つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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豊田有恒『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

豊田有恒『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』(祥伝社新書)は『宇宙戦艦ヤマト』以来、テレビ版、映画版10回のシリーズのSF設定を担当した著者による回顧的ヤマト論である。

 

一世を風靡した『宇宙戦艦ヤマト』は、前作との整合性を無視して度重なる続編が作られた作品であり、さらにプロデューサー西崎義展と漫画家松本零士の間で、その著作権をめぐり法廷闘争が行われた作品でもあった。その後、西崎は銃所持や覚醒剤で逮捕されながらもヤマトのリメークを行いそれなりの成功を収めたが、最近不慮の死を遂げたことが報じられた。

 

作品ジャックとも言える西崎の悪行の数々は、ファンの間でも知れ渡っているし、著者は松本零士と並ぶ西崎の最大の被害者とも言えるが、その手口を暴露しつつも、同時に西崎の存在がなければ『宇宙戦艦ヤマト』の成功がありえなかったと功績を認めながら、ニュートラルな目で、著者自身と『宇宙戦艦ヤマト』との関わりを語っているのである。

 

本書の冒頭を飾るのは、ヤマトではなく、手塚治虫の話である。日本におけるテレビアニメの創世の時代に、『エイトマン』のシナリオで認められた豊田は手塚にも『鉄腕アトム』のシナリオを書くように求められる。そこでの手塚の天才ぶりの秘密が語られる。

 

アイデア出しの場面で、こんなバカなことを言ったら、豊田の奴、俺を馬鹿にするのではないか、などという衒いがない。思いつくままに、機関銃のようにアイデアが飛び出してくる。そのほとんどはくだらないものだが、いつくかは光るものがあり、こちらも心が動いてくる。アイデア出し、ブレインストーミングの鉄則だが、妙に肩書や地位にこだわらず、思いつくままにアイデアを喋る必要がある。妙に自己規制してしまうと、良いアイデアも出てこない。

 駄目なものは後で捨てればいいだけなのだ。手塚には、いい意味で幼児性があったから、自分を偉そうに見せかけるということをしない。アニメのこととなると、少年のようにキラキラした目で、情熱的に語る。いま思えば、横綱の胸を借りていたような、人生の貴重な体験だった。pp41-42

 

その後『スーパージェッタ―』『宇宙少年ソラン』をも手がけたものの『冒険ガボテン島』でいったんアニメから手を引いた著者を引き戻したのが、西崎義展だった。

 

当初は、『西遊記』をモデルにした宇宙船による地球脱出の話であったものが、メンバーが揃う中で、『宇宙戦艦ヤマト』の祖型がしだいにできあがってくるようすがありありと描かれる。ラジェンドラという異星人の名はガミラスに変えられる。戦艦ヤマトを使おうと提案したのは、松本だった。そんな中で、アニメにもSFにも疎い西崎は何一つオリジナルな考えを出せたわけではない。しかし、いつしか著者や松本の名前を作品のクレジットから外そうとするのであった。

 

稼いだ金をクリエイターに還元するわけでもなく、ヨットや車・オートバイにつぎ込む西崎。それでも、言葉巧みに次回作を持ちかけられると断れないという著者の悪癖が繰り返される。SF作家としての血が騒ぐ上に、企画を他人に任せるとどんなデタラメな作品にされるかわからないという恐れもあり、「このままあなたと付き合っていると、ぼくは乞食になる!」と著者が西崎に最後通牒を突きつけるまで、それは続くのであった。

 

SF作家だけに豊田は宇宙に関する知見も詳しく、光速を超える速度で進むにもかかわらずタイムパラドックスが無視されていること、太陽系の惑星を順に訪れるなど惑星直列でもなければありえないこと、コスモゼロの発艦シーンでの見栄え重視のフィクションなど、ヤマトのどの部分が非科学的であるかも細かく解説される。また「イスカンダル」や「シャルバート」という言葉の起源など、該博な歴史的地理的な知見によって、ヤマトの世界の奥行きが一層深まるのを読者は感じることだろう。

 

また、イスカンダルとは、シルクロード方面で、かつて遠征してきたアレキサンダー大王の名が、伝承しているうちに訛ったものである。つまり『西遊記』を下敷きにしたことをほのめかすため、登場する異星人の名に、サンスクリット語の固有名詞を、さりげなく用いてみせたのである。p74

 

西崎義展の功罪に関して、多くのページが割かれているものの、私たちが抱いている西崎像を否定するような内容はなく、むしろ強化するものである。本書の白眉は、やはり無から有を生み出すクリエイターの頭の中で、いかにしてアイデアが出され、それが集合知の中で化学反応を起こし、進化するに至ったかそのプロセスである。当事者でありながら、クールな目で自分の知る限りの「真実」を淡々と語る本書は、アニメ界の歴史を明らかにする良書である。

 

  Kindle版

伊坂幸太郎『ホワイトラビット』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

ひとは簡単に出来事を総括する。伊坂幸太郎『ホワイトラビット』(新潮社)のテーマである白兎事件も、仙台の住宅街である男が一般人の家族を人質に立てこもった事件として語られる。しかし、実際に起こっていることは、はるかに複雑な、まったく別の何かである。

 

ここには、絶対的な善人も、絶対的な悪人も存在しない。

 

ある悪の組織は、別の組織から催促され、行動を迫られる。

強盗のように見える男は、実は妻を救うための行動を行おうとしている。

交通事故で家族を失った男は、その遠因となった占い師を射殺する。

一家の父親と思われた男は、実は別人なのかもしれない。

SIT隊員だと思った男も、実はなりすましであった。

そして無垢な人質であると思われた母と子も…

 

これだけでは何がなんだかよくわからないが、この謎と謎の関係がすっきり整理できてしまったら、ネタバレになってしまうからこれでいいのである。

 

言えるのは、きわめてシンプルな二つのルールである。

 

ある犯罪の被害者は別の犯罪の加害者でありうる。

 

そして

 

ある人が名前や身分を名のったからといって、本当にその人であるとは限らない。

 

このような疑惑の目でストーリーを見てゆくことが読者に要請される、というより、知らず知らずのうちに、そうなるように仕向けられるのである。

 

『ホワイトラビット』を、伊坂幸太郎の他の作品から区別する大きな特徴の一つは、自意識を持った語り手が存在するということである。この語り手は、たとえば暴力シーンの場合に、どうしても仕方ないからこういう酷い描写をしないわけにはいかないとの言い訳をする。そして、自らの語りそのもののあり方についても、ときにヴィクトール・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を例に挙げながら、自己言及的に語ろうとする。

 

「あの小説って、ところどころ変な感じですよね。急に作者が、『これは作者の特権だから、ここで話を前に戻そう』とか、『ずっとあとに出てくるはずの頁のために、ひとつ断っておかねばならない』とか、妙にしゃしゃりでてきて」

 古くからある手法だ、と黒澤は言いかけたが、そもそも『レ・ミゼラブル』が古い小説であるし、わざわざ言うこともないか、とやめた。p25

 

『ホワイトラビット』の中では、語り手はたびたび視点を変える。語り手そのものは一定でありながらも、ある人物から見た事件と、別の人物から見た事件へと。そして、時に時間の針を巻き戻すことを厭わない。芥川の『藪の中』方式だが、『ホワイトラビット』の場合には、最終的にはそれらの複数の見え方は一つに統一されることになる。それこそが、探偵となった読者の果たす役割である。

 

『レ・ミゼラブル』――犯罪を犯しながら名士となったジャン・ヴァルジャンの話とともに、この作品全体でライトモチーフとして用いられるのが、星座のオリオン座の話である。物語に出てくる「オリオオリオ」なる男は、オリオン座に対する半端ない蘊蓄があり、その話が物語のキーワードとして登場するのである。

 

オリオン座は、肉眼でみつけやすい星座の筆頭だ。三つ星と呼ばれる二等星を目印に、上下に光る星を探すことができる。五角形の下に台形をくっつけたような形だとも言える。楽しみを奪うようで恐縮だが、このオリオン座が白兎事件全般に大きく絡んでくることは、物語の下地に織り込まれていることは、先にお伝えしたほうがいいかもしれない。p4

 

時に『レ・ミゼラブル』へと、あるいはオリオン座の話へと脱線しながら、それが後半の展開の重要なヒントになったりするのである。

 

『ホワイトラビット』では、『ルビンの壺が割れた』以上に、読み進めるうちに、真相が変わり続ける。『ルビンの壺が割れた』では、読者の知らない登場人物の行状が真実を少しずつ変えてゆくのだが、『ホワイトラビット』では登場人物の隠された行為が明らかになる中で、実は登場人物のアイデンティティそのものもゆらいでしまうのである。Aと思っていた人物はBであり、Cと思っていた人物はDであり、Eと思った人物は実は…という風に変装やなりすましが横行する世界である。

 

しかし、これは実は文学の世界では珍しいことではない。イギリスのシェイクスピアや、フランスのモリエール、ボーマルシェなど、17、18世紀の喜劇ではなりすましや入れ替わりは常套手段として行われたテクニックなのだ。

 

黒いは白い、白いは黒い。

 

作者伊坂幸太郎もまた、オセロゲームにたとえながら、意識的にそれを行っているふしがある。

 

それらが発覚するたびに読者は、それまでの事件に対する全体像を更新しなければならず、脳をフル稼働することが求められる。

 

『ホワイトラビット』において、物語はマスメディアが好んで語るようなストーリーとして構築されるよりも、むしろ被害者/加害者の二項対立だけでなく、登場人物のアイデンティそのものも混沌へと投げ込まれ、脱=構築される。

 

『ホワイトラビット』は、伊坂幸太郎がシェイクスピアに並び立つような、新たなステージに立ったことを示す、脱構築的なミステリーの傑作なのだ。

 

関連ページ:

書評 | 20:58 | comments(0) | - | - |
新川直司『さよなら私のクラマ― 4』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

新川直司『さよなら私のクラマ―』は埼玉の高校の女子サッカー部の活躍を描いたコミック。

 

この第4巻では、曽志崎緑周防すみれらの蕨青南高校はインターハイの埼玉予選を勝ち上がり、埼玉の絶対王者浦和邦成高校と決勝リーグの初戦で対決する。浦和邦成には、曽志崎の先輩で、中学時代コンビを組んでいたチカこと桐島千花がいた。浦和邦成への誘いを断って、周防すみれとともに蕨青南を選んだ曽志崎のことを根に持つ桐島は、異様なまでの敵愾心を燃やす。おまけに昨年度、全国の覇者久乃木高校に破れ、自分が足を引っ張ったと考える桐島は、その雪辱を晴らすため、果敢に攻め続け、蕨青南は猛攻にさらされる。。

 

けれども、蕨青南には、恩田希(おんだのぞみ)がいた。前の試合では、興奮のあまり一睡もできずに試合に出場し、ノーマークだった恩田の本来の動きに、浦和邦成の選手たちも翻弄される。流れが蕨青南へと変わり始める。もちろん、手をこまねいて見ている浦和邦成ではなかった。はたして勝敗の行方は?

 

というわけで、この第四巻では、『さよならフットボール』の主人公であった恩田希の活躍巻である。『さよならフットボール』と異なり、『さよなら私のクラマ―』は群像劇で、誰が主人公というのはあまり意味がないが、この巻での恩田は主人公的な活躍を見せる。中学時代、男子チームの中で練習し続けるものの、公式試合には出場できず、弟になりすますしかなかった恩田が、そこで養ったフィジカルの強さを発揮するーーー『さよならフットボール』のファンには、たまらない展開になっている。

 

両チームの接戦を描く新川直司のコマ割りによるドラマトゥルギーも冴えわたっている。複数の選手の顔、目のクローズアップ、足元のクローズアップなどを効果的に組み合わせながら、複数の人間の動きや感情のからみ合いを、瞬間瞬間の中で表現している。

 

とりわけ、キメのシーンでは迫りくるボールや、キックするスパイクがクローズアップされる。

 

けれども、それだけにとどまらない。試合の動きのみで終始することなく、回想シーンが挿入される。桐島千花の場合には、久乃木との試合だが、恩田希の場合も、友情を結んだばかりの久乃木の選手、井藤や佃との別れのシーン。そこで、三つ巴となったチームの間のライバル心と絆を、試合の時間の中で表現するという高度な技術を使われるのである。

 

アスリートは孤独だよ

でもひとりぼっちじゃない

競い合う見方がいて

支え合う敵がいる

日本中に 

世界中に

 

もちろん、勝負の世界は非情だ。勝利の女神が微笑むのは、久乃木との対戦へと勝ち進むのは、蕨青南か、浦和邦成か。選手たちの一挙手一投足から目が離せない。

 Kindle版

 

関連ページ:

新川直司『さよなら私のクラマ―』1〜3

 

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