JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
『えんとつ町のプペル』は、お笑い芸人であり、また絵本作家としてもこれまで『Dr.インクの星空キネマ』(2009)、『Zip & Candy ロボットたちのクリスマス』(2010)、『オルゴールワールド』(2012,原案タモリ)と意欲的に作品を世に送り出してきた西野亮廣の最新作の絵本である。読者の大半を占める子供たちにもなじみやすくするためか、著者名はにしのあきひろとひらがな書きになっている。
これまでのにしのあきひろ名義の絵本では、基本的に絵も文章も西野亮廣が担当していたが、今回の作品では絵は複数の人間の分業によって制作されている。西野が手がけたのは原作の文章と、絵コンテだけで、絵の風景やキャラクター、彩色の仕上げは他の絵師の手によるものである。奥付にはメインイラストレーターの六七貫をはじめ、7人のアートディレクターと19人のイラストレーターが名を連ねている。西野の近著『魔法のコンパス』によれば、絵本を送り出すにあたって、西野がまず狙ったのは、製作に誰よりも時間をかけることであった。そして、あらかじめクラウドファンディングでお金を集めることで、予想される売り上げ部数による予算の制約を外し、絵本を一人で作るのではなく、集団で制作する道を切り拓いたのであった。
いわば、スタジオジブリの宮崎駿的な立場に、西野亮廣はあると言えよう。
絵本の中の絵は、ただ単に文字によるお話、ストーリーを視覚的情報によって補うものだろうか。多くの絵本は、味はあるがシンプルな色使いと描画で、むしろ余分の情報を与えまいとする。だが、『えんとつ町のプペル』において、絵はそれ自体が世界の表現であり、物語はそこへの導線にすぎない。視線は、そこにいったん入り込むと、言葉で語られているものから語られていないものへと、ディテールからディテールへと、世界を表現する色から色へと、限りなく彷徨い続けるのである。「聖なる神は細部に宿る」と言われるが、『えんとつ町のプペル』には神の宿る細部を持った書物である。この本を読む読者には、子供であろうと大人であろうと、物語から外れて、絵の世界へと迷い込む悦楽がそこにはあるのだ。
えんとつ町は、無数の煙突が立ち並び、空は煙に覆われて星が見えない夜のコンビナートのような町である。けれども、工場ではなく商店の並ぶ町の部分は、懐かしさをたたえた街でもある。それは香港や台湾の街に似ているし、『千と千尋の神隠し』の湯屋の世界にも、リドリー・スコット『ブレードランナー』が描く日本の街にも、創建当時の姿が復元された東京駅丸の内口の夜の風景にも似ている。登場人物たちは、プペルやルビッチにしても、西洋風の名前なのだが、看板に書かれた文字の多くは、漢字とひらがな、カタカナで構成され、日本語が主体である。だが、日本の商店街の看板が日本語だけで構成されていないように、BARやCIGARETTEというアルファベットも交じって見える。そしてこの無数の看板のあふれる街は、無数の提灯によって照らされ、まるでランタンフェスティバルの長崎のようである。昭和どころか明治、大正レトロ感覚の加わった無国籍な町、それがえんとつ町なのだ。
『えんとつ町のプペル』は、ハロウィンの日に始まる奇跡の物語である。郵便配達がゴミの山に落とした心臓が、周囲のゴミを集めてゴミ人間のプペルが生まれた。プペルはハロウィンの日、子どもたちの扮するモンスターたちに交じって、街を楽しくねり歩くものの、プペルの姿が仮装ではないことが子どもたちに知られると、途端に汚い、くさいと言われ、プペルは嫌われるようになる。
一人ぼっちになったプペルの前に現れたのが、煙突そうじのルビッチであった。自らもすすだらけのルビッチは、プペルを嫌うことなくなかよしになる。ルビッチは、幼くして父親を亡くし、母親に女手一つで育てられた少年だった。しかし、いつしかルビッチも他の子どものようにプペルから離れる時が来るのであった。
プペルの姿は街から見えなくなる。彼はどこへ行ったのか。そして、ルビッチはプペルと再会することはあるのだろうか。
プペルは、ETのように、この世ならぬ異形の姿を持ったキャラクターである。けれども、彼はまた、スクールカーストの中で最下層に位置する、「いじめられっ子」のように、差別された存在でもある。
けれども、プペルの中には、ルビッチにとってかけがいのない宝が秘められているのだった。
それに気づくときに、この物語は終わる。
『えんとつ町のプペル』は、サンテグジュペリの『星の王子さま』のように、目に見えないものの大切さを教えてくれる物語である。けれども、同時に、それは目に見える世界の素晴らしさを、魅惑を教え、絵の表層の世界の無限の彷徨へと読者を誘う本でもあるのだ。
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