つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< April 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
 
ARCHIVES
RECENT COMMENT
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
ロバート・キンセル、マーニー・ぺイヴァン『YouTube革命 メディアを変える挑戦者たち』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

  Kindle版

*Kindle版は2018/5/6まで50%ポイント還元中

 

『YouTube革命 メディアを変える挑戦者』(文藝春秋)(渡会圭子訳、落合陽一解説)は、YouTubeがもたらした全地球規模での表現の変化、ビジネスの変化を、YouTubeの副社長であるロバート・キンセルとGoogleの筆頭ライターマーニー・ぺイヴァンがまとめたYouTube総括の書である。

 

2005年2月に設立、その12月にはサービスを開始した動画共有サービスのYouTube。今年で13年になるだけに、このタイトルを見ても、何を今さらの感を覚える人も多いことだろう。YouTubeの登場のインパクトはすでに十年も昔から語られてきたものである。しかし、本書で扱われるのは、ニック・ビルトンの『ツイッター創業物語』のような、スタートアップ時の苦労話ではない。あくまでユーザーサイドに立って、世界の津々浦々でいかにしてYouTubeが活用され、それが人々の生活やビジネスのかたちを変化させてきたかという、無数のケーススタディの集大成である。

 

 私がこの本を書いたのは、YouTubeの始まりを語るためではない。「業界を破壊した」あるいは「ルールを書き換えた」シリコンバレーの新興企業の、ありふれた企業物語を書くためではない。YouTubeを使ってすばらしいことをした、信じられないような才能を持つ数多くのクリエーターや起業家たちの物語を伝えたいと思ったからだ。その中には人気のテレビドラマより、多くの視聴者を集める人もいる。ビジネスを立ち上げて繁盛させた人もいる。しかし全員に共通して言えるのは、根本からメディアの仕組みを変革しているということだ。

 

今や、YouTuberが大統領や首相にインタビューできる時代、日本で私たちが考えるよりもはるかに大きなマーケットを形成し、大きな影響力を社会に及ぼし、ビジネスモデルそのものを大きく変化させつつあるのだ。


本書の構成は以下の通り。章題のあとに、文章のかたちで、内容の簡略な説明が付されている。たとえば第一章であれば「いま、メディア界ではとてつもない変化が起きている。世界中で絶大な人気を誇るユーチューバ―たち。その影響力は、音楽、映画、小説、スポーツ、広告へと波及しているのだ。」第三章であれば、「全米で最も成功したユーチューバ―、ジョン・グリーン。彼の小説は、全世界で二〇〇〇万部も売れ、映画化されると全米一位へ。その秘密はファンづくりにあった。」という風に、

 

序章 何を見るかを決めるのは私たちだー鉄のカーテンの向こう側から

第一章 ユーチューバ―の誕生

第二章 大手メディアから覇権を奪う

第三章 オンラインコミュニティでファンを育てる

第四章 ユーチューバ―が社会を変える

第五章 国境を軽々と越える

第六章 見たことないものを、見せてほしい

第七章 おばあちゃんユーチューバ―、世界一有名なキルト作家になる

第八章 成功するユーチューバ―の条件

第九章 ストリーミングのマネタイズ方法

第十章 あらたなジャーナリズムの担い手へ

第十一章 ユーチューバ―が広告をつくる

第十二章 ジャスティン・ビーバーの物語

第十三章 Z世代とYouTubeの未来

おわりに 次世代のエンターテイナー、教育者、指導者、企業家たちは世界中にいる

 

私たちが想像するよりもずっと大きなスケールで、そして多種多様な分野で、YouTubeによる変化は今も生じつつある。たとえば「サイショ―」や「クラッシュコース」という教育チャンネルは登録者数一千万を超え、世界中で使われている(第三章)。

 

『クラッシュコース』は世界中の高校のカリキュラムで使われ、最新の教科書を購入する余裕がない多くの学校にとって救いとなっている。『サイショ―』から新しいチャンネルが三つ生まれた。一つは宇宙、もう一つは心理学専門で、さらに幼児向きのものができた(『クラッシュコース』にも子ども向けチャンネルがある)。

 

NBAの選手デニス・ロッドマンを北朝鮮に連れてゆき、現地で撮影したVice Mediaのように既成のメディアの撮影不可能なジャーナリズムのコンテンツを配信することもできるし(第十一章)、LGBTQ(QはQuestioningの略で「自らの性的アイデンティティが定まっていない」人のこと)のカミングアウトとその支援のネットワークを形成することもできる(第四章)。国境を越えて世界的なアイドルとなったインド系カナダ人の女性リリー・シンの例もある。彼女はポリウッドの人気俳優、「世界最大のスター」と呼ばれるシャー・ルク・カーンに、ファンである娘に会ってほしいと自宅に招待されたのだ(第五章)。おばあちゃんのキルト作成のチュートリアル映像が、単にビジネスとして家計を支える富を生むだけでなく、町全体をキルトの聖地に変えたミズーリ・スター・キルトの物語はとりわけ感動的だ(第七章)。

 

 二〇一六年に私が訪問したとき、ミズーリ・スター・キルト社はハミルトンの中心部をなすノースディヴィス通りに、一七の店を構えていた。そこには、ハンバーガー・レストラン、ベーカリー、地元の農家の食材を使うレストラン、一週間に及ぶキルティング合宿を年間五十回開催するソーイング・センターなどがある。

 

単に、成功者の例を紹介するだけでなく、その成功の条件を探ろうとする自己啓発書的な側面もある(第八章)。

 

「他の人がすでにやっていることをまねて、YouTubeで成功しようと思ったら、その時点で失敗だ。似たような道は二つもない……。そしてYouTubeで成功したければ、自分だけの道をつくらなければならない。(…)

 

あるいは

 

「ぼくらはみんなインターネットの申し子で、注意力が長く続かない。十五秒で別の動画をクリックされてしまう。それにビデオの前に五秒間の広告がある。それが十五秒のうちの五秒だ。そうなる十秒で視聴者の心をつかまなくてはならない」

 

UStream(2007-2017)などライバル企業が姿を消す中で、YouTubeが世界でも類を見ないサービスとして成長しえた大きな要因として、配信者よりも著作権者の利益になる収益システムを整備したことが大きい。この処置によって、投稿者は著作権の問題に頭を悩ますことなく自由な表現が可能となり、権利者は自ら動くことなしに大きな富を得ることも可能になったのである。

 

しかしYouTubeの収益分配のもっとも重要な結果は、インターネット上でのコンテンツ・クリエイターたちの仕事の民主化である。私たちは毎月、世界中の何百万人ものクリエイターたちの口座に送金する。その金がストリームパンクのキャリアをスタートさせる助けとなる。それがエンターテイメイン界でのキャリアを、コネと運に恵まれた人だけのものではなく、ほぼすべての人に開かれた道に変える。(第一章)

 

一発芸など奇をてらった表現手段や炎上ビジネスの手段としてのイメージは、日本の一般の人々からはまだ払拭されておらず、過小評価されてきたYouTubeだが、芸術やメディア的な表現の意味でも、教育の手段としても、ビジネスの可能性としても、想像をはるかに超える宝の山が眠っていることを私たちは知るのである。

 

単なる視聴者として楽しんでいたYouTubeが実は自らの夢や可能性の実現手段となりうるのではないのか。YouTubeを用いることで今までできなかった何かが可能なのではないか。発信する言語に英語を加え、世界全体へとマーケットを広げることで、すでに手がけているビジネスのスケールを数段大きなものに変えることができるのではないか。そのようなアイデアが、ブレーンストームのように、読者の頭の中で生まれ続ける、それこそが本書の最大の価値だろう。

 

【「解説 デジタルネイチャー時代のクリエーション、マスと個人メディアを「廻」って」について】

 

「デジタルネイチャー時代のクリエーション、マスと個人メディアを「廻」って」というタイトルで、巻末の解説を、筑波大准教授でメディアアーティストの落合陽一が書いているが、きわめて抽象度や密度の高い文章で、『魔法の世紀』と現在執筆中の『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』(仮題)の間に位置づけられるものであろう。

 

真実よりも快適な幻想を嗜好するSNSの自閉的な傾向を、「貧者のVR」と呼んだ落合だが、本書の中にはポジティブな多くの傾向を認めている。そして、YouTubeに認められるフレームのある二次元メディアからフレームのない三次元メディアへの過渡期の変化を、次のように総括している。

 

それは身体性に基づいて三次元的な展開をもたらす二次元映像出入力装置としてのスマートフォンの、そして映像配信チャンネルとしてのソフトウェアクラウド「YouTube」の可能性である。我々はデジタルネイチャーへ向かう2018年を生きている。この世界は、デジタルと非デジタルの境界線が未だシームレスでもボーダーレスでもなく、その結合のインフラ的発展が過渡期である世界を、未だ不完全なディスプレイとセンサーと充分な速度を持たない処理系・電信系を携えて生きている段階にある。ハードウェアは不完全で、コンテンツを規定するメディアの<フレームワーク>は充分であるとはいえないが、このソフトウェア的側面、<様式>は今後にも残っていくであろう。そのソフト的な側面<様式>とは、大規模な共有のための例えばテレビを代表とするマスメディアのような大規模発信装置と、プロトタイプや解像度向上のためのリアリティ指向の小規模グループの敵対的生成関係、その間の行き来によって形成される進化ゲーム的なメソッドだ。

 

「敵対的生成」関係がキーワードとなっている。個人発信メディアとマスメディアは単なる並行状態ではなく、フィードバックにより相互発展の中、いくつものバリエーションを生み出す。マス系と個人系の異種交配による、複合的な亜種が無数に生み出される状態を、落合は<映像3.0>(または<映像のシンギュラリティ>)と呼んでいる。そのようなデジタルネイチャーに向かう包括的なビジョンの中に、本書は位置づけられているのである。
 

関連ページ:

高野秀行『間違う力』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略   ver.1.01

 

 

高野秀行『間違う力』(角川新書)は、本来オンリーワンになるための方法をまとめてほしいという編集者の依頼によって始まったものであるらしい。けれでも、私たち高野ファンにとっては、高野秀行とは何者か、その冒険の数々と著作の全体を見渡すことのできる最強のガイドマップとなっている。

 

本来は何の変哲もない普通の子どもだったという高野秀行。早稲田大学探検部へ入ったのが、運命の分かれ目だった。そこは、世間の常識が一切通じない強者どもが寄り集まる世界。大学時代に、「モケーレ・ムベンベ」を追いかけて、コンゴへ出かける。それが『幻獣ムベンベを追え』という形になった。フランス文学科の卒論には自分で翻訳したコンゴの小説を題材にする。卒業後の進路として選んだのは、タイの日本語教師の職だったが、謎の押しかけ美女に付きまとわれる羽目になる。ムベンベ以降も、中国の野人、インドの怪魚ウモッカ、トルコの巨大水棲重ジャナワールなど数々のUMA(未確認動物)の正体をつきとめるため、世界中へ飛ぶ。西南シルクロードへの旅では、インドへ密入国するも、強制送還されてしまう。ビルマのアヘン王国に潜入し、阿片の栽培に従事するが、阿片中毒から抜けるため帰国後アル中になってしまう。酒がタブーであるはずのイスラム世界では、ひたすら酒を飲むだけで、それでも酒を飲もうとする怪しい人物を取材することができた。そして、ソマリランドとソマリアへ潜入。あまりに危険であるため、誰も書けなかったこの二つの国では、ついに押しも押されぬ第一人者になってしまう。

 

『間違う力』は、ざっとその足跡を紹介しただけで、ただ者ではないとわかる辺境作家高野秀行の冒険・探検の旅のエピソードがぎっしりと詰まった本、高野ワールドの総集編的な本なのである。

 

著者は、それを十箇条の人生訓にまとめているが、これは多分に本として読みやすくするため工夫であって、実際には四つくらいの原則にまとめられると思う。

 

1.ブルーオーシャン理論

 

最初高野はアフリカを攻略しようと思った。しかし、アフリカはどこもヨーロッパの植民地で、言語のレベルでの支配が今も続いている。そこに英語もフランス語もまともに話すことのできない自分が食い込もうとしても大した成果をあげられるはずがないとあきらめる。南米も同じで、こちらはアメリカの支配下にある。

 

 結局のところ、アフリカも南米も欧米の影響を免れない。欧米のジャーナリストや作家と競合しなければならない。別に競合する必要もないし、向こうでは屁とも思わないだろうが、意外なところでまじめな私は「これでは勝てない」と思った。(第9条 奇襲に頼る、p171)

 

だから、アジア各地をめぐることに集中したのである。つまり、高野秀行にとってはアフリカも南米も、すでに先駆者が数多くいるレッドオーシャンであり、アジアは未開拓のブルーオーシャンだと思われたのだ。UMA(未確認動物)を探すにしても、ネッシーなどのメジャーなものは目指さず、無名のマイナーなものをターゲットとする。

 

 さて、そこでネス湖のネッシーである。これまで無数の人々が探索している。巨額の予算を投じた大規模な科学調査も行われている。それでも見つからないということは、何もバックをもたない個人の私が行っても発見できる可能性はかぎりなくゼロに近い。雪男も同様だ。個人で探している人の話を雑誌などで読むと、「ご苦労なことだ」と思う。

 合理的に考えるかぎり、メジャーな未知動物の発見は困難だ。だから私のような後発の個人は、マイナーな未知動物、言ってみれば「未知の未知動物」を狙うべきなのだ。(第3条 合理的に奇跡を狙う、p63)

 

2.セレンディピティ

 

要するに、偶然の出会いを大事にして、そこからわらしべ長者的に次の乗り物を確保することである。その端緒は身近なところにある。頭で考えるのではなく、人から借りるのが一番だ。第一に本。そして第二に有名ではない普通の人の話をヒントにすることだ。

 

別にどこかの大学の先生とか有名なスポーツ選手とか成功した企業家の話でなくてもよい。というより、そういう人の話は無理に聞かなくていいと思う。というのは、有名な人の話はほかの人も参考にしているはずだ。そこにヒントを得たアイデアは確率的に独自性が生まれにくい。

 また最先端の科学や理論もあまり追いかけるべきではない。最先端は、もう世間に出回った時点で最先端ではない。われわれ一般人が追随しても遅いのである。

 新しい知見を得るためにはもっと別な方向性を考えたほうがいい。

 かつて私が試みたのは一般の読者に直接アイデアを求めるという方法である。

(第四条 他人の非常識な言い分を聞く、pp78-79)

 

最初のスタート地点はえらくない方がよいのである。そこからコネクションをたどりながら、遠くへと、目標の土地へと近づいてゆく。そこでは、警戒心よりも好奇心が優先される。ある編集者が、高野秀行は大まじめに取り組むものの最初から間違っているというのはこの点だ。

 

 結局のところ、怪しい人についていくと、たいていは痛い目に遭うが、ときには素晴らしい幸運に出会うこともある。それを前もって知ることはできない。

 だから、怪しい人に誘われたら、とりあえずついていくしかないのである。(第6条 怪しい人にはついていく、p128)

 

一見、フォレストガンプの有名な台詞「人生は一箱のチョコレート」みたいで格好よいが、身ぐるみはがれた経験の後に、こんな言葉は、普通の常識を持った人からはまず出てこない。高野秀行の場合、価値判断の尺度、はかりそのものが、間違っているーーー少なくとも普通の人とは違っているのである。

 

3.論理性

 

高野自身、自分のやり方は感性に頼るものではなく、論理的なアプローチであると、科学的でさえあると言っている。つまり、どんなに非常識であろうと、最初の論理をとことんつきつめてゆくのである。海外に旅する前に、まず現地の言葉をマスターするために、日本にいる現地人を見つけ、語学を習うという徹底ぶりだ。そうして教わった言語は、その場の用を足すのには役立っても、ほとんど残ってはいないがフランス語、スペイン語、ポルトガル語、タイ語、中国語、ビルマ語、アラビア語、ヒンディー語と数知れない。大学へ入る前から、英単語を覚えるのにも、楽をする手段を工夫することが好きだった。単語の頻度をすべてデータ化する中で、いつの間にか覚えてしまったのだ。次には、自分のための教科書作りに時間をかけるようになる。探検部の主将にあたる「幹事長」になったときも、リーダーとは意外に楽なものだと気がつくと、部会の前に徹底的に「予習」をするようになった。

 

「予習の効果は絶大だった。ほかの部員の誰一人として、部会の予習などしていない。ただ私が提出する議題に反射的な受け答えをするだけである。いくら彼らが優秀だといっても、一時間じっくりと考えている私の敵ではない。

 部会はこうして私の思いどおりに進むようになり、ラクで楽しくてしかたがなかった。もちろん、ほかの部員よりあれこれ考えたり調べたりしている時間は断然長かったが、そういうラクをする工夫は、子供の頃、理想の単語帳や教科書を作ったときと同様、面白いだけで苦痛ではない。

(第8章 ラクをするためには努力を惜しまない、p157)

 

4.不完全行動主義

 

どんなに周到に準備したところで、最後の一歩を踏み出さねば意味がない。熱心に研究すれば知識も増えるし、批評眼も養われ、一家言を持つようになる。だが、実行しない限り、「一流の素材」にとどまる。だから、完全主義にこだわるような一流をめざさない。二流でも、三流でもいいから、まず最初の一歩を踏み出すことが大事だ。

 

 どんなにアホでもデタラメでも今やっている者がやらない者よりえらいのだ。

(第7条 過ぎたるは及ばざるよりずっといい、p136)

 

『間違う力』の読者の前には二つの道がある。一つは、この本を、未読の高野本を攻略するためのマップとして利用し、あくまで高野秀行を、エンタメのコンテンツ、あるいは世界を知る上での教養書として利用する道である。もう一つは、この本の内容を真に受けて、10ヶ条を律儀に実行し、自らオンリーワンになる道、楽しい茨の道を選ぶことである。

 

関連ページ:

高野秀行、清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』

 

書評 | 21:39 | comments(0) | - | - |
諌山創『進撃の巨人 25』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

壁で守られた世界へ突如侵入してきた巨人。それはパラディ島の外部の勢力による陰謀だった。外の世界の住人、マーレ人は、巨人への変身能力を持つエルディア人を恐れ、同じように巨人への変身能力を持つエルディア人の移住民を尖兵として潜入させた。それが、ベルトルトアニライナーだったのだ。

 

血で血を争う戦いから4年の歳月が経ち、マーレ人の中に、まぎれこんで生活していたエレンは、ライナーと再会を果たす。はじめはこの人、誰?と読者が戸惑うほどにエレンの雰囲気は激変していた。自分たちが行った行為に対して、呵責の念を抱くライナーだが、死のうとして死ねなかった。それに対して、エレンはそれぞれの世界を救うために、仕方がなかったと言うのだった。

 

確かにオレは…

海の向こう側にあるものすべてが

敵に見えた

 

そして…海を渡って

敵と同じ屋根の下で

敵と同じ飯を食った…

 

ライナー…お前と同じだよ

もちろんムカつく奴もいるし

いい奴もいる

 

海の外も壁の中も

同じなんだ

 

おりしも、エルディア人掃討作戦に向け、レベリオ収容区で有力者であるヴィリー・タイパーが演説を行おうとしたその時、エレンは巨人へと変身し、街を大混乱に陥れる。戦いの火蓋が切って落とされたのだった。

 

だが、敵もさるもの。地中に仕掛けられた巨大な槍がエレンを襲い、戦鎚の巨人が現れる。

 

さらに現れる車力の巨人、顎の巨人、獣の巨人。そして、エレンを援護するミカサら調査兵団。

 

…バカな!?俺は巨人だぞ!?こいつら人間の姿のまま 俺を殺す気か!?

 

双方の総力戦が始まる。かつてない壮絶な戦いの幕開けだ。

 

『進撃の巨人』の原点は、東宝の怪獣映画『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』だったと作者諌山創は語ったことがあるが、それに輪をかけてスケールアップした『怪獣総進撃』のようなバトルシーンが展開する。
 

最後の戦いの後にもたらされるのはいったい何なのか。勝者はどちらなのか。

 

もはや大きな謎はなく、運命を見守るしかない『進撃の巨人』。長い助走期間を終えて、続く26巻で最高のクライマックスを迎えることだろう。

  Kindle版

 

関連ページ:

諌山創『進撃の巨人 24』

諌山創『進撃の巨人 20』
諌山創『進撃の巨人 19』 
諌山創『進撃の巨人 15』
諌山創『進撃の巨人 13』
諌山創『進撃の巨人 12』

(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.