つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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又吉直樹『劇場』 PART2(地名索引)

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

これは又吉直樹の小説『劇場』の地名索引です。基本的に、慣例ではなく文中の表記に沿っていますが、リンクのあるもののみ正式呼称を併記しています。自明のもの、広域で曖昧なものについては解説を省略しています。

 

青森県 16

伊勢 76(=伊勢神宮

イタリア 105,106

井の頭公園 40,51,52,96

ヴィレッジ・ヴァンガード 110,182 (名古屋市に本拠地を置き、全国で387店舗を全国展開する書籍店チェーン、書籍以外に雑貨、CD、DVDなどのニューメディアの販売を特徴とする)

駅前劇場 27,28,58,59,65

大阪 19,20,42,

大塚家具 46(大塚家具新宿ショールーム

お台場 178(臨海副都心、東京港埋立第13号地に属する東京都港区台場、品川区東八潮、江東区青海の一部からなるエリア名称。港区芝浦地区とはレインボーブリッジで結ばれる)

表参道 6(東京メトロ銀座線、千代田線の駅名、元来は明治神宮に至る参道をさす)

歌舞伎町 83(新宿にある東洋一の歓楽街)

神田川源流 40 (井の頭公園の井の頭池にある)

北沢川 71,130,167(かつては目黒川の支流で、世田谷区内を流れる二級河川であったが、現在は暗渠化され、代沢周辺の一部のみ緑道として整備される)

北沢八幡宮 60(世田谷区代沢にある神社、北沢八幡神社ともいう)

吉祥寺 52(JR東日本、および京王井の頭線の駅名、および周辺エリアの通称)

紀伊國屋 84(紀伊國屋書店新宿本店

久我山稲荷神社 40(杉並区久我山にある稲荷神社)

高円寺 129,146,166(杉並区にあるJR東日本の駅、および周辺の地名、元来は付近にある曹洞宗の寺院「宿鳳山高円寺」に由来する)

公園通り 24,46(渋谷公園通り マルイ渋谷店前交差点から代々木公園に至る坂道)

豪徳寺 177(世田谷区にある小田急線の駅、および周辺の地名。本来は付近にある同名の寺院に由来する)

渋谷 24,41,42,46,130,197

渋谷駅 24

下北 58(=下北沢)

下北沢 25,37,56,60,65,66,73,78,82,95,110,114,125,130,137,143,146,167,170,173,182,199

(世田谷区代沢にある京王井の頭線および小田急線の駅名、および周辺エリアの通称)

下北沢オフオフシアター 65 (OFF・OFFシアター

心斎橋 19(大阪市中央区心斎橋筋周辺の繁華街

新宿 5,8,20,46,84

神泉 130(渋谷区にある京王井の頭線の駅、および周辺の地名)

西武 45 (=西武百貨店)

『西武』85(珈琲西武、新宿にある老舗の喫茶店)

西武百貨店 43,44(西武渋谷店

世田谷 59

Zepp 178(一般にお台場のZeppというと青海にあるZepp Tokyoを指すが、2012年にZepp ダイバーシティ東京ができ、いずれかは作中で明言されていない)

代官山 134,137(東急東横線の駅名、および渋谷区代官山町の町域を中心に、代官山駅から八幡通り、旧山手通りにかけてのエリア全体の呼称

ディズニーランド 76,77,78(千葉県舞浜市にある日本最大級のテーマパーク)

東急 45(東急百貨店

東京 16,20,35,47,51,125,188,189,193,197,198,203

東京芸術劇場 190(豊島区西池袋にある芸術文化施設、池袋西口公園に面し、コンサート用の大ホール、演劇やミュージカル用の中ホール、多目的な小ホールなどがある)

道玄坂 130(渋谷駅から目黒方面に向かう上り坂と周辺の地名)

図書館 172,174,175(=梅が丘図書館

七井橋 51,96(井の頭公園ひょうたん池にかかる長さ70mの木造橋)

難波 19(大阪市中央区、浪速区のエリア名称、および同地にある市営地下鉄、南海電鉄、JR西日本の駅名)

八王子 45

羽根木公園 86,88,166,172,173,174,175(世田谷区代田にある広さ8haの区立公園、梅の名所として有名)

原宿 6,67,134,197

原宿駅 7

パルコ 20(渋谷PARCO、 1973年オープンの渋谷区宇田川町にあるファッションビル。2016年8月にいったん閉店し、2019年に秋にリニューアルオープン予定)。

富士急ハイランド 76(山梨県にある富士急行系列の遊園地)

ブラジル 106

三鷹 5,60

明治神宮 7

ヨーロッパ 16

代々木体育館 8(国立代々木競技場

『楽園』110(下北沢にある小劇場の一つ)

山手線 8

 

関連ページ:

又吉直樹『劇場』

又吉直樹『夜を乗り越える』

又吉直樹『東京百景』
 PART2(地名辞典)
又吉直樹『第二図書係補佐』 
又吉直樹『火花』

又吉直樹『劇場』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略 ver,1,1

 

 

『劇場』(新潮社)は、芥川賞作家にしてお笑い芸人又吉直樹の小説第二作、演劇のメッカ下北沢周辺を舞台に、売れない劇作家と女優の卵との恋を描く青春小説である。

 

関西出身の永田が青森から出てきたばかりの沙希と出会ったのは、原宿と渋谷の間の、画廊前の通りだった。この人なら自分のことを理解してくれるのではないかと追いすがり、強引に会話を始める。「靴、同じやな」が最初の言葉だった。知らない人に話しかけるのははじめてだった。迷惑そうにされながらも、ぎこちない会話を続け、なんとかカフェでおごってもらうことに成功する。

 

その上唇の形状を元に、その人が幼かった頃から今日まで2、どのような生活を送り、どのように容貌を変貌させてきたのかがわかった。これは、気のせいではなかった。この人を生まれた時から知っていて、間近で人生を見守ってきたことと等価の感覚をこの瞬間に得たのだ。p14

 

自分がやっている劇団に永田が沙希を誘ったのをきっかけに同棲するようになった二人。だが、稼ぐよりも出てゆく方が多いのが演劇界の常。アルバイトをしても追いつかず、結局沙希の親の仕送りで生活する羽目に。それでも、沙希は永田の才能を信じ、永田は自分のすべてを受け入れてくれる沙希に、うまくゆかない脚本や舞台の憂さ、沙希の交友関係への疑念、ありったけの感情をぶつけ続ける。その鬼気迫る言葉の嵐に、いつしか二人の関係にも齟齬をきたし始める。その行き着く先は?

 

永田の狂気に満ちた言葉の嵐も悲惨なら、それでもついてゆこうとする沙希のけなげさも痛々しい。けれども、都会へ出てきた田舎者の肥大した自意識は、多くの人が経験があり、他人事として笑って済ませることができない何かである。

 

二人が、何の描写もなくあっさりと最初のハードルを越えてしまい、その後の生活が中心となる神田川的な設定なので、恋愛ものとしては物足りない部分もあるかもしれない。あくまで十分なはけ口を得ることができない過剰な自意識のぶつけ合いによる、男と男、男と女の心が血を流すような言葉のバトルが中心なのだ。

 

『火花』の小気味よいテンポの速さ、芸人世界の浮き沈みをドラマに比べると、くすぶり続ける演劇青年の恋は、いささか地味な世界に見えるが、泥くさいまでのリアルさが又吉の作家としての成長を感じさせる。この先、又吉直樹はどの方向へと進むのだろう。洗練された都市小説とは対極の世界を又吉は志向しているように思われる。けれども、『劇場』に登場する多くの地名、克明に描き込まれた地理のディテールには、又吉の東京への深い愛が感じられる。『劇場』は、場所の生活感、リアリティに痺れる小説でもあるのだ。

 

関連ページ:

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坂口恭平『しみ』

 文中敬称略  ver.1.01

 

 

『しみ』(毎日新聞出版)は、坂口恭平の最新の小説だ。帯を見ると「青春小説」であるらしいがよくわからない。その世界は、ロードムービー的な展開においてケルアックの『路上にて』のようにも、ラリったような世界のビジョンにおいてウィリアム・バロウズの世界のようにも見える。いわゆるビートニック世代の血統をひいた小説なのだろう。だが、そのビジョンから感じるものは、中南米や中東、あるいはインディアンのフォークロワのようでもあるし、ガルシア・マルケスのようなラテンアメリカ文学のマジックリアリズムの作品のようにも思える。

 

語り手である「ぼく」、マリオは、21歳。熊本の実家から東京へ戻るのために始めたヒッチハイクの旅が、スランプに陥ったころ、相模湖付近で、シミの乗った車に拾われる、車は、グレーのポルシェ1058年式の356、サンルーフのあるモデルだ。

 

けれども、シミがいる場所はどこでも世界が姿を変えてしまう。『徘徊タクシー』の認知症の曽祖母トキオは、恭平の車に乗るうちに自分一人で山口へ行くのだが、シミの場合には、同乗するぼく、マリオもその世界へと連れていってしまうのだ。

 

シミがいるところはどこでも世界が他のどこにでも変わるし、シミもまた様々なものに姿を変えるのだった。

 

シミとともに八王子で生活するうちに、シミを含め八人の男にマリオは出会う。

 

いま、ぼくは八王子から遠く離れている。そもそも八王子に住んだことはない。八王子の地理はいまだよくわからない。いつもシミの車に乗っていたから、シミの目でしか八王子を知らないのだ。シミ以外と八王子に行ったことがない。八王子には、実際に八人の王子が暮らしていた。あくまでもそれはぼくの推測だ。たしかに住んでた。彼らはきっと王子だ。

 タカ、ヨギン、シモン、ニーチ、コウ、ハッサン、クレナイ、そして、シミ。pp7-8

 

実家のある高知から八王子へやってきて、今は中華料理屋ではたらいているニーチ

その五つ違いの兄弟のシモン

かつてメキシコで生活し、今は目黒で食べ物屋を営んでいるクレナイ

カサブランカ近くの村の音楽一家の末っ子として生まれたハッサン

ディズニーランドのアトラクションの設計にあたるコウ

底のない靴をはいていた行商人のヨギン

バークレー音大卒のベースギター弾きのタカ

 

バラバラな生まれ育ちとキャリアの持ち主なのに、なぜか一つのムラを形成している彼らに、ぼく、マリオが出会ったのはほぼ同時だった。

 

 ぼくたちはたまたま出会っただけだった。ぼくたちはたまたま同じ頃に出会った。しかし、なぜかぼくの目には強い共同体のように見えていたから不思議なものだ。pp92-93

 

『しみ』は、シミ一人の物語でなく、この八人の王子たちとマリオの群像劇なのだ。

 

彼らは、それぞれに、言葉と音楽の力によって、その周囲に独自のレイヤーを生成し、独立国家を築いている人びと、いわば坂口恭平の分身のような存在だ。世界は、その内部の風景が外部化することで、彼らの周辺で変容し続ける。

 

そして、シミはその中の不在の中心点。至るところ(everywhere)にいるが、どこにもいない(nowhere)存在なのである。

 

  シミは相変わらず黙ったままだ。シミはどこかへ行っていた。夢の中じゃない。夢の話なんかシミは一度もしなかった。きっとシミは夢なんか見ない。一度もシミが眠っているところを見たことがないとニーチは言った。だから、いまだって寝ているんじゃない。そこかへ行ってるだけだ。p41

 

八人の王子のそれぞれが語り始める物語は、どこかしら常軌を逸し、過剰なイメージで溢れかかえっている。それが、シミの車による移動によって、連鎖しながら、音楽や踊りとともにどこまでも続いてゆく。それは、フェリーニの映画のような、日常性の中の細部が巨大に肥大化して、非日常に達してしまうような世界、カーニバルの世界である。

 

そう、シミが最初にマリオを連れて行った先も、自らが道化を演じるサーカスではなかったか。

 

 生ドラムの音が鳴った。幕の向こうにトラの腹が見えた。しかし、出てきたのは道化師だった。べつに鼻が赤いわけではない。化粧すらしていなかった。脂肪たっぷりの腹を出し、髪はぼさぼさで、やる気がまるで感じられない。一番目の客に唾を吐いた。叫び声が聞こえたが、騒ぎになることもなく、観客は黙って道化師のほうを見た。道化師はポップコーンを脇に抱えていた。それはシミだった。遠くから男が大きな声で「シミ!」と叫んだ。シミの服には血みたいな染みがついていた。額には紫色のあざが見える。いったいこれはサーカスなのか?そもそもトラがこんなところに出てきて大丈夫なのか? p23

 

『しみ』が、青春小説であるのは、それが二十代のころの坂口恭平の切実な経験に根ざしたフィクションであり、8人の登場人物のそれぞれにモデルが存在するのだろう。けれども、かつて感じ取っていた彼らの内なる世界を、連続するタペストリーのように広げることができるようになったのは、『現実宿り』や『けものになること』を経て、坂口恭平が夢や向こう側の世界を表現することができるようになったからである。

 

2017年5月20日のこの時点において誰もまだAmazonのレビューが書けないでいるように、おそらく多くの人は、『しみ』の前に戸惑いを隠せない。多くの人が考える「文学」の枠の中におさまらない何か。はたしてこれは傑作なのか、それとも頭のおかしい人のたわごとなのか。けれどもこれは文字で描かれた絵画としての詩なのだ。音に出して、『しみ』の16の章を読むならば、そこから湧き出す無限のイメージの豊かさと、無国籍な、日本文学のコンテキストをぶっとばして、世界文学の最前線で語られるフォークロアのような豊かで親密な響きに驚くにちがいない。

 

それは脳の3D空間に響く音楽の言葉にほかならない。それを受け取るには読者にも才能が必要だ。

 

どんな才能か。書かれたものを、途中で理性や合理主義によって否定することなく、そのままに受け取り想像し続ける才能、不撓不屈のイマジネーションである。

 

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