JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
Kindle版
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『YouTube革命 メディアを変える挑戦者』(文藝春秋)(渡会圭子訳、落合陽一解説)は、YouTubeがもたらした全地球規模での表現の変化、ビジネスの変化を、YouTubeの副社長であるロバート・キンセルとGoogleの筆頭ライターマーニー・ぺイヴァンがまとめたYouTube総括の書である。
2005年2月に設立、その12月にはサービスを開始した動画共有サービスのYouTube。今年で13年になるだけに、このタイトルを見ても、何を今さらの感を覚える人も多いことだろう。YouTubeの登場のインパクトはすでに十年も昔から語られてきたものである。しかし、本書で扱われるのは、ニック・ビルトンの『ツイッター創業物語』のような、スタートアップ時の苦労話ではない。あくまでユーザーサイドに立って、世界の津々浦々でいかにしてYouTubeが活用され、それが人々の生活やビジネスのかたちを変化させてきたかという、無数のケーススタディの集大成である。
私がこの本を書いたのは、YouTubeの始まりを語るためではない。「業界を破壊した」あるいは「ルールを書き換えた」シリコンバレーの新興企業の、ありふれた企業物語を書くためではない。YouTubeを使ってすばらしいことをした、信じられないような才能を持つ数多くのクリエーターや起業家たちの物語を伝えたいと思ったからだ。その中には人気のテレビドラマより、多くの視聴者を集める人もいる。ビジネスを立ち上げて繁盛させた人もいる。しかし全員に共通して言えるのは、根本からメディアの仕組みを変革しているということだ。
今や、YouTuberが大統領や首相にインタビューできる時代、日本で私たちが考えるよりもはるかに大きなマーケットを形成し、大きな影響力を社会に及ぼし、ビジネスモデルそのものを大きく変化させつつあるのだ。
本書の構成は以下の通り。章題のあとに、文章のかたちで、内容の簡略な説明が付されている。たとえば第一章であれば「いま、メディア界ではとてつもない変化が起きている。世界中で絶大な人気を誇るユーチューバ―たち。その影響力は、音楽、映画、小説、スポーツ、広告へと波及しているのだ。」第三章であれば、「全米で最も成功したユーチューバ―、ジョン・グリーン。彼の小説は、全世界で二〇〇〇万部も売れ、映画化されると全米一位へ。その秘密はファンづくりにあった。」という風に、
序章 何を見るかを決めるのは私たちだー鉄のカーテンの向こう側から
第一章 ユーチューバ―の誕生
第二章 大手メディアから覇権を奪う
第三章 オンラインコミュニティでファンを育てる
第四章 ユーチューバ―が社会を変える
第五章 国境を軽々と越える
第六章 見たことないものを、見せてほしい
第七章 おばあちゃんユーチューバ―、世界一有名なキルト作家になる
第八章 成功するユーチューバ―の条件
第九章 ストリーミングのマネタイズ方法
第十章 あらたなジャーナリズムの担い手へ
第十一章 ユーチューバ―が広告をつくる
第十二章 ジャスティン・ビーバーの物語
第十三章 Z世代とYouTubeの未来
おわりに 次世代のエンターテイナー、教育者、指導者、企業家たちは世界中にいる
私たちが想像するよりもずっと大きなスケールで、そして多種多様な分野で、YouTubeによる変化は今も生じつつある。たとえば「サイショ―」や「クラッシュコース」という教育チャンネルは登録者数一千万を超え、世界中で使われている(第三章)。
『クラッシュコース』は世界中の高校のカリキュラムで使われ、最新の教科書を購入する余裕がない多くの学校にとって救いとなっている。『サイショ―』から新しいチャンネルが三つ生まれた。一つは宇宙、もう一つは心理学専門で、さらに幼児向きのものができた(『クラッシュコース』にも子ども向けチャンネルがある)。
NBAの選手デニス・ロッドマンを北朝鮮に連れてゆき、現地で撮影したVice Mediaのように既成のメディアの撮影不可能なジャーナリズムのコンテンツを配信することもできるし(第十一章)、LGBTQ(QはQuestioningの略で「自らの性的アイデンティティが定まっていない」人のこと)のカミングアウトとその支援のネットワークを形成することもできる(第四章)。国境を越えて世界的なアイドルとなったインド系カナダ人の女性リリー・シンの例もある。彼女はポリウッドの人気俳優、「世界最大のスター」と呼ばれるシャー・ルク・カーンに、ファンである娘に会ってほしいと自宅に招待されたのだ(第五章)。おばあちゃんのキルト作成のチュートリアル映像が、単にビジネスとして家計を支える富を生むだけでなく、町全体をキルトの聖地に変えたミズーリ・スター・キルトの物語はとりわけ感動的だ(第七章)。
二〇一六年に私が訪問したとき、ミズーリ・スター・キルト社はハミルトンの中心部をなすノースディヴィス通りに、一七の店を構えていた。そこには、ハンバーガー・レストラン、ベーカリー、地元の農家の食材を使うレストラン、一週間に及ぶキルティング合宿を年間五十回開催するソーイング・センターなどがある。
単に、成功者の例を紹介するだけでなく、その成功の条件を探ろうとする自己啓発書的な側面もある(第八章)。
「他の人がすでにやっていることをまねて、YouTubeで成功しようと思ったら、その時点で失敗だ。似たような道は二つもない……。そしてYouTubeで成功したければ、自分だけの道をつくらなければならない。(…)」
あるいは
「ぼくらはみんなインターネットの申し子で、注意力が長く続かない。十五秒で別の動画をクリックされてしまう。それにビデオの前に五秒間の広告がある。それが十五秒のうちの五秒だ。そうなる十秒で視聴者の心をつかまなくてはならない」
UStream(2007-2017)などライバル企業が姿を消す中で、YouTubeが世界でも類を見ないサービスとして成長しえた大きな要因として、配信者よりも著作権者の利益になる収益システムを整備したことが大きい。この処置によって、投稿者は著作権の問題に頭を悩ますことなく自由な表現が可能となり、権利者は自ら動くことなしに大きな富を得ることも可能になったのである。
しかしYouTubeの収益分配のもっとも重要な結果は、インターネット上でのコンテンツ・クリエイターたちの仕事の民主化である。私たちは毎月、世界中の何百万人ものクリエイターたちの口座に送金する。その金がストリームパンクのキャリアをスタートさせる助けとなる。それがエンターテイメイン界でのキャリアを、コネと運に恵まれた人だけのものではなく、ほぼすべての人に開かれた道に変える。(第一章)
一発芸など奇をてらった表現手段や炎上ビジネスの手段としてのイメージは、日本の一般の人々からはまだ払拭されておらず、過小評価されてきたYouTubeだが、芸術やメディア的な表現の意味でも、教育の手段としても、ビジネスの可能性としても、想像をはるかに超える宝の山が眠っていることを私たちは知るのである。
単なる視聴者として楽しんでいたYouTubeが実は自らの夢や可能性の実現手段となりうるのではないのか。YouTubeを用いることで今までできなかった何かが可能なのではないか。発信する言語に英語を加え、世界全体へとマーケットを広げることで、すでに手がけているビジネスのスケールを数段大きなものに変えることができるのではないか。そのようなアイデアが、ブレーンストームのように、読者の頭の中で生まれ続ける、それこそが本書の最大の価値だろう。
【「解説 デジタルネイチャー時代のクリエーション、マスと個人メディアを「廻」って」について】
「デジタルネイチャー時代のクリエーション、マスと個人メディアを「廻」って」というタイトルで、巻末の解説を、筑波大准教授でメディアアーティストの落合陽一が書いているが、きわめて抽象度や密度の高い文章で、『魔法の世紀』と現在執筆中の『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』(仮題)の間に位置づけられるものであろう。
真実よりも快適な幻想を嗜好するSNSの自閉的な傾向を、「貧者のVR」と呼んだ落合だが、本書の中にはポジティブな多くの傾向を認めている。そして、YouTubeに認められるフレームのある二次元メディアからフレームのない三次元メディアへの過渡期の変化を、次のように総括している。
それは身体性に基づいて三次元的な展開をもたらす二次元映像出入力装置としてのスマートフォンの、そして映像配信チャンネルとしてのソフトウェアクラウド「YouTube」の可能性である。我々はデジタルネイチャーへ向かう2018年を生きている。この世界は、デジタルと非デジタルの境界線が未だシームレスでもボーダーレスでもなく、その結合のインフラ的発展が過渡期である世界を、未だ不完全なディスプレイとセンサーと充分な速度を持たない処理系・電信系を携えて生きている段階にある。ハードウェアは不完全で、コンテンツを規定するメディアの<フレームワーク>は充分であるとはいえないが、このソフトウェア的側面、<様式>は今後にも残っていくであろう。そのソフト的な側面<様式>とは、大規模な共有のための例えばテレビを代表とするマスメディアのような大規模発信装置と、プロトタイプや解像度向上のためのリアリティ指向の小規模グループの敵対的生成関係、その間の行き来によって形成される進化ゲーム的なメソッドだ。
「敵対的生成」関係がキーワードとなっている。個人発信メディアとマスメディアは単なる並行状態ではなく、フィードバックにより相互発展の中、いくつものバリエーションを生み出す。マス系と個人系の異種交配による、複合的な亜種が無数に生み出される状態を、落合は<映像3.0>(または<映像のシンギュラリティ>)と呼んでいる。そのようなデジタルネイチャーに向かう包括的なビジョンの中に、本書は位置づけられているのである。
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