JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(ダイヤモンド社)は、小説形式の哲学入門書である(もちろん、哲学者をキャラクターとしたファンタジー小説という言い方も可能だ)。
主人公は17歳の女子高校生児嶋アリサ(わかる人はわかるが、この名前自体にも仕掛けがある)。京都の「縁切り神社」と呼ばれ安井金刀比羅神社での願掛けの後、「哲学の道」で出会ったニーチェに哲学の手ほどきをされながら、キルケゴール、ショーペンハウアー、サルトル、ハイデッガー、ヤスパースといった哲学者や音楽家ワグナーと京都の様々な場所で出会い、哲学についての知識と洞察を深めてゆくというかたちをとっている。
表紙をはじめとして、本文中の何カ所かで挿入されるイラストを担当するのは、杉基イクラ、細田守のアニメ映画『サマーウォーズ』のコミカライズを担当したこともある実力派漫画家で、かなり贅沢な起用である。
しかし、杉基イクラが描くところの哲学者たちの肖像は、ニーチェにせよ、サルトルにせよ、私たちの知っているあの肖像写真とはかけ離れている。微妙に雰囲気は似ているが、私たちが知っているあのキャラクターではない。そして、それにはもちろんしかるべき理由があるのだ。
「まあ、私の話はおいておいて、こないだニーチェのことをネットで調べてみたんだけど、写真と見た目が違うよね?顔立ちははっきりしているけど、外国人感はないじゃん。いまは誰かにのりうつっていたりするの?」
私は弾みをつかるように、肩に掛けた学校の子弟バッグを、掛け直した。
「のりうつっている……か。まあ、そのようなものだ、期間限定ではあるがな」
「期間限定なの?それって、いつまで?」
(pp29-30)
ここにも、小説としての重大な仕掛けがあるがそれは本を最後まで読んだ人だけの楽しみとしよう。
哲学を小説のかたちにするのは、ヨ―スタイン・ゴ―デルの『ソフィーの世界』など珍しくないが、それ以上にある必然性がある。そもそも、哲学の発祥の地、古代ギリシアのプラトンの著作群が、ソクラテスとさまざまな哲学者との対話のかたちで書かれているからだ。そして、逍遥学派という言葉があるように、古代ギリシアの人々は歩きながら哲学した。「哲学の道」のある京都ほど、このような哲学者との対話にふさわしい場所はない。
ニーチェとともに児島アリサが訪れるのは、京都御所や高台寺のねねの道、木屋通り、出町柳、吉田山など京都の街のいわくありげな場所であり、そこでどのような人物が現れ、どのような哲学を語るのかはポケモンGO!的な楽しみがある。
選ばれた哲学者たちは、サルトル、ハイデッガー、ヤスパースは、第二次世界大戦後一世を風靡した実存主義の代表する哲学者であるし、キルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェも、実存主義の先駆とされる19世紀の哲学者である。
それにはしかるべき理由がある。彼らの仕事は、世界がどうであるか、どのようにして生まれたかという世界観や、どのようにしてひとは世界を知ることができるのかという認識の問題ではなく、むしろ人間はどのような存在であり、どのように生きるのべきなのかという人間存在そのものの意味を問いかけた人々であったからである。
実存主義の系譜にある哲学は、私たちが生きることの意味そのものを問いかける。それゆえ、その後の構造主義とは異なり、わかりやすく語るなら、誰もが自分の問題として考え、語ることができる内容なのだ。
たとえば、ニーチェに関しては、畜群道徳、ルサンチマン、永劫回帰、「神は死んだ」、運命愛といった主要概念を、現代人の日々の生活感覚と照応しながら、わかりやすく解説する。そして、きらりと輝く言葉を放ち、人生を照らしてくれるのだ。
妬みや嫉妬の対象となるものが”悪”で、”悪”の反対側にあるのが自分であると人は考えるものだからな。(p89)
人生に意味などない。意味がないことを嘆くのではなく、意味がないからこそ自由に生きるのだ。(p105)
といった具合である。こうした哲学者たちの台詞は、読んだ本のパラフレーズだけでは長くは続かない。あるときは『デスノート』のLに、あるときは『デトロイトメタルシティ』のヨハネ・クラウザーになりきる松山ケンイチのごとく、異なる考え方をする哲学者になりきるプレイの力が要求される。
この本のエッセンスは、さまざまな哲学者の言葉を、本人と語る中で、さまざまな人生の問題にひきつけて問いかけ、考えるということにあるけれども、他にも魅力がある。
京都を舞台とした観光小説としても、とてもよくできているのだ。簡潔ながらも鮮やかに京都の魅力的な場所の描写をまとめているし、出町柳の「ふたば」の や、鯖寿司のいづ重など、グルメスポットも数多く盛り込んであり、京都を訪れたことのない人も、始終歩いているひとも、街の隅々がずっと親しく感じられる小説である。さらに、京の年中行事や季節とのマッチングも素晴らしい。感動的なエンディングには、京都の夏のはかなさが宿っている。
きっと原田まりるは、哲学だけでなく、京都の街を、そして京都のさまざまな食べ物を深く愛しているにちがいない。
『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』は、哲学に恋する小説だけでなく、京都の街に恋する小説でもある。