つぶやきコミューン

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東野圭吾『危険なビーナス』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

東野圭吾の最新作(2016年8月刊)『危険なビーナス』(講談社)は、かつてなく魅力的なヒロインが登場し、主人公のうぶな恋心を翻弄しながら、事件が、いくつもの謎がいつの間にか解決してしまうという類のない傑作である。男女二人がホームズとワトソンのように、協力しながら探偵役となるのだが、その二人の関係は禁断の関係の前段階にとめおかれる。湯川学や加賀恭一郎など主人公のクールさが定評であった東野圭吾としては異例なことだが、主人公の下心を隠さずに語り続けるために、読者がそわそわとした状態におかれ、作者は謎解きを早々に読者に悟られることなく物語を進めることに成功しているのである。

 

町の獣医として働く手島伯朗のもとに、父親ちがいの弟矢神明人の妻を名乗るという女性が現れる。アメリカで知り合って向こうで結婚したばかりの二人だが、肝心の明人が行方不明になってしまい、その行方を知る手がかりを得るために協力してほしいという依頼であった。

 

派手なファッションに肉感的なボディ、自分のことを「お義兄様」と呼ぶ知的でしたたかな梢のペースに巻き込まれ、いつしか惹かれてしまう伯朗。だが、疎遠だった矢神家の親戚とコンタクトをとるうちに祖父の遺産を明人が一人で相続することになっていることなど遺産相続の泥沼を知る。さらに、十数年前浴室で変死した伯朗の母親の死の真相や画家であった実の父親一清の作品をめぐる謎まで浮上し、迷路の中に二人は迷い込む。

 

同時に、矢神家の親類たちからはただ者でないと梢に対し警戒心を抱くものさえ出てくる。元CAだったという彼女の正体は?

 

キーワードとなるのは、映画『レインマン』でも出てきたサヴァン症候群、そしてフラクタル。

 

明人は一体どこに消えたのか?今も生きているのか?

そして、伯朗の道ならぬ恋心の行方は?

 

『危険なビーナス』には、凄惨な事件も現在進行形の形では登場せず、甘く危険なラブロマンの行方によって、巧みに事件の真相がカムフラージュされてしまう。むしろゆっくりと1ページ1ぺージを楽しむように読みたい東野圭吾新境地の傑作である。

 

関連ページ:

東野圭吾『人魚が眠る家』
東野圭吾『ラプラスの魔女』
東野圭吾『マスカレード・イブ』 
東野圭吾『祈りの幕が下りる時』
東野圭吾『夢幻花』

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辻田真佐憲『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

辻田真佐憲の新書本に外れはない。第一に、何らかのネタ本ではなく、自分で膨大な一次情報にあたり、個々の資料に適切な評価を下しながら、オリジナルな形で集約していること。第二に、現在に通じる問題意識と新鮮な切り口を持っていること。第三に、イデオロギー的なバイアスをかけることなく、史料そのものをして語らせ、左右どの立場から見ても、有益なる発見があること。オリジナリティと、同時代性、ニュートラル性の三つを兼ね備えた上、『日本の軍歌』以来かなり短い期間で外れなく、しかもエンタメとしても面白く読ませるヒット作を出し続けているのは、驚異的である。

 

『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書)は、これまでここで紹介した三冊(『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』 『ふしぎな君が代』 『たのしいプロパガンダ』)とは異なる一つの特徴がある。軍歌にせよ、君が代にせよ、プロパガンダにせよ、もとより人の創作物であり、真実性(少なくとも事実性)が強く求められるものではなかった。だから、その歴史を純粋にたどり、特徴的なことやもの推移を記述すればよかった。しかし、大本営発表の場合にはその中身が直接歴史的事実に関わる。そして、ここで問い直されるのは、発表の内容の事実との距離である。したがって、時系列で大本営発表の内容を整理しながら、その時々の実際の戦果と被害を比較するという形をとらざるをえない。さらに、元の大本営発表そのものが、ポジショントークと過大申告による官僚の作文である以上、謎めいた文章の真意を読み取らなければならないために、非常に骨の折れるプロセスである。それを説明過剰にならず、限られたページの中にコンパクトに収めている点もまた素晴らしい。

 

辻田は、大本営発表を六つの時期に分け、それぞれに1章をあてている。それを見るだけで、大本営発表がいつどのように変わったか、大体の趨勢がわかるはずだ。

第一章 日中戦争と大本営発表の誕生(一九三七年十一月〜一九四一年十二月) 

第二章 緒戦の快勝と海軍報道部の全盛(一九四一年十二月〜一九四二年四月)

第三章 「でたらめ」「ねつぞう」への転落(一九四二五月〜一九四三年一月)

第四章 「転進」「玉砕」で敗退を糊塗(一九四三年二月〜一九四三年十二月) 

第五章 片言隻句で言い争う陸海軍(一九四四年一月〜一九四四年十月)

第六章 埋めつくす「特攻」「敵機来襲」(一九四四年十一月〜一九四五年八月)

 

これに加え、総括に一章が充てられている。

第七章 政治と報道の一体化がもたらした悲劇

 

今日大本営発表は、デタラメのオンパレードの代名詞とされているが、当初はかなり正確に事実を反映させようとしたし、また誤りがあれば修正するだけの余裕もあった。しかし、ミッドウェー海戦、さらにはガダルカナル島の攻防と敗け戦が増えるにつれ、しだいに敵の被害は過大に見積もり、味方の被害は過少に見積もる傾向がひどくなってゆく。有能なパイロットが戦死し失われるにつれ、未熟な若い兵士の報告は、曖昧な上に、周囲の期待が上乗せされてどんどん上方修正されるようになったのである。さらに、敗色が濃厚になると、「転進」や「玉砕」という美辞麗句による言いかえで糊塗しようとしたが、そうした作文にも限界が生じ、ますます事実から遊離したファンタジーの世界へと大本営発表は突入してゆくのである。

 

 連合軍の喪失数は、大本営発表に従えば、空母八十四隻、戦艦四十三隻に及んだ。一見とてつもない数である。日本海軍は、主力艦だけ見れば、たった七隻の損害で敵の百二十七隻を葬ったことになる。ところが、これがまったくのデタラメで、実際には連合軍は、空母十一隻、戦艦四隻しか失っていなかった。戦果は、空母で七十三隻、戦艦で三十九隻も水増しされた。p250

 

なぜ、このようなことになったのか。一つは最初から最後まで、陸軍と海軍の対立が生じ、互いに秘密主義を貫きながら、プロパガンダにおいて戦果を張り合おうとしたことである。相互の意思疎通がないために、虚報を真に受けて、フィリピンの陸軍部隊が壊滅することさえあった。さらに、不利な戦局を、客観的に分析し、被害を最小にするための判断を責任をもってできる人物がおらず、虚勢を張った精神論で打破することがよいことであるような空気に支配されていた。このため、途中の軌道修正もかなわず、どんどん情報は現実から遊離した方向へ暴走するが、最後には本土に敵機が襲来し、大きな犠牲者を出すに及んで、それも不可能となり、不利な状況は「調査中」とし他方「特攻」をちらつかせ国威発揚をはかることで、誤魔化そうとするが誤魔化せない悲惨の極致で大本営発表は幕を閉じるのである。

 

(…)「大本営発表は、戦争末期になっても『勝った、勝った』と繰り返した」というイメージは改められねばならない。大本営発表は戦争中盤すでに破綻しており、末期にはもはや「勝った、勝った」とすらいえなくなっていた。大本営発表は、それほどまでに徹底的に破綻していたのである。p247

 

本書を読んで愕然とするのは、そうした日本軍の組織の問題点が、企業や役所など日本社会のさまざまな組織の中にそのまま残存し、組織としての成果を挙げることを妨げ続けている点である。陸軍と海軍に見られるような縦割り組織の問題点は、そのまま省庁の縦割りとして存在している。さらに、政権とマスコミの関係は、ここ数年それまでのそこそこ緊張感のある距離感を喪失し、しだいに癒着と恫喝による共犯関係へと近づいているように見える。

 

『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』は、著者が総括している「政治と報道の一体化」に限らず、現在の日本社会がDNAとして抱えてしまった問題点の数々を浮き彫りにしてくれる。戦争は、どのような分野であろうと、情報をおろそかにし、客観的なデータをありのままに集約し、分析することができなければ、さらに不利な局面では、早々に撤退する決断を下し、体勢を立て直すことができなければ、勝利することはできない。だが、不都合な真実よりも景気のよい虚偽の方が好まれる体質が組織において優勢であり続ける限り、その組織は問題を拡大再生産しながら敗北を続けることになるだろう。軍国主義よりも致命的なのは、情報軽視の上にガラスの心理的優位を築きたがるこの国民的空想主義である。それは、あなたの会社や職場を、あなたの学校を、クラブなどあなたの属する団体を、旧態依然のまま支配しているかもしれない。もちろん、そこから逃れ成功するイノベ―ティブな組織も少なくないが、規模が大きくなったり、役所や国がからんだりすると、悪しき遺伝子の方が必ずと言っていいほど支配してしまうのはなぜなのか。

 

『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』は、私達社会の置かれた身近な問題の数々を思考することを促す。

 

辻田真佐憲は、時代の鏡を私たちに示すことのできる、真の歴史家なのだ。

 

関連ページ:

辻田真佐憲『たのしいプロパガンダ』
辻田真佐憲『ふしぎな君が代』
辻田真佐憲『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』

 

書評 | 01:16 | comments(0) | - | - |
柴崎友香『その街の今は』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略 ver.1.01

 

 

柴崎友香『その街の今は』(新潮文庫)は大阪を舞台とした小説である。主人公の歌ちゃんは、28歳。務めていた会社が倒産し失業、次の職場も見つからず、カフェでバイトをしている。実家は大阪市内のマンションの10階だが、両親が愛媛で料理屋を開きたいとの希望から、この場所もいつまでもいられるわけではなかった。さらに交際していた男性も、結婚してしまう。そんな時期に合コンの帰り道に知り合った三歳年下の良太郎としだいに親しくなってゆく。歌ちゃんと良太郎が意気投合したのは、古い大阪の写真だった。なぜか歌ちゃんは、本屋で売っていた昔の絵葉書の中に知らない大阪の風景を見つけて以来、自分がいない時代の大阪の写真を様々な場所で見つけては、心躍らせるようになる。そして、良太郎はその写真入手の最有力ルートでもあったのだ。それでも、周囲からつきあっているとみなされることには抵抗がある歌ちゃんなのだ。

 

柴崎友香の他の多くの作品同様、『その街の今は』の登場人物は、呼び名のルールがまちまちである。智佐、良太郎のように名だけで呼ばれる人、百田さん鷺沼さんのようにさん付けで呼ばれる人、えっちゃん里依ちゃんのようにちゃんづけで呼ばれる人。しかも、同じような呼び方のニュアンスは、性別や年齢によって微妙に異なる。それらの名前は、ネーミングの統一性がないかのように見えて、実は私たちの日常の習慣そのもの、相手に対する心の距離を忠実に反映している呼び方であり、私たちから見える心の風景の一部をなしている。

 

人生の中で、人が見える風景が変わるのは、進学を除くと、三つある。一つは棲み処が変わる引っ越し、一つは仕事が変わる転職、そしてもう一つは交際相手が変わることだ。それによってそれまでなじみの風景から遠ざかり、新しい風景が目の前に現れる。歌ちゃんはこの三つを同時に経験しようとしている。『その街の今は』を、単に大阪の街の変化を描いたエッセイでなく、小説たらしめているのも、この巧みな状況設定ゆえにである。いわば、次の住処も、次の職場も、次の交際相手も決まらない宙ぶらりんの状態で、変化そのものに敏感になっている。そこから見えてくるのが、これまで住んできた大阪という街の変化なのである。

 

かつて働いていた職場はもはや存在しない。しかし、そこで働いていた自分がいた。

かつて交際し、その人の家に何度か外泊したことがある男性は、今は別の女性の夫である。だが、その男に抱かれた自分がいた。

これまでずっと住んでいた家から、自分はもうじき離れなければならない。そのとき、自分は一体どこに住むのだろう。

 

今はない職場を思う気持ちも、不倫の関係なんかまっぴらだと今は距離を置きたい男性に対する複雑な想いも、そして住み慣れた実家を離れる惜別の思いも、作中では抑制的で、多くが語られることがない。そして、その自己への禁忌を埋め合わせるように、歌ちゃんを夢中にさせるのが、今はもはや存在しない大阪の写真なのだ。

 

 戦争が終わってしばらくの間は、米軍が写真を撮っていた。昭和二十二年から二十三年にかけて撮られた心斎橋は、道の区画は今とほとんど変わっていなかった。道頓堀川があり御堂筋と心斎橋筋があり、規則正しく真っ直ぐな道路が交差していた。だけど、今と同じとわかる建物は、大丸とそごうしかなかった。それ以外は、背の低い、急場しのぎに次々に建てられたような家屋の黒い屋根が連なり、それから焼け跡の空き地もまだ残っていて、畝に見える黒い点々は野菜の葉らしかった。その地面には、ところどころクレーターのように凹んだ部分があって、爆弾がこの場所に落ちたのだということを、わたしはそのとき初めて実感した。実感と言うか、それまではたいてい白黒の写真や映像で見るその世界を、時代劇みたいな別の世界のようにしか思えなかったのが、急に、今自分のいる世界とつながって、穴だらけだった地面の上を歩いているのだと感じられた。pp50-51

 

2006年9月に単行本として出版されたこの小説の中で登場する大阪の地名は、心斎橋や道頓堀など、ミナミが中心の大阪市内の場所であり、常にその風景がめまぐるしく変わりつつある場所である。ソニータワーも、キリンプラザもはやなく、繰り返し登場する心斎橋の大丸も取り壊しが決まったばかりである。同じ場所にある阪急百貨店ももはや同じ建物ではなく、大阪駅はまるで別の存在に姿を変えてしまった。作中で現在となっている風景が、すでに過去の大阪となっている。過去の変化をとらえ、それを思考させる作品であるがゆえに、その後に生じた街の変化をもまた思考させる生きている作品、それが大阪の街を愛する人の必読書『その街の今は』なのである。

 

関連ページ:

柴崎友香『ビリジアン』
柴崎友香『パノララ』
倉方俊輔・柴崎友香『大阪建築 みる・あるく・かたる』
柴崎友香『春の庭』

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