つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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ラルフ・ミレ―ブス『バイコヌール宇宙基地の廃墟』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略


期間限定でラルフ・ミレ―ブス『バイコヌール宇宙基地の廃墟』のKindle版が300円だったので、思わず購入。構図の取り方、レンズのよさ、解像度と三拍子そろったクオリティの高い写真集である(解説は英文と日本語訳が併記)。

バイコヌール宇宙基地は、カザフスタンに位置し、1980年代のソ連崩壊前夜にアメリカのスペースシャトル計画に刺激され、つくられたソ連版シャトルであるブラン計画のための基地がある。そこには、20年経った今でも、建造されたブランやシャトルを宇宙まで運ぶロケットエネルギアが格納庫の中にそのままに残されている。

ソ連版スペースシャトル、ブランは実はアメリカのスペースシャトルの設計をそのまま下敷きにしているため、外観、サイズともそほとんど同じである。1988年に一度の試験飛行にも成功したが、その時は無人運転で、実は内装は未完成だったという。しかし、内装を完成させ、さらなる試験飛行を有人で行うだけの情熱も経済的な余裕はもはやソ連にはなく、そのまま放棄されたのであった。

この写真集の大半は、ワイドレンズ中心の構図で、格納庫内に収められたシャトルやロケットが前後左右、上下から収められているが、それらは様々なコミックや映画で見たことのある格好いい構図で撮られている。しかし、表面の風化、素材の劣化が漂うことで、何とも言えない無常観と悲哀を感じてしまう。漫画家やイラストレーター、ゲーム制作者には最高の資料となるだろう。

このようなスケールで、このような廃墟が、当時の宇宙船ともどもそのままに残されているのは、現代の奇蹟である。いずれ、軍艦島のような世界産業遺産に指定されるか、テーマパークにされるかもしれないが、過剰な装飾や脚色のないこのままの姿が一番よいことは言うまでもない。

 
田中圭一『Gのサムライ』
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「このマンガがゲスい」3年連続1位に輝いた田中圭一『Gのサムライ』(リイド社)、ところで「このマンガがゲスい」で惜しくも二位に輝いた作品は何で、どの出版社から出された賞なのか、調べてみてもさっぱり情報が得られません。まあ、そういう野暮なツッコミはさておいて、『Gのサムライ』はゲスい漫画にはちがいありません。では、そのゲスさの秘密はどこにあるのでしょうか?

『Gのサムライ』は全編下ネタ満載の漫画ですが、単にエロいからゲスいわけではありません。『ルパン三世』の峰不二子だってエロイでしょうし、『島耕作』だってエロい作品です。でも、『Gのサムライ』はそれらとは隔絶した世界です。

第一の特徴は不毛さです。島流しの刑にあった武士の品場諸朝(しなばもろとも)と貴族の腹上院魔手麻呂(ふくじょういんましゅまろ)は、性的快楽を得るために、ありとあらゆる手段を講じます。子孫を残すことにつながらなくても、とにかく快楽さえ得られればよいのです。ときには、島に本物の女性が近づくこともありますが、その接近遭遇も果たせず不毛に終わります。すべては、自慰行為の延長に終わってしまうのです。GのサムライのGの第一の意味は、自慰のGです。

第二の特徴は、その非人間性です。つまり女陰の快楽が得られるなら動物であっても構わないということです。まさに動物化するポストモダン。そういうわけで、さまざまな動物が、魚が、登場してきます。そうした動物の何らかの部分が、同じような刺激を与えることができれば、相手は人間でなくてもよいのです。早い話がコックリさんだろうと泉の精であろうと、女神でさえあれば何でもよいということになります。畜生道に堕ちることも、神仏を穢すことも厭わない、女陰の形をした砂でも何でもよい、つまり人間性を完全に放棄しているわけです。

第三の特徴は、変身と逆襲性です。それを食べると、一時的に身体の全体もしくは一部を女性化することができる薬や果実が出てきます。諸朝の考えも魔手麻呂の考えも同じです。相手を女性に変身させ、自分が男性としての快楽を得られるなら、それが誰であろうと構わないのです。しかし、その考えは成功しません。変身するときには、必ず二人一緒であり、その場に居合わせた第三者の男性によって二人のにわか処女は犠牲になる運命にあります。快楽の対象にしようとした動物にもメスとオスがあり、メスではなくオスによって逆襲を受けるのです。

基本的には、『Gのサムライ』は、男性の性的快楽を、自然界のモノや動物界、神霊界の異性、他人の女性への変身といった手段によって満たそうとし、絶えず裏切られる話です。しかし、その裏切られ方は千変万化。あっさりとカニやアリの動きによって、いかされたり、動物のオスに逆襲されたり、女性に変身した暁には島に上陸した男たちに貞操を奪われたり、はずみによって男同士がつながってしまうという悲劇的な結末に至ったりします。

GのサムライのGの第二の意味は、不本意な偶発的なゲイの世界であり、二人がノンケであるにもかかわらず、不本意なゲイ状態は誤爆によって常に起こりうるのです。そして、その相手が人間とは限らないというところに究極のゲスさがあります。

『性の歴史』という大著を著したフランスの哲学者ミシェル・フーコーが、もし存命であり、『Gのサムライ』を読むようなことがあれば、絶賛することはまちがいないでしょう。きっと彼は、第2巻のサブタイトルにしてキーワードであった「自己への配慮」というテーマをそこに見出しつつも、あたかもボルヘスの「支那の百科事典」の分類項目のような性的技法の多様性を思考することは不可能であると爆笑し、『言葉と物』の序文の中で予言したごとく、21世紀この東洋の島国ではすでに、人間というものが、波打ち際の砂に描かれた模様のごとく、消え去ってしまったことを確信し、高らかに「人間の死」を宣言するにちがいのです。

Kindle版

『Gのサムライ』の多くのページはこちらで読むことができます
トーチWeb Gのサムライ

関連ページ:
田中圭一『神罰 1.1』 
宮城公博『外道クライマー』
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2012年7月熊野大社の神体である那智の滝を上り逮捕された3名のクライマーがいた。宮城公博は、その中の一人(おそらくは首謀者)である。本来は誰も見ていない時間帯にこっそりとのぼりきるつもりだった。しかし、それは余りに失礼ということで、堂々と上ることにしたのである。
 
そのとき、暗闇で炊きの全容が見えないにもかかわらず、滝壺だけでも神の存在を感じさせる堂々たる雰囲気が私に伝わったのだ。すると不思議なことに、隠れて登ろうという気がなくなった。日本一に挑むのに、見つかって捕まることを気にし、こっそり登ろうなど、とんでもない保身。夜明けにを待ち、ここだというルートを見極め、堂々と昇るのがクライマーとして、沢ヤとして、多岐に対する礼儀だ。p16

大学の登山部が解散になる、会社をクビになる、山登りのスポンサーを失うなど、彼らに対する社会の制裁は厳しいものであった。宮城も福祉施設での職を失う。これで自粛するどころか、一層山登りに専念した生き方をしようと宮城は決意する。そんな場面から、この『外道クライマー』の冒険は始まる。
 
 それから数日後、私は七年間務めた福祉施設を辞めることになり、無職になった。気落ちし、悩んだ。
幸い、私には少しだけ貯えがあった。この際、今までなかなかやることができなかった国内外の大きな沢や山に行こう。開き直って、そう気持ちを切り替えることにした。それが今後の人生にとって正しい決断だったかは分からない。ただ、そうやって生きていくことが私にとって一番自然だと思ったのだ。
p24

宮城の目指す山登りは、通常の山登り、雪山登山とは異なる。俗に沢ヤと呼ばれる世界であり、渓谷を川沿いに遡り、あるいは下り制覇するというものである。ときには両側が切り立った崖となった地形が何キロにわたり続くこともある。このような谷をゴルジュと言う。日本の称名廊下で、台湾のチャーカンシ―で、そしてタイのジャングルで、宮城たちは前人未到のゴルジュの制覇を目指す。地球上からは未踏の山は消えてしまったが、渓谷の中には人を寄せつけない切り立った崖、何百メートルもの高低差のある滝が続くような前人未到の地形がいくつも残されている。流れが比較的緩やかな部分は、藪漕ぎと言って、岸辺にはみ出した樹木をかき分けながら沢を進むこともあれば、ザックを流れに浮かべ徒歩で進むこともある。だが、川の流れが危険になり人を寄せつけない場所では、わずかな手がかりしかない切り立った崖を登攀しながら踏破するしかないのである。

通常の登山では、自然との闘い、とりわけ雪や寒さや地形、高度といった無生物との闘いが主となる。しかし、沢ヤの世界は全く異なる。川の流れとの闘い、行く手を遮る植物の棘や蔓との闘い、アブやハチ、サソリやアリなどの虫との闘い、獣(ゾウやトラ、ワニや蛇など)との戦いを余儀なくされる。登山に加わるのは、密林の探検の要素であり、さらには筏の川下りの要素である。樹木や岩肌で塞がった視界の先に、何が次に来るかわからない。だからその変化に対応するクライマーの行動も日々刻々変化に富んで、垂直の岩壁を登っていたかと思うと次には竹を切り倒し筏を組んだりと、さながらジャズの即興演奏のようである。それが沢ヤの世界なのだ。

雪山への登山なら、その戦いを、そこに足を運ぶことなしに想像力をはたらかせて書くことも不可能ではない。いくつもの登山家たちの物語がフルコースとして語られ、私たちの中には祖型が出来上がっているからだ。しかし、『外道クライマー』に含まれる冒険の文章は、いずれも経験なしには決して書きえないものである。そこには私たちの想像を超える挑戦があり、想像を超える困難とその克服がある。それらすべてが身体感覚としてひしひしと伝わってくる文章なのだ。そして、困難を超えた後には必ずと言っていいほど荘厳なまでに美しい景色に出会うことになる。私たちはどんどんと禁断の沢登りや沢下り、滝登りの世界に魅せられてしまうのである。冬の瀑布では衣類を濡らし、低体温にならないために、全裸で沢を渡ったりもする。見るからに破廉恥なクライミングの背後にあるのは、生死を争う怜悧な計算である。

21世紀になってこれほど面白くわくわくするような冒険譚を読むことができるとは正直思わなかった。全身を覆うアリとの闘い、5メートルの大蛇との闘い、ぐるぐると回転し永遠に出られない川の巻き返しの罠にとらわれたり、極寒の凍てつくような瀑布を雪崩の爆撃を受けながら登りゆくさまの凄まじさ。それらの風景を、それぞれに個性的に描きだす著者の文章力も傑出している。長い旅程のプロセスを克明に再現しながら、弥次喜多道中のような人間模様をからめて読者を飽きさせることがない。『外道クライマー』は、2016年に出版されたノンフィクションの中で、最も過激でスリリングな作品、最も面白い本の一つである。

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