つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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柴崎友香『かわうそ堀怪談見習い』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

柴崎友香の小説は、基本的に、場所をテーマにした小説である。物語を通じて、登場人物との関係性において、ある街の記憶やある家の記憶が召喚される。

 

この『かわうそ掘怪談見習い』(角川書店)も、大阪のさまざまな場所を取り上げながら、不可思議な現象のありかをさぐる中で、その特異性をあぶりだそうという試みである。

 

語り手の「私」は、三年ぶりに生まれ育った大阪に帰って来たのを機に、これまでの「恋愛小説家」という肩書きを返上し、怪談作家を名のろうとする。特に、霊感があるわけでも、超常現象の経験があるわけでもないので、編集者や友人知人を頼りに取材対象を広げてゆく。そうして見えてくる日常の中のいびつな空間。そこに誰かがいるような気がするのはなぜなのか。

 

「怪談って、なんで場所の話が多いんでしょうね。ホテルとか家とか、ホラー映画の定番ですよね」

「誰かがそこに、いたから…」p73

 

柴崎友香が鋭敏であろうとするのは、怪異の正体というよりも、空間や物に宿る気配、怪異が生まれる前の予兆のようなものである。それは、私たちが日常的に感じている何かである。

 

たとえば、テレビの放送が終了した後のザーッと流れるあの映像。壁の間にある小さな隙間、その向こう側の光景。どういうわけか、自分の書斎から消えてしまう本。家の中に悠然と姿を現す巨大な蜘蛛。夜やむことのない廊下や非常階段の足音…テレビのワイドショーや新聞の三面記事で見かけるような凄惨な事件の現場ではなく、だれもがふだんどこかで遭遇したことのあるそんな日常生活の特異点を、著者は拾い上げ、フォーカスするのである。

 

「恋愛小説家」から「怪談作家」への移行はスムーズに進まない。その焦りが一層、「私」を追い込む。何とかコラムや映画のレビューを書くものの、それだけでは生活できない。職業的な努力として、神経を一層とぎすまそうとする。そう、最大の物語は、「怪談作家」になろうとすることの中にある。

 

 「恋愛」も「怪談」も得意ではない、という点では共通している。感情が上がったり下がったりすることが、基本的に苦手だ。動揺したりはしゃいだりしてしまった日は、あとで必ず後悔する。規則正しい一日が贈れると満足する。天気がよければじゅうぶんだ。p78

 

はたして、「私」は「怪談作家」になることができるだろうか。そのための手がかりを、友人の話に頼ろうとする中で、「私」はやがて気づく。何かおそろしいことがあって、それを忘れてしまっているのではないだろうかと。

 

この小説のもう一つの読み方は、私小説的な読み方である。主人公は、〇崎友●と著者の名前を半分だけ残した名前になっている(あるページではフルネームで出てくる)。どこまでが実像で、どこからが作り話なのかの境界ははっきりしないが、その創作や取材のスタイルは、かなり本人の癖をとどめているにちがいない。決して私たちの生活から懸け離れていることをやっているわけではなく、一層著者を身近に感じられるかもしれない。

 

 仕事の合間、というか、原稿に詰まるとついインターネットを見てしまう。進んでいるときも、あやふやな知識や正確にわからないことを検索したついでに、そのままあれこれ見てしまうことがある。ネットサーフィンなどという快適なものではなく、大海で流されるゴムボート。気づいたときには岸辺が見えなくなって、戻るのに一苦労し、後悔する。p156

 

『かわうそ堀怪談見習い』は、ホラー小説としての効果を追求したというよりも、場所の空気や場所が私たちの中で喚起する感覚・感情に関するフィクションであり、サルトルの『嘔吐』がそうであるように、日常性の中に非日常性の裂け目をさぐり出そうとする実存主義的な探求の小説なのだ。

 

関連ページ:

書評 | 16:00 | comments(0) | - | - |
落合陽一『超AI時代の生存戦略』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

『超AI時代の生存戦略 <2040年代>シンギュラリティに備える34のリスト』(大和書房)は、メディアアーチストで筑波大助教の落合陽一が、人工知能が人間に追いつくシンギュラリティ(技術的特異点)が予想される2040年代までを視野に入れながら、新しい時代の生き方や仕事、研究のスタイルを解説した本である。

 

一見他の類書と同じように見えるが、他の未来予測的な本や記事の粗雑さを逆転させている点が特に重要である。たとえば、機械対人間といった図式。

 

 その上で、持たざるローカルに所属する人々が2040年代の世界をぼんやり想像しながら過ごす余裕があるだろうか?少なくとも日本ローカルに暮らす私たちにはないはずだ。機械との親和性を高めコストとして排除されないようにうまく働くか、機械を使いこなした上で他の人間から職を奪うしかないのだ。この構図は機械対人間ではなく、「人間」と「機械親和性の高い人間」との戦いに他ならないのだから。p23

 

あるいは「クリエイティブ」という言葉の罠。

 

 先に述べたように、「AIはAIとしての仕事を、人間は人間らしいクリエイティブな仕事をすればいい」という論調が僕は嫌いだ。

 この論調は思考停止に過ぎず、クリエイティブという言葉であやふやに誤魔化すことで、行動の指針をぼやかす。つまり、この論調で語る人は、要するに「何をしたらいいかわからない」、ということであって、これは多くの企業担当者も同様の発言をしやすい。pp25-26

 

「クリエイティブ」はAIの対概念ではありえないし、AIを使ったクリエイティビティの可能性が視野に入っていない前時代的なクリシェにすぎないということだ。

 

落合陽一の主張は、キーワードの選択ではなく、キーワードの使い方の方にある。偽の対立は、現実を正しく反映していない。つねに対立は、二項を正しく立てる必要があるし、その対立もかりそめのものであって、移行することによって解消されうるものである。

 

つまり、二項をAとBではなく、AとA+Bとして考えること。

 

いいかえるなら

 

「古典的人間らしさ」VS「デジタルヒューマンらしさ」

 

という基本図式がまず本書全体を支配しており、時代の変化はA→A+Bの変化として現れるのである。

 

同じ発想が、ワークライフバランスにもあてはまる。

 

ワークライフバランスの考えは、ワークとライフを二項対立的にとらえる点において、偽の対立である。その場合、ワークはライフとしての価値を奪われた奴隷の労役とみなされることとなる。

 

ワークライフバランスという図式に落合陽一が置き換えるのは、ワークアズライフ(生活としての仕事)という新しい考え方だ。つまりあらゆる場所で常時世界とつながりながら仕事が可能になった超AI時代において、仕事と生活の双方は大きく重なり合うことになる。

 

 今の社会に即すと、僕はこの言葉にとても違和感をおぼえる。いつでもどこでも情報と繋がり、それゆえにいつでも仕事とプライベートが混在するような世界になった今、ワークがライフでない時点で、言葉が実生活と矛盾しているのではないかと感じるわけだ。単なる労働というものがインターネット以後、時空間を超えてコピーされるようになった今、個人のキャラクターが生活スタイルに根差した労働メソッドが求められている。

 ワークライフバランスは一生をいくつかのサブセットに分けて考えることが可能であるということを許容した言葉であり、常時接続性の高い現代には親和性が低い。(…)

 そこで、なるべくライフとしてのワークにする。つまり、余暇のようにストレスレスな環境で働けるように環境を整えていくということが特に重要である。pp30-31

 

落合陽一において特徴的なロジックは、対立もしくは移行する二つの項は、たとえば人間対機械という純血種間にではなく、人間対(人間+機械)のように、純血種とハイブリッドの間にあるということだ。

 

ストレスレスな世界をどのように構築するかが、本書のテーマの一つとなるだろう。

 

未来は、余暇のように、あるいは趣味のように、ストレスレスに構築されることで、より効率的なものとなるというのが本書の中心的な考え方だ。あえてそれを名づけるなら、「わが道を行く」ブルーオーシャン戦略ということになるだろう。個は、スタンダードを気にすることなしに、つまり他との競争を意識することなしに、個であることに徹することで、価値を獲得する。

 

「みんな違って、みんないい」ということになる。

 

 今まで言われてきた、「自分は自分の道を行く」というのは、競争の上でどういうキャラクターを付けていくかという話だった。

 しかし今、その意味ではまったくなく、これからやらないといけないことは、全員が全員、違う方向に向かってやっていくことを当たり前に思うということだ。つまり、誰も他人の道について気にかけてない、そして自分も気にしていないというマインドセットだ。

 今、この世界で他人と違うのは当たり前で、他人と違うことをしているから価値がある。もし、他人と競争をしているならば、それはレッドオーシャン(競争の激しい市場)にいるということだ。つまり、競争心を持つというのは、レッドオーシャンの考え方で、そうではなくて一人一人がブルーオーシャン(未開拓な市場)な考え方をしなくてはいけない。p45

 

本書の文体は、語尾こそ「ですます」調であるが、参考文献を完備し、そのレフェランスのシステムの中で、論文的に語っている『魔法の世紀』(但し本書のエピローグの言語は『魔法の世紀』の延長上にある)とも、またロジックを極限まで整理した上で限りなくシンプルにわかりやすく語った『これからの世界をつくる仲間たちへ』とも根本的に違っている。抽象一本ではなく、多様なシーンでの現実の変化を演算することに本書の主眼は置かれているのである。

 

あらかじめ「本書を読む前に」で断っているように、抽象的に概観を語った「プロローグーーーインターネットの身体化から、シンギュラリティ前夜へ」第1章 超AI時代の「生き方」は執筆原稿であるのに対し、第2章 超AI時代の「働き方」第3章 超AI時代の「生活習慣」はインタビューの文字起こしに加筆したもので、まるでTDKのCMの中の落合陽一が、あのフラットな口調でそのまま目の前でしゃべっているような臨場感があり、この語り口も本書の大きな魅力となっている。

 

抽象レベルのロジックと生活や研究の現場の身辺的なもののはざまの中間地帯で、ほとんど即興的に未来を演算しながら語ること、本書の楽しさは、概念によるSFのような未来社会像の組み立てにある。

 

これは、同時に、とりわけ第3章において、日常生活を異化し、笑いをとる結果につながっている。高コレステロール、高タンパク、高油脂なものの中毒性は、氷河期の人類の飢餓時代に脳に組み込まれた記憶に起因するという文脈の中で、

 

 ただ油に絡まって、しょっぱくて、炭水化物が含まれていたら、それはうまいに決まっている。さらにタンパク質が入っていれば最高で、それは焼肉とご飯とか、ラーメンとチャーシューとか、寿司だったら大トロがまさしくそういう系の食べ物だ。ソフトクリームやパフェ、ハンバーガーなども、私たちが遺伝子レベルで好きなものだろう。p149

 

また、「コンプレックスと平均値」に関する部分では、最近の落合の最大のキーワードである「エモい」や「エモさ」(感情の揺れ動き)が使われていてとても興味深い上に、役に立つ。コンプレックスは自らの不可能な目標との差か、他人との差のいずれかから生じる。前者は、できないことはできないのだからできることに集中すればよいだけ、後者は「レッドオーシャン」となるそんな場所で戦わなければよいだけということになる。抽象レベルの未来予測的トレンドの変化を扱っているように見えて、生活密着型の自己啓発書の側面も本書は同時に持っているのである。

 

こうしたゆるい展開のあとで、再び「エピローグ ユビキタス社会からデジタルネイチャーへ」で、落合は『魔法の世紀』の高密度な言説へと回帰する。その中では、まず「ヒト」の再定義が主題となる。ミシェル・フーコーが『言葉と物』で示したように、「人間」という概念自体が近代の発明品にすぎない。そして、今こそその古典的な「人間」の概念が消え去り、進化したテクノロジーと融合した別のものへと変容し、新たなパラダイムを迎えつつあるということだ。その中で、計算機的自然(デジタルネイチャー)を希求する落合の姿勢は一貫している。

 

 魔法の世紀とするか、奴隷の世紀とするか。今私たちに求められていることは、シンギュラリティへの恐怖を掻き立てることなく、人と機械の調和した、そして人間中心主義を超越した計算機的自然の中で、新たな科学分野を模索していくことである。p182

 

一歩先の世界へ、プロトピアへ。ケヴィン・ケリーの言葉を借りながら、落合が描き出す未来像は、クールで明るいが、古典的な「人間らしさ」の概念を捨てることを、私たちに挑発的に、あるいは誘惑的に迫るのである。

 

『超AI時代の生存戦略』は、どの章、どの項目から読むことも可能であるような、落合の著書の中でも特異な本であり、その読み方も、抽出されるエッセンスも、人により異なることだろう。そして、全体を大雑把に消化するよりも、最もシンクロする部分、つまりあなたがエモいと思う部分に注意と努力を集中的に向けることが、あなた自身の生存戦略につながるのではなかろうか。

 

関連ページ:

落合陽一『これからの世界をつくる仲間たちへ』 
落合陽一『魔法の世紀』 

書評 | 21:20 | comments(0) | - | - |
柳澤健『1984年のUWF』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略  ver.1.01

 

 

年配の格闘技ファンなら誰しもが記憶しているUWF。タイガーマスクの新日本プロレス離脱ののちに生まれ、佐山聡、前田日明、高田伸彦(延彦)、藤原喜明らの名前とともに記憶されている格闘技界の一大ムーブメントである。しかし、ファンの間でもその位置づけは格闘技とプロレスの中間を、真実とポストトゥルースの間をさまよっている。柳澤健『1984年のUWF』(文藝春秋)は、このUWFの誕生、発展、解体の歴史をたどる中で、UWF評価の問題に決着をつける決定的なドキュメンタリーである。

 

『1984年のUWF』は、中井祐樹の少年時代から始まり、1995年の中井祐樹のヴァ―リトゥード・ジャパンで終わる。あたかも、UWFの誕生とその後の解体と再編のプロセスが、MMA(総合格闘技)が誕生するための布石であったかのような展望のもとに書かれている。増田俊也の『VTJ前夜の中井祐樹』につらなるUWFの歴史を、大河ドラマのように浮き彫りにしてゆくのである。

 

冒頭で登場する中井祐樹は、プロレスラーに憧れた格闘技少年として現れる。学業成績も優秀な優等生で生徒会長にも選ばれた中井は、UWFに行くことを目標にしながら、北海道の中学で柔道部員を相手にシューティングの試合を連日続けてはノートに記録を続けていた。実は、その記述の中に、UWFの問題はすでに凝縮されている。

 

 だが、残念なことがひとつあった。

 試合時間が短すぎるのだ。自分たちの試合は最短で15秒。長くとも数分以内に決着がついてしまう。

 一方、UWFの試合は少なくとも10分以上、長ければ25分を超える。

「やっぱりプロはレベルが高い」と感心したが、そのうちに「試合時間25分」とどうしてもノートに書いてみたくなり、関節技を極めるチャンスをわざと逃すようになった。

 リアルファイトからほんのわずかに逸脱しつつ、北海道のシューティングは順調に試合数を重ねていく。

 ところが、50試合ほど戦った中3の夏に大事件が起こる。中井が繰り出したフライング・ニールキックが相手の腹部にモロに入ってしまい、病院に行く騒ぎになったのだ。pp14-15

 

ここで中井の最初の挫折が来る。シューティングの存続を賭け柔道部顧問の教師と対決し敗れた中井は学校でのシューティングを断念することになる。

 

中井の後を受けて登場するキャラクターは、カール・ゴッチである。ずば抜けた強さを持ちながらも、アメリカで不遇をかこっていたゴッチの苦境を経済的に救ったのは、新日本プロレスでの仕事であった。相手を力でねじ伏せる関節技、サブミッションホールドを磨くのではなく、凶器攻撃や急所攻撃、流血に本場アメリカプロレスの堕落。その中で孤高の道を歩もうとするゴッチの信念を許容する場は、日本以外になかったのだ。

 

アントニオ猪木から依頼されたのは、若手選手のコーチに加え、レスラーとしてリングにあがること、レスラーの招聘の三つだったが、ブッカ―としてのゴッチに猪木は早々に見切りをつけてしまう。実力はあっても華がないレスラーでは客は呼べない。それでもゴッチは新日本プロレスとの関係を断つことはできなかった。

 

 ゴッチに残された役割は、前座レスラー数名のブッキングと、日本の若手レスラーにわずかな期間だけプロレスの基礎を教える臨時トレーラーだけになった。

 カール・ゴッチは大いに不満を抱いたものの、猪木との関係を断つことはできなかった。

 すでにアメリカのマット界にゴッチの居場所はなくなっていた。さらに新日本プロレスから支払われたギャランティがなければ、フロリダ州タンパ郊外の小さな町オデッサに一軒家を購入することは到底不可能だった。ゴッチの生活は、新日本プロレスから得られる収入で成り立っていたのだ。

 アントニオ猪木は、藤波辰己、長州力、藤原喜明、佐山聡、前田日明、高田伸彦などの若いレスラーを、次々にフロリダで暮らすゴッチの元に送り込んだ。p38

 

そして、ゴッチに続いて本書で登場するのが、のちに初代タイガーマスクとなる佐山聡なのである。

 

柔道、ついでアマレスで頭角を現した万能選手の佐山は、1975年7月に新日本プロレスに入門する。そのスパーリングの厳しさに慣れたころにプロレスの勝敗に初めから筋書きがあることを知らされ、純真な佐山は衝撃を受けるのであった。18歳の青年の胸には新しい格闘技の構想が芽生え、猪木もそれに対するサポートを約束したが、佐山がメキシコ、ついでイギリスでも、その華麗な動きで人気選手になるに及んで、約束は反故にされ、タイガーマスクの誕生によって、完全に忘れさられてしまう。

 

佐山の格闘技への志向、新日本プロレスの若手に受け継がれたカール・ゴッチの遺伝子が、UWF誕生の背景には存在する。だが、新日本プロレスでのトレーニング自体が、本来矛盾を抱えたものであることを柳澤は指摘している。練習はガチであり、プロレスの練習は一切やらず、リアルファイトに基づく選手の序列が決まっているのである。

 

 ところが、驚くべきことに、新日本プロレスのレスラーたちは”プロレスの練習”をほとんどしないのだ。新日本プロレスにおける”練習”とは、フィジカルトレーニングとサブミッション・レスリングのスパーリングを意味する。ラリアットを受ける練習も、ロープワークの練習も、ドロップキックの練習もほとんどやらない。

 (…)

 新日本プロレスには、“華麗な技の応酬を繰り返して練習して、完璧なエンターテイメントを観客に提供しよう”という発想がまったくないのである。すべてはアドリブなのだ。

「若いレスラーにはガチ(リアルファイト)を道場でもやらせる。リング上でもやらせる。そうすることで、レスラーはプロレス魂を植えつけられる。pp146-147

 

タイガーマスクの離脱やUWFの誕生の直接のトリガーとなったのは、アントンハイセルの経済的な失敗のしわ寄せに対する不満を、選手たちが爆発させたことだが、アントニオ猪木の遺伝子、カール・ゴッチの遺伝子を受け継ぐことによって生じるリアルファイトへの欲求は、佐山に限らず、多くの若手レスラーに共通のものであった。

 

しかし、最初のUWFが成立した後には、そのルールや、ファイティングスタイル、コスチュームに至るまで、佐山主導で進んだにもかかわらず、自らジムを持ち新たな格闘技を志向する佐山と、他の選手との間の溝はしだいに大きなものとなってゆく。そんな中で、佐山と前田、藤原の決裂がリング上で決定的となり、佐山はUWFを去ることになり、新日本プロレスとの業務提携など、UWFは新たな道を模索せざるをえなくなった。

 

最初前途洋々たる若者たちの立志談のように明るい希望に満ちたものであった『1984年のUWF』が、しだいに苦汁を満ちた世界に変わるのもこのあたりからだ。選手間だけでなく、フロントとの対立。社長の浦田の逮捕やスポンサーの不祥事などに見舞われ、安定路線を長期化することができないまま、UWFは迷走し、解体する。そしてUWFインターとして再生する。だが、『週刊プロレス』というメディアに支えられ、一部ファンの中で、UWF幻想は肥大化する一方で、看板となる前田のトレーニング不足、グレイシー柔術との対決などにより求心力を失ったUWFは再び解体してしまうのである。

 

『1984年のUWF』の中では、柳澤はUWFに限らず新日プロの試合も、前田がUWFののちに結成することになったリングスの試合もどこまでがリアルファイトでどこまでがプロレスであったのか、その境界をはっきりと示している。IWGPにおけるアントニオ猪木のKO劇が、一般紙に報道されることを狙った猪木自身による自作自演の結果であったことさえも。

 

ロープには飛ばない、反則や場外乱闘はしないことで、従来のプロレスとの差別化をはかろうとしたUWFもまた、格闘技志向のプロレスにすぎなかったことが明らかにされてしまう。その指摘は決して新しいものではないが、あちこちの記事で、断片的な記述として読むのと、すべてを編集・総括されたものを大著の中で読むのとではまったく印象は異なる。UWFに対する幻想を曖昧なまま自らのうちに温存させてきた往年のファンにとっては、かなりきつい読書体験となるかもしれない。

 

『1984年のUWF』を貫くのは、本文の最初と最後が佐山の遺伝子を受けついた中井祐樹の記述であるように、あくまでリアルファイトの格闘技誕生を目指す佐山イズムである。その点が、かつての藤原や前田、高田らのファンにとっては心地よくない部分もあるだろう。特に、前田日明に関しては、格闘王ともてはやされたまさにその部分が、外人レスラーの言葉を借りて、プロレス下手、エゴイスティックなファイトスタイルと非難にさらされているのは、一方でその温かさ、漢気を評価するだけではフォローしきれていないと感じるかもしれない。

 

長州力は、UWFが「あっち(格闘技)」と「こっち(プロレス)」のどちらかと問いかけ、「こっち」であるのに「あっち」のふりをしているのがけしからんと憤っていたし、離脱後の佐山の不満も、UWFが自分の確立したスタイルを模倣しリアルファイトを謳いつつプロレスを続けていることに不満をつのらせていた。そういう意味において、『1984年のUWF』は、あくまで「あっち」側から見たUWFの風景であり、真実の一面である。

 

思い入れや偏りのない真実などは存在しないし、面白くもない。『1984年のUWF』は、増田俊也の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』同様、その偏りを隠すことがなく、しかしその偏りそのものが武器であるような名著である。何よりもそこには南百、何千万という格闘技ファン、プロレスファンの感じたあの1980年代の熱気があり、そしてレスラーたちが、ファンともども見た夢が、その裏側の影、現実ともども、永遠に定着されている。『1984年のUWF』は、リングの上の戦いに自らの青春時代を重ね合わせ、夢や理想を見たかつての若者たちの卒業アルバムにほかならない。

 

関連ページ:

増田俊也『VTJ前夜の中井祐樹』

中井祐樹『希望の格闘技』

増田俊也・中井祐樹『本当の強さとは何か』

 

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