球や乗馬で男の子たちを負かすのを喜んだり、新しい時代の強いサバイバーになってほしいと自ら銃の撃ち方をみっちり仕込んだりする一方、幼い頃から娘をお作法教室やバレエ・レッスンに通わせ、上品な「南部の貴婦人サザン・ベル」となるべく、小さなレディとして振る舞うことを強いました。つまり、男性的な面と女性的な面の両方を娘に求めたのです。p16

 

この母親の影響は、『風と共に去りぬ』の登場人物にも影を落とす。それは、スカーレット・オハラだけではないのである。

 

マーゲレット・ミッチェルは、時代的にはアーネスト・ヘミングウェイや、スコット・フィッツジェラルドとも同時代でありながら、当時の文学の世界を席巻していた、マルセル・プルーストやジェームズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフといったモダニズムの「意識の流れ」の潮流に抗して、この作品の文体を練り上げたことがミッチェルの手紙を引用しながら語られる。

 

 『風と共に去りぬ』の一気呵成に読ませる文体は、アマチュア作家の若書きだと思われてしまいがちですが、この手紙からは、ミッチェルが自覚的にモダニズムに背を向け、高度な文体戦略を持ってこの作品を書き上げたことがうかがえます。p14

 

さらに原作のあらすじや、登場する人物のキャラクターについて、相互の関係性の中で、詳しい解説が行われる。中でも「似た者同士」という関係性は、最大のキーワードとなる。

 

 実は、スカーレット、アシュリ、メラニー、そしてレットという主役の四人は、それぞれが似た者同士であり、互いの分身であるような関係になっています。p26

 

日本の漫画やアニメに登場する「萌え」や、「どS男子」の原点に、『風と共に去りぬ』があるとする鴻巣の指摘は、新鮮で目から鱗が落ちまくる展開である。

 

「第2回 アメリカの光と影」では、特に南北戦争にフォーカスしながら、マーガレット・ミッチェルの戦争に対する態度や、南北戦争をめぐってしだいに強いものとなる、スカーレットともう一人のヒロインメラニーとの絆などが語られる。

 

特に面白いのは、母親のエレンとレット・バトラーをスカーレットの二人の庇護者(「二人の母親」)と位置づけるところである。

 

またこの回には、南北戦争の詳しい解説が行われるが、物語内の出来事を、歴史的な出来事の中に挿入した略年譜も、素晴らしい。

 

なぜスカーレットは二人の保護者を失い、自立しなければならなかったのか。大きな社会の変化とともにこの物語の紆余曲折を理解する方法が語られる。


強調される土地との絆。『風と共に去りぬ』というタイトルに込められた謎もここで解き明かされるのである。

 

「第3回 運命に立ち向かう女」では、性悪女であるスカーレットがなぜ嫌われないのか、マーガレット・ミッチェルの文体のマジックが語られる。

 

三人称で語りながらも実は人物の内面の動きを語る自由間接話法や、内的独白である自由直接話法を駆使しながら、ミッチェルは人物への共感と批評を交互に滑り込ませている。それを鴻巣は「ボケとツッコミ文体」と名づけている。

 

 ミッチェルは、地の文に溶け込むこれらの話法を駆使し、スカーレットに味方する(ボケ)、かと思うといきなり辛辣な指摘を滑り込ませてきたり、スカーレットの腹黒い心中を暴き出して批判したりします(ツッコミ)。pp76-77

 

物語の進行とともにより際立ってくるスカーレットやメラニーを通じて描かれる女性像と同時に、物語の中でミッチェルが行った南部社会の批判についても解説される。

 

 女が事業家として成功したということで、街にはやっかみや反感が渦巻きます。しかし、スカーレットはそうした圧力には全く屈しません。昔から人と足並がそろわないことには慣れていますから、わが道を行くことを貫き通します。

 ここから一歩拡げて、彼女が全体主義に対して強烈な猜疑心を持っていることにも触れておきましょう。これは反戦思想にもつながるもので、この小説の中でスカーレットというキャラクターが担う重要なポイントになっています。p85

 

そして「第4回 すれ違う愛」では、物語の後半でのスカーレットとレット、そして共通の友人であるメラニーとの錯綜した関係の変容について、切れ者の探偵のような目で、解説が行われる。

 

けれども、最後の場面まで解説があまりに行き届きすぎているがゆえに、ひと言。第三回まで読んだ人は、第四回を読み終える前に、もしも未読であるなら、『風と共に去りぬ』を読み始め、できることなら読み終えてしまった方がよいということである。


    

                              

やはり、結末に至る道筋は、まず自分の目で確認し、数々の疑問を胸に悶々とするにこしたことはない。

 

『100分 de 名著 マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ』は、コンパクトな中にも、原作のエッセンスと必要な予備知識を完備した、ファンを一層の深みに引きずり込み、食わず嫌いの読書家の見方をも一変させる最強のガイドブックであるが、その最大の欠点は、最初の一行から最後の一行まで、物語の隅々まで至れり尽くせりであるがゆえの、限りなく透明に近いネタバレ、取り扱い注意本ということである。

 

 

 

 

PS

1.さらに『風と共に去りぬ』の謎を解き明かしたい人は、鴻巣友季子『謎とき『風と共に去りぬ:矛盾と葛藤にみちた世界文学 (新潮選書)を。

2.ミッチェルの原文に触れ、英語力に磨きをかけたい人は、鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ちくまプリマ―新書)がお勧め。最後の第10章がマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』ーーー心の声を訳すと、「ボケとツッコミの構造」がわかるとなっている。

迫稔雄『バトゥーキ』1、2

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

 

カポエイラ(カポエラ)ーーーかつて『空手バカ一代』で大山倍達が対決し、『デスノート』のLもまたその使い手とされたブラジルに伝わる伝説の格闘技。だが、あくまで一つのエピソード的な扱いにすぎなかった。『嘘喰い』の迫稔雄の新作『バトゥーキ』(2019年1月に1、2巻が同時刊行)は、そのカポエイラの世界を正面から扱ったコミック、一人の少女のカポエイラとの運命的出会いを描く青春格闘技巨編である。

 

三條一里は、中学生。生まれてまもないころの満月と遺棄された時間をおぼろな記憶を抱える少女だった。父親の仕事のため、引っ越しが相次ぎ、習い事も部活もまともにやれせてもらえなかった一里が得意としたのはスケートボード、一人で公園でスケボー遊びばかりやる毎日だった。

 

そんな彼女が、公園で出会ったのがポルトガル語を操る外国人のホームレス風の男だった。

 

ある日、コンビニで、ナイフを持った強盗を、その男が地面に手をつける不思議な蹴り技で倒すのを、間近に目撃した一里は、友人の佐伯栄子と、その兄佐伯悠人とともに、男から謎の格闘技を習い始める。

 

これは本当の私との出会いの旅

その始まりであった

 

男が取り出した弓と思われたものは、実は楽器だった。

楽器が奏でる不思議な音楽、それとともに始まる歌。

 

「それは何」と、一里が尋ねたとき、男の口から語られたのは、Batuque(バトゥーキ)という言葉だった。

 

おじさんがやっているのは何?

バトゥーキって何?

歌?音楽?格闘技?

おじさんは何なの?

 

「自由」とだけ男は答えた。

 

助手をつとめる小学生の少年双刃純悟の案内で、倒れるような不安定な姿勢で動き回ったり、相手に向かい勢いよく踏み込むパオの動きに興じる一里たち、やがてその動きがブラジルに伝わる伝説の格闘技カポエイラであり、男がカポエイラの達人(メストレ)であることを知る。

 

だが、コンビニ強盗の動画がネット上で拡散したことで、運命の歯車が狂い始めていた。

 

一里の出生の秘密、父親と母親の正体や、その背後にある組織までもが明らかにされ、その歯車の中に一里は巻き込まれてゆく。

 

『嘘喰い』の迫稔雄は、細密画を思わせる緻密なタッチで、ときにくねくねと身体をのけぞらせ、ときに地面に手をつき這いつくばっては、変幻自在の蹴り技を繰り出すカポエイラの動きを見事に表現している。

 

そして、喜怒哀楽がダイレクトに現れる一里の表情や、父親やメストレの背後に見え隠れする深くダークな世界に、ドラマチックな表現を与えている。

 

一体、一里の行く先に何が待ち受けているのか?

 

言葉では表現しがたいエスニックな格闘技と音楽の世界へと読者を導く『バトゥーキ』は、期待度120%の傑作コミックである。

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