つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< September 2016 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
 
ARCHIVES
RECENT COMMENT
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
沢木耕太郎『旅の窓』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

(…)旅を続けていると、ぼんやり眼をやった風景のさらに向こうに、不意に私たちの内部の風景が見えてくることがある。そのとき、私たちは「旅の窓に出会うことになるのだ。その風景の向こうに自分の心の奥をのぞかせてくれる「旅の窓」に。

 

       Kindle版

 

『旅の窓』(幻冬舎文庫)は、作家沢木耕太郎の紀行文集である。

一枚の写真と、対になる原稿用紙1枚程度の文章、それが80ばかり。

 

しかし、何とも贅沢な紀行文である。写真が撮られたのはほとんどが海外の場所であるが、おびただしい数の国、場所からなっている。挙げると中国のコロンス島、麗江、浙江省臨海、杭州、桂林、雲南省麗江、広西チワン省自治区、四川省成都、新疆ウイグル自治区、カシュガル、マカオ、香港、ヴェトナムのフエ、ホーチミン、カントー、インドネシアのバリ島、チベット、ネパールのカトマンズ、ヒマラヤ、イギリスのロンドン、フランスのパリ、コートダジュール、ドイツのケルン、フランクフルト、スペインのバルセロナ、アンダルシア、マラガ、バスク地方、ローザンヌ、ポルトガルのナザレ、サンタクルス、イタリアのパルマ、ギリシアのアテネ、イオニア海の島ケルキラ島、アメリカはジョージア州アトランタ、フロリダ州マイアミ、ニュージャージー州、ハワイのオアフ島。キューバのハバナ、ブラジルのヘンレ、サントス、モロッコとサハラ砂漠、オールトラリアのキッッツビュエール、世田谷…

 

マカオやナルセロナ、麗江など二度三度出てくるものもあるが、ほんの一瞬の光景を表現するために、これだけの場所での記憶が惜しげもなく動員されている。一つ一つの文章は、簡潔ながらも鮮やかなイメージを喚起する名文である。

 

写真は、たった一本のレンズで、ほぼ一瞬の情景をとらえたものだ。とても鮮やかな発色のフイルムで撮られている。深夜特急の作者ならさぞかし前から世界中で写真を撮り歩いているだろうと思ってしまうが、実はそうでない。旅先で写真を撮るようになったいきさつを沢木は次のように語っている。

 

 かつて私は旅先で写真を撮ることはなかった。『深夜特急』の旅のときは、金が乏しくなったとき高く売るためにカメラを持って行ったが、それ以前も以後も荷物が増えるのがいやで持っていくことがなかった。いまになっては少々もったいなかった気もするが、あるときまでの旅の写真はまったく残っていない。

 ところが、一九九〇年になって、この二十世紀最後のミレニアム、十年間をカメラでスケッチしたいと思うようになった。そこでカメラを一台買い求め、外国に行くときはそれを持っていくようになった。(「心の窓 文庫本のために」)

 

猫や猫、鳥といった動物たちの姿を捉えたものは心を和ませてくれる。

 

子ども、おばあさん、父と子、スポーツの観客、列車の乗客の一瞬の姿をとらえた画像は、人生の一コマを感じさせ、聞こえない向こう側の声に耳を傾けさせる。

 

 異国を旅する旅人が、まず最初に親しくなるのは子供と老人である。と前にも書いたことがあるような気がする。だから、必然的に旅人が撮る写真は子供と老人のものが多くなる。(「芸術的な皺」)

 

街角のさりげない風景。

 

 それは静かで、落ち着いた佇まいの町だった。家々の庭に植えられている落葉樹は燃えるように色づいており、空は恐ろしいほど青く澄んでいる。

―――美しいな、この町は何という名前なのだろう。

 そのとき、当たり前のことに気がついた。世界に「名もない町」などというものはないということに。(「名もない町」)

 

海辺や湖、川の風景。

 

 まったく音のない静かなその場所でぼんやりしていると、どこからか真っ白い帆を張った一隻のヨットが、まさに滑るようにやってきて、私の視野に入ってきた。

 紺碧の海に、白い帆を張った、ただ一隻のヨット。(「輝く光の中で」)

 

とりわけ朝の光やマジックアワーと呼ばれる日没前の画像は印象的だ。

 

  夕方の光というのは、どうしてこのように美しいのだろう。すべてが、黄金色の光の中で、神秘的に輝く。

  たとえば。

  ゆっくりと陽が落ちていくにつれて、港の中の小島に建つ小さな教会の白壁が、薄くピンク色に染まり始める。

(「白壁が紅く染まる頃」)

 

ほのかに教会を照らすロウソクもグラスを通す光線は、あまりに美しい。

 

ありがたく呑み始めたが、ふと気がつくと、安物のグラスの中の、安物の白ワインが、窓から入ってきた冬の陽光に刺し貫かれ、これもまたいかにも安物風の白いテーブルの上に輝くような形を作っている。

 その美しさに息を呑んだ私は、思わずバッグからカメラを取り出してしまっていた。

(「グラスのきらめき」)

 

ほんの一瞬の風景を流すことなくキャッチし、言葉へと変換できる卓越した観察眼と表現力のみがなせる業だ。

 

『旅の窓辺』は心に残り、何度も開きたくなる一冊で、その意味で電子書籍版をタブレットに入れておきたい本だが、実はKindle版は不満な点がある。字が小さくなることを回避するためなのか、縦にしても横にしても、紙のようには、見開きでは表示されないのだ。この本の妙味は、画像と文章を同時に見ることができる点なのに、交互に表示し行ったり来たりしなくてはならず、動線がすっきりしない。そうした意味で、電子書籍はまだ発展途上の未完成の存在と言わねばならない。

中村文則『去年の冬、きみと別れ』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

中村文則『去年の冬、きみと別れ』は(幻冬舎文庫)は、作品の隅々まで知的に構築された、純文学の文体で書かれたミステリーだ。

 

物語の冒頭で、「僕」は女性二人を殺し、死刑囚となった男性カメラマンの取材をしようとする。そうして事件の真相を明らかにしようとするのである。果たして、男は本当に、二人の女性を殺したのか。そのために本人と手紙をやりとりし、彼の姉にも話を聞き、次々に関係者とのコンタクトをとるというオーソドックスな物語の形式をとっているかのように見える。

 

けれども、スルーしてならないのは、順に並べられるのは、取材の過程で作成された資料であって、一人の登場人物による語りではないということだ。資料1、資料2と続く中で、イレギュラーが紛れ込むことに注意しよう。

 

それぞれに登場する語り手が誰なのか、必ずしもステータスが明示されているわけではない。読者は文脈から誰が誰のことを語っているかを見分けながら、情報を蓄積してゆくことになる。

 

しかし、芥川の『藪の中』同様、誰かが嘘をついている。あるいは、他人の嘘を真に受けて語っていいる。読者は、注意してそれぞれの主張に理があるのか、おかしい点がないか注意を払いながら読み進めなければならない。

 

文の中には、他の事柄を語りながら、実は事件の真相を語るような、自己言及的な表現も繰り返し用いられている。何がやりたいのか、鋭い読者ならこのへんで気がついてよいのではと、作者が目くばせするかのように。そう、この作品は、他の多くのミステリー同様、読者と作者の知能戦なのである。

 

最終的には、それまでに張り巡らせた伏線をきちんと回収し、事件の真相が明らかにされる。そうした後で、もう一度最初から読み直してみると、なるほどそういうことだったのかと腑に落ちて、すべてが別の様相で現れてくる、そんな風にできているのである。

 

ただ、この作品の中で、作者が、芸術にとりつかれた人間の狂気とか、死刑囚の人間の心情に本気で肉薄しようとしているのだと考え読み進めるなら、かっがりするかもしれない。それらはどこまでも素材にすぎず、『去年の冬、きみと別れ』は決してヒューマンな作品ではないからである。

 

青木真也『空気を読んではいけない』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

『空気を読んではいけない』(幻冬舎)は、格闘家青木真也の格闘技哲学の集大成となる一冊である。

 

その哲学は、恐ろしくシンプルで無駄がなく、タイトル通りの一貫したロジックで貫かれている。

 

驚くのは、「PRIDE」「DREAM」を渡り歩き、最近では桜庭和志をTKOで下すなど日本の格闘技界のトップファイターとして君臨する青木が、自分を凡人と位置づけ、それを基準に、格闘技哲学を形成している点である。

 

凡人は、人と同じことをやっていたのでは、強い相手に勝つことはできない。どうすればいいかと言えば、相手の知らないような技を身につけ、磨きをかければ、実力が上の相手にも勝つことができる。だからどんどん新しい技を身につけるようにした。いわばニッチを狙った成功哲学である。

 

 みんなと同じやり方で練習をこなしても、伸びしろなんかたかが知れている。誰もやっていない技を、人知れず突き詰めるからこそ、予想できない進化をするのだ。

 

しかし、日本的な組織では、たとえ試合で上位に立つことができようと、そのままポジションを占めることができるわけではない。組織の一員として認められるためには、みなと同じことをしなくてはいけない。

 

そんなわけで、青木は柔道部から除名された。

 

空気を読んではいけない―――言うのは簡単だが、学校であれ、会社であれ、ほとんどの組織ではそれを徹底すると孤立する。孤立しても構わない。友達も要らない。タニマチも要らない。

 

 友達という存在がなければ、人間関係の悩みを抱えることも少なくなる。友達なんて持たずに、自分の思ったように生きる。そうすることで、やるべきことに集中できる。

 

しかし他にやりたいものがない以上、格闘技のプロとして食ってゆかなければならない。とかく美談にされがちなアルバイトをしながら、格闘技をやるといった生き方を青木真也は認めない。

 

 僕からすればアルバイトを続けている選手たちは、プロ格闘家ではないと思っている。厳しい言い方をすればば、フリーターが格闘家の顔を持っているだけ。

 

プロとして生計を立てられること。そのために、大事なのは交渉を人任せにしないことだ。なぜならそこで自分の価値が決定されるから。アメリカの「UFC」に進出した日本選手たちも、不本意な条件をのんで戦い続けた結果、思うような結果を残すことができず、ボロボロになったのだ。ビジネスマンのように、セルフマネジメントをしっかり行うことが格闘家にも求められるのだ。

 

二度も団体が潰れることで、それまでトップに君臨しても、高額なギャラも、交渉の結果得た月給も、次の月からは払われなくなるという苦渋を経験した。

 

強くなること、いい試合をすること、オンリーワンの付加価値を持つこと。

 

格闘家として生き延びるためには、何をすべきか。朝から晩まで考えに考え、試行錯誤を続けた結果がここにまとめられている。

 

すべての結果を自分のせいと考えること。人任せにしないこと。試合が判定に持ち込まれることも、審判に判断をゆだねることである。だからできることなら文句のつかないような勝ち方をしたい。

 

格闘技にすべてを賭ける生き方を自分は選んだ。だから、部屋も徹底的に断捨離し、関係ないものは何でも捨てる。友人もいらない。車も要らない。女も要らない。頭角を現す前に、他のものを同時に得ようとする生き方を青木真也は否定する。

 

試合で大事なのは、殺すという気迫と同時に、殺されるという恐怖を同時に持ち続けることであると青木は言う。

 

勝つならば負ける覚悟。刺すならば刺される覚悟。折るならばおられる覚悟。

総合格闘技の試合でも、両極の覚悟を持たない選手は相手として怖くない。

殺す気迫とともに、殺される恐怖を持て。

 

前者だけではダメなのだ。テンションをやたらとハイに持って行ってよい試合ができるだろうか。

 

冷静な相手の前には早晩隙を露呈し、そこを突かれて、玉砕するのがオチだ。格闘技とは、結局のところ相手のミスを引き出すための戦いなのだから。

 

だから、平均台の上の体操選手のような用心深さこそ必要である。試合前に恐怖を感じないような鈍感な選手は決して強くなることができないのである。

 

『空気を読んではいけない』は、一種孤高の哲学であり、万人向けとはゆかない狭き門の哲学かもしれない。しかし、組織になじみ、染まることができない人にとっては大いなる福音書である。こと格闘家やスポーツ選手に限らず、フリーランス、個人事業主として生きようとする人は、背中を押したり、軌道修正したりするための多くのヒントを得ることができるにちがいない。そして会社や学校などの組織で、周囲とは一線を引いた生き方をあえて貫こうとするときに、何をしなければならないかも教えてくれるのである。

 フリーランスは保障もなく不安定な立場とよく言われるが、実は不況に一番強いと思っている。組織にぶら下がることなく、安定を捨ててこそ、本物の強さが得られる。

書評 | 23:26 | comments(0) | - | - |

(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.