つぶやきコミューン

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岩明均『ヒストリエ』 1〜10

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

『ヒストリエ』は、『寄生獣』の岩明均による歴史漫画、アレキサンドロス大王の父フィリッポスの書記官となった実在の人物エウメネスの生涯を、残された史書などを資料としながら、そのおいたちから描く壮大なスケールの歴史絵巻である。

 

紀元前4世紀、カルディアの良家の子供として育てられたエウメネスは、幼いころより学問好きで、万巻の書に親しみ、大人をも圧倒する知識の持ち主の上、武術でも優れた能力を発揮する。実は、彼はギリシア人ではなく、スキタイ人の血をひいており、実の母は彼の目の前で殺されたという暗い過去を持っているのだった。

 

やがて彼の育ての父が何者かに殺されると、エウメネスのギリシア市民としての立場は失われ、奴隷として売られることになる。奴隷船で運ばれる途中、九死に一生を得、ビザンティオンに近いボアの村に身を寄せることになるが、そこでも村に災いが振りかかる。敵を何とか追い払うことができたのは、エウメネスのおかげだった。彼は、若くして、軍師としての優れた才も持ちあわせていたのだった。村が、敵対した町と和睦を結ぶとき、エウメネスの存在は邪魔になるので、彼は身を引き、愛する女性と別れ、再び旅に出る。

 

カルディアへ里帰りした際、マケドニア王、フィリッポスの知遇を得て、マケドニアに仕えるようになったエウメネスは、息子のアレキサンドロスとも親しくなる。アレキサンドロスも武芸に秀でた聡明な青年だったが、彼にはある秘密があった。彼の顔の左側には蛇の痣があるのだが、この痣のない彼そっくりの青年へファイスティオンがいるというのである。

 

やがて、マケドニアはビザンティオンとペリントスでアテネ軍と対峙するものの、アテネの将軍フォーキオンの作戦に、マケドニア軍は劣勢に立たされる。さらに、別の勢力とも衝突し、フィリポスは負傷し、そこで八面六臂の活躍を見せるエウメネス。

 

その功が認められ、彼に与えられた使命は、ギリシアに潜り込み、フォーキオンと接触せよというものだった。その狙いは?

 

いつしか、軍師としても頭角を現したエウメネスは、権力を上り詰めるものの、また失うものもあった。

 

エウメネスが、マケドニア人になってしまうことを恐れたフィリポスは、その縁談を邪魔し、エウメネスは、またしても恋人との悲しい別れを強いられるのだった。

 

『ヒストリエ』のエウメネスが体現するのは、生きた学問と武術などを身につけた古代世界の英雄像である。その学問は、現実から遊離することなく、目の前の問題を次々に解決し、窮地を乗り越えることを可能にするが、それでも身分制の世の中、取り立てられ出世しても、思うに任せないことも多い。その半ばは彼の出生の秘密に由来するものだ。悲劇の影を宿した美形の英雄であるがゆえに、エウメネスの活躍に、さながら古代世界を舞台に自分が動き回るかのような興奮を多くの読者も覚える。そして、それはかつてエウメネス自身が、胸躍らせたホメロスの『オデュッセイア』の世界に近いものにちがいない。

 

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 ver.1.01

 

 

『ゲンロン』の創刊準備号として計画されながら、『ゲンロン1』〜『ゲンロン4』の後に刊行された『ゲンロン0』は、「観光客の哲学」のタイトルを持った東浩紀の単著である。「観光客」の概念は、すでに『弱いつながり』において提示されており、また『ゲンロン』の前身である『思想地図β』の『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』や『福島第一原発観光地化計画 思想地図β4-2』の中でも実践的に試みられたことがあるが、その概念の思想的位置づけが深化されたかたちで、体系的に語られるのはこれがはじめてである。


以下前半の内容を超訳的に抽出してゆきたい。『ゲンロン0 観光客の哲学』は二部に分かれ、第1部が観光客の哲学、第2部が家族の哲学(序論)となっている。第2部の家族の哲学は、第1部の観光客の哲学を補完するものと位置づけられ、「第5章 家族」「第6章 不気味なもの」「第7章 ドストエフスキー最後の主体」の3つが、独立したエッセイに近い形で収録されている。単純化するため、この記事では、第1部の観光客の哲学のみにフォーカスする。第1部は「第1章 観光」「付録 二次創作」「第2章 政治とその外部」「第3章 二層構造」「第4章 郵便的マルチチュードへ」からなっている。

 

本書の要旨をまとめることは難しくないし、誰にでもできることである。それは要所要所で著者が、それまでの経過を要約し、言葉を選びながらパラフレーズを行っているからで、読者である私たちの頭が急によくなったわけではない。本書で登場する本を何冊か読んだことがある人も、自分で直接原典にあたったときよりも、ずっとその本がわかったという気にさせられたはずである。『ゲンロン0』の読みやすさは、なるべく漢字を開きひらがな書きを増やす表記上の努力、写真と白紙を章と章の間に踊り場的にはさんだり、注釈を末尾ではなく同じページの下の段にまとめるレイアウト的努力、複数の思想家についての記述のページ数をそろえる量的調整の努力なども無視できないが、何よりも東の卓越した要約力と、要約的断章を随所に挿入しながら一歩ずつ議論を進めてゆく構成上の工夫によるところが大きいのである。

 

グローバリズムと、それに対する反動としてのナショナリズムの台頭の影で、リベラリズムの掲げる理念である普遍性は瓦解し、今日の世界は、かつてのような寛容性を他者に対して持てなくなりつつある。

 

そうした生きづらく居心地の悪い時代において、リベラルな思考の拠点となりうるオプションとして東は「観光客」を取り上げようとする。本書の目的は、観光客からはじまる他者の哲学を構想することなのだ。

 

観光客とは、いわば二次創作のようなものである。つまり、オリジナルを素材としながら、どのようにそこに面白みを発見し、発展されるかは自由なのである。それゆえ、二次創作同様、「ふまじめさ」、無責任さによって特徴づけられる。

 

 両者に共通するのは無責任さである。観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して帰っていく。二次創作者もまた、原作者の意図や苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。

pp45-46(強調…原文は傍点)

 

観光は、日本におけるインバウンド消費の急激な増加が示すように、地球上を覆い尽くす勢いで、発展しつつある。だが、観光についての議論は、実学中心で、まともに掘り下げて語られたことがない。その意味を明らかにするため、東は思想史的な回り道を行おうとする。

 

観光が成立するようになったのは、19世紀のヨーロッパであった。それに先立つ18世紀末の啓蒙思想の中に東はその萌芽を認める。

 

『カンディード』の中で、ヴォルテールは「最善説」を批判するために、世界は誤りに満ちていることを示そうとした。これは実際の旅に基づいたものではなく、思考実験としての旅行であったが、世界には想像できないような悲惨な現実があることを示そうとするダークツーリズムの先駆でもある。

 

同時代人のディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』の中にも、「タヒチ人」によってヨーロッパの風俗・習慣を相対化するなど脱ヨーロッパ的普遍性への志向が見られ、その系譜はそのままレヴィ=ストロースへと連なる。

 

さらに、カントは『永遠の平和のために』の中で、永遠の平和実現のためには、人々の自由な移動が前提とされることが必要であるとした。観光的な人々の移動の中に利己心や商業までもが含意され、観光の哲学の祖型を見ることができる。

 

これに対し、20世紀の思想家、カール・シュミットは『政治的なものの概念』の中で、政治の条件として、友と敵の峻別を必須のものとしたのである。このシュミットの発想は、弁証法的発展の中に人間の成熟を見るヘーゲルにつらなるものだが、このようなシュミットの立場からすれば、政治そのものを抹消してしまうグローバリズムは到底容認できるものではなかった。

 

アレクサンドル・コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』の中で、誇りを失い、他人の承認ももとめず、与えられた環境に自足する第二次大戦後の「ポスト歴史」の世界の典型として、アメリカの消費者を「動物」と呼んだのであった。

 

さらに、シュミットとは対極の位置に立つハンナ・アーレントも、『人間の条件』の中で、「活動」と「労働」を区別し、行為の固有名性のない「労働」を、人間の条件を欠いた「動物」的なものと考えたのである。

 

シュミットもコジェーヴもアーレントも、十九世紀から二〇世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。そこでシュミットは友と敵の境界を引き政治を行うものこそが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭けて闘争するものが人間だと答え、アーレントは広場で議論し公共をつくるものこそが人間だと答えた。p108

 

実は、「観光客」には、彼らが「人間ならざるもの」として排除しようとしたすべての要件がそろっていると東は言う。

 

それはモダンな「人間」観、政治から排除されるべき異物、他者である。

 

観光客は大衆である。労働者であり消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない。そこには、シュミットとコジェーヴとアーレントが「人間ではないもの」として思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼすべての性格が集っている。観光客はまさに、二〇世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、二〇世紀の思想の限界は乗り越えられる。pp111-112

 

これに続く「第三章 二層構造」の「二層構造」とは、動物化するグローバリズムと人間化を求めるナショナリズムが重なり合いながら、異なる価値観によってせめぎ合う状態をさしている。その状態は、経済という下半身はつながりながら、政治という上半身はつながらない、いわば不純な愛の状態である。

 

 二一世紀の世界は、人間が人間として生きるナショナリズムの層と、人間が動物としてしか生きることのできないグローバリズムの層、そのふたつの層がたがいに独立したまま重なりあった世界だと考えることができる。この世界像のうえであらためて定義すれば、本書が構想する観光客の哲学なるものは、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか、市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路はないか、その可能性を探る企てである。p127 (強調…原文は傍点)

 

観光客は、このような二重構造の時代において、「動物の層から人間の層へつながる横断の回路、すなわち、市民が市民として市民社会の層にとどまったまま、そのままで公共と普遍につながる回路」(p144)として位置づけられる。

 

それを一層明確にする上で、参照されるのがネグリハートのマルチチュードであり、ドゥルーズ=ガタリのリゾームの概念である。

 

マルチチュードの誤りは、内容なき連帯である。それは一時の盛り上がりを見せても、継続的に政治を変えてゆくはたらきを持たないことはアラブの春の後の歴史を見ても明らかである。

 

ネグリとハートの否定神学的なマルチチュードを、誤配性を含んだ郵便的マルチチュードへと置き換えながら、新しい時代の要請に合致したものへと練り上げることに「第4章 郵便的マルチチュード」は充てられる。

 

そして観光客こそは、その郵便的マルチチュードであるというのだ。

 

マルチチュードやリゾームが、具体性を欠いたイメージにすぎないものと批判しながら、東が次に参照するのはストロガッツの「スモールワールド」とバラバシアルバートの「スケールフリー」というネットワーク理論である。

 

スモールワールドグラフによって、人間の関係のネットワークをモデルとして可視化しながら、近隣の人とのみ関わる格子グラフに、わずかな「つなぎかえ」を加えることで、最大距離や平均距離が大幅に短縮されることが明らかになる。このつなぎかえ、ショートカットこそ、観光客に相当する。

 

スケールフリーは、規模にかかわらず、同じ分布をとるというものでたとえばウェブページの被リンク数などに適用可能な理論である。スケールフリーの分布は、統計学でいう「べき乗分布」に属するが、それによりネットワークの変化をシュミレーションすることも可能である。

 

これらの数学的モデルと接合することによって、東はネグリのいう「帝国」も、国民国家も、郵便的マルチチュードも実体であり、否定神学的マルチチュードやリゾームという単なるイメージとは別の、計量可能な次元で、観光客の哲学を議論することが可能だと考えるのである。

 

ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』において、公的なふるまいと私的な信念との分裂を、アイロニーによって解消し、さらに連帯の可能性を模索したが、その哲学の中に、『弱いつながり』ですでに提示された「憐れみ」の誤配に相当するものを東は見つけだす。

 

  たまたま目のまえに苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくそのひとに声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、「われわれ」の基礎であり、社会の基礎なのだとローティは言おうとしている。これはまさに、つなぎかえがスモールワールドグラフを作った、あの誤配の作用そのものなのではなかろうか。pp197-198

 

『ゲンロン0 観光客の哲学』において、東浩紀は、思想や抵抗の拠点としての「観光客」の概念のみならず、その思想史的な意味と、計量的な数学モデルによって語る道をも同時に提示している。それは批評が、一つの視座によって、思想的な言語を語りつつ、同時に現実を語ることが可能であり、一見救いの見えないこの世界にも、理性や知性による希望の光がまだ存在することを意味するものにほかならない。

 

参照リンク:

このすがすがしい哲学書は東浩紀の技術の集積である 東浩紀よ、どこへ行く(cakes)

 

関連ページ:

小林よしのり・宮台真司・東浩紀『戦争する国の道徳』
東浩紀『弱いつながり』 
東浩紀・桜坂洋『キャラクターズ』
東浩紀『セカイからもっと近くに』
東浩紀『クリュセの魚』
東浩紀編『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(1) (2)  (3) (4)

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宮下奈都『羊と鋼の森』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋)は、若い新人調律師の日々の生活を描いた長編小説だ。羊と鋼の森は、ピアノの内部構造を表している。

 

山奥で育った外村(とむら)は、高校時代体育館で立ち会ったピアノの調律に魅せられ、やがて自らも調律師としての道を歩むようになる。

 

右も左もわからぬままに、先輩調律師のに連れられて、客の家を回るようになる。そして、調律を任されるようになる。しだいに自信を持ち、作業を一人でやるが、大きな失敗をやらかしてしまう。客の要求に応えられず、拒絶されることもあれば、ひどい状態のピアノを生まれ変わらせて、死んだようになっていた持ち主の目に生命の光がともらせることもある。

 

そんな中でも、外村が気になっていたのが、佐倉家の双子の姉妹、和音(かずね)と由仁(ゆに)だった。

 

美しい粒のそろった音を持つ和音、色彩感あふれる演奏の由仁。柳は妹の由仁の方を評価していたが、戸村のお気に入りは姉の和音の方だった。

 

しかし、ある日佐倉家から調律を断る連絡が来る。ピアノを弾けなくなったのだと言う。二人のうちどっちが?それ以上のことは何もわからなかった。

 

それまで淡々と調律師の客回りの日々を描くだけだったこの作品も、ここから一気に加速する。

 

外村は、素朴で素直だが、社交の才は乏しい、気の利かない男だ。ただ真面目に日々の仕事をこなし、事務所のピアノを調律する訓練を積んだり、家ではピアノ曲集を聴くだけの。有名なピアニストのピアノの調律をしたいという野望もない。

 

だが、この姉妹とともに、外山の心にも変化が生じ始めるのだった。

 

『羊と鋼の森』は、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』とは対照的に、ピアノの調律がテーマであるにもかかわらず、ほとんどクラシックの曲名が出てこない。これは大変な力業だ。名曲と演奏者が生み出すスリリングなドラマ、それにいっさい依拠せず、ピアノの内部構造をいじる地道な作業や、それが奏でる音そのものを、その変化を描こうとする。そのとき、見えてくるのは、外村の故郷の森の風景であり、ピアノの中に宿った羊のいる風景だ。

 

 綿羊牧場を身近に見て育った僕も、無意識のうちに家畜を貨幣価値に照らして見ている部分があるかもしれない。でも、今こうして羊のことを考えながら思い出すのは、風の通る緑の原で羊たちがのんびりと草を食んでいる風景だ。いい羊がいい音をつくる。それを僕は、豊かだと感じる。p66

 

季節で色を変える山の木や野鳥の姿も描かれる。いっしょに街を歩いても柳は気にかけない。それはそのまま外村の心のクオリアを描く描写となって、この作品の主音(ドミナント)を決定する。

 

 町が華やいで見えるのは、きっとオンコの実が色づいたせいだ。街路樹の赤で、見間違えるように通りが明るい。山中の実家で暮らしていた頃は、道端のオンコやコクワ、ヤマブドウが熟すのを待って、学校の行き帰りに一粒ずつ口に入れて歩いた。p29

 

柳は、そうした植物の名前を知っていることが戸山の調律師としての強みであると言うのだった。

 

「話術とか教養とかそういう意味じゃなくてさ。もっと調律の本体に役立つと俺は思う」

 調律の本体。どういうことか、よくわからない。僕はまだそのまわりをぐるぐるまわっているだけの見習いだった。

「なるべく具体的なものの名前を知っていて、細部を思い浮かべることができるっていうのは、案外重要なことなんだ」p33

 

もう一つ、『羊と鋼の森』の世界を特徴づけるのが、ベテラン調律師で社長でもある板鳥が引用する原民喜の言葉だ。

 

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」p57

 

高校の体育館での板鳥の調律に魅せられ、憧れて調律師としての道を歩み出した戸山にとって、それはそのまま自らがめざす調律の音となる。そして、宮下奈都がめざす小説の言葉なのかもしれない。

 

『羊と鋼の森』には、わがままなクライアントはいても、基本的に悪人の出てこない穏やかなドラマだ。調律師間のどろどろとした競争も、メーカーの利害のからんだ謀略も出てこない。先輩調律師の柳、社長の板鳥、事務の北川、基本的にはみないい人ばかりである。コミュニケーション能力の若干不足した職人肌の外山だが、もともと似た者同士の職場なので、大きな齟齬をきたすわけではない。そして、ほの暗い世界に光がさすように、しだいに周囲の理解と評価を得るようになってゆく。それが森の風景と共に、読者の心をゆっくりと癒してゆく。

 

そういう意味でも、キャラ立ちした人物が数多く登場する、ドラマチックな展開の『蜜蜂と遠雷』とは対照的な作品だ。

 

『羊と鋼の森』は、心が疲れたとき、思わず読み返したくなるような力を持った静かな名作である。 

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