つぶやきコミューン

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佐々木敦『例外小説論 「事件」としての小説』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略



時代の小説を概観するには、メインストリームに属する作品よりも、例外的な作品に着目するのがよい方法である。それは、一種の事件として、小説そのものの境界線において発生しながら、小説の概念をゆさぶり、同時に定義づける存在である。佐々木敦『例外小説論 「事件」としての小説(朝日新聞出版)は、そのような例外的小説作品から、この国の小説の現在を俯瞰し、星座のように散開した小説の宇宙を探査する書物である。

例外的な作品は必ずしも、たとえば円城塔や筒井康隆のようないかにも例外的な作家によって書かれているわけではない。その多くは、文壇のメインストリームに属する有名作家によって書かれたものである。作品の個別的な例外性に注目しながらも、著者は個別の作家の作品群全体への目配りは忘れることなく、例外を通じながらレギュラーな作品までも理解させる手助けを惜しまない。実に親切な構成である。

PART1例外SF論では、円城塔、伊藤計劃、北野勇作、北条遥、筒井康隆の諸作を語り、PART2例外エンタメ論では、伊坂幸太郎、阿部和重、桜庭一樹、浦賀和宏、小野不由美、綾辻行人、矢部嵩の諸作を扱う。PART3例外文学論1では、古川日出男、絲川秋子、桐野夏生、多和田葉子、奥泉光、星野智幸、金原ひとみ、戌井 昭人、鹿島田真希、岡崎祥久、PART4例外文学論2では、保坂和志、柴崎友香、磯崎憲一郎、山下澄人、木下古栗、黒田夏子、滝口悠生、福永信、間宮緑、藤野可織の諸作が語られる。与えられた境界もとりあえずのものにすぎず、SF、エンタメ、純文学とほぼボーダーレスなごった煮であり、タフな胃袋を必要とするラインナップである。

本書に収められたすべての作家、すべての作品に通じている読者は、専門の文芸評論家でもない限りほとんどいないことだろう。だが、読者はそんなことは全く気にすることなく、本書を読み進めることができる。ここに描出されたのは、佐々木敦によってのみ可能な作家たちの肖像画なのだ。もちろん、この肖像画は、わずかに面識の事実が語られることがあっても、基本的には作家たちの私生活とは何の関係もない。作家によって生み出された言語の集合、作品より導き出された限りでの、肖像画である。たとえば、柴崎友香の世界を、映画におけるロングショットのようなワンセンテンスで、佐々木は次のように要約する。

 柴崎友香は、本人もしばしば表明しているように、もっぱら作家自身やその周囲の人々の経験=記憶から想を得ており、また多くの作品において、彼女の出身地である大阪という土地=場所を物語の舞台に選んでいながら、しかしそれでいて「他ならぬ私」という凡庸な枠組みには決して回収されない(すなわち通俗的な意味での「私小説」とは基本的に異なった)、まるで座標軸上に置かれたベクトルの交錯のように純粋で原理的な「時空間」の姿を、この喩えから想像させるような堅物さとは無縁の、なんとも心地よいさりげなさで、いたって穏やかに、淡々と、だがきわめて鮮やかに描き出すことのできる、類稀な小説家のひとりである。pp282-283

あるいは桜庭一樹の世界の特質を、『ブルースカイ』を語る中で、驚くべき簡潔さと美しさをもって締めくくっている。

 桜庭一樹は、「少女」に限定されない「小女性」を描く作家である。本作『ブルースカイ』は、そのような「小女性」にかんする、一篇のメモランダムとして読むことも出来るだろう。何が起きようとも、braveとwiseをけっして喪わない、この世界のありとあらゆる人間が、身に心に纏うことが出来るはずの「小女性」の。p151

作家の肖像画を構成する補助線は、読者が、言及される作品が既読であろうと未読であろうと、劣らず魅力的で読者を作品の方へと誘因しないではおかない。未読の作品に関しては、ああ、自分に向いたこんな作品が読まれることなく、本屋の棚や図書館の棚に眠っていたのだと思わせ、既読の作品に関しては、あの部分にはこういう意味があったのかとか、ばらばらになっていたジグソーパズルのピースが急に一致し始めて一つのまとまった絵柄が現れ始めるような快感を覚えずにはいられない。さらにほんの一、二作しか読んでいない作家に関しては、いや、そちらを読んでこちらの作品を読まないなんてことはありえないでしょと、優秀なソムリエのようにしっかりお勧め銘柄をリコメンドしてくれる。

評論の言語と小説の言語は、後者が前者を方法論的に包含するような場合はあっても、基本的に、異なる言語であるが、それを知りつつ批評の言語の限界を見極めようとするかのように、佐々木敦は限界まで言葉を紡ぎ続ける。本書に収められた書評の中でも、一番の力作は保坂和志『未明の闘争』をめぐる論考であろう。

『未明の闘争』の中で、保坂はゴダールの『カルメンという名前の女』の一部を克明に描写し続ける。そして、佐々木はそれを追尾しながら、この再現の意味を分析・抽出しようとするのだが、そこでまずゴダールについて語らずにはいられない。この二重のタスクを並行してこなしてしまうところがゴダール論の著者でもある佐々木の面目躍如たる部分である。

『カルメンという名の女』のあの場面で、ひそかに/あけすけに「累乗」されていた「時間」は、いうなれば「映画」と「世界」の関係性を、その相似と差異を析出していた。そして『未明の闘争』もまた別の仕方で「小説」が「世界」に重ね合わされてゆくさまと、そのぎりぎりの限界を、他でもない「時間」という謎めいた存在を扱うことによって、問うている、問おうとしているのである。p277

佐々木敦は、日本の文芸評論の空白を埋める存在である。多くの文芸評論はあまりに私生活の方に寄りすぎていたり、あまりに学術的研究の色が付きすぎていたり、作品をあまりに個人的な主張の出汁にするものが多かった。全体を俯瞰しながら、それぞれの作家、作品の特異性を鮮やかに描出する論者−そう、『文学空間』のモーリス・ブランショや『文学と悪』のジョルジュ・バタイユのような存在―の不在にこの国は悩んでいたのだ。

ここ一二年一気に著作が出版され、注目されるようになった佐々木敦が、そんな空隙を埋める、私たちが待ち望んでいた存在であることに気づいている人はまだ少ない。作家たちの個人的なドラマ、人生や生活には史料的に参照こそすれ踏み込むことはなく、作品を構成する言語空間ののポテンシャルを語り尽くす佐々木の評論は、何よりも作品への偏愛に基づいており、それ自体が極上のエンターテイメントに属しているのである。

『例外小説論』は、対照的にメインストリーム中心に編集された『ニッポンの文学』と並んで、フィクション界の一人HONZとも言える佐々木の何千、何万時間という読書の時間が凝縮された労作である。読者は、自分の知識や経験の隙間を満たしながら、点を線に、さらには面へと変えてくれる、最新にして最強の文学地図を手に入れることができるだろう。


落合陽一『これからの世界をつくる仲間たちへ』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略           Ver.1.01

 

 

『これからの世界をつくる仲間たちへ』(小学館)は「現代の魔法使い」筑波大助教、メディアアーティスト落合陽一の新刊である。

前著『魔法の世紀』の中で、落合は20世紀が映像により多くの人が同じ情報を共有した映像の世紀であるのに対し、21世紀はそれまで科学によって様々な謎が解き明かされた(脱魔術化)世界が、再びブラックボックス化したコンピュータテクノロジーによって、魔法をかけられたように様々な不思議を実現してしまう(再魔術化)「魔法の世紀」であると総括した。「魔法の世紀」においては、それまで人間が担っていた多くの仕事を、コンピュータが代行するようになる。魔法をかけられる側ではなく、魔法をかける側に回らなければ、人間はコンピュータの奴隷になってしまうかもしれない。このような時代の変化の中で、私たちはどのように生きてゆけばよいのか。

『これからの世界をつくる仲間たちへ』は、『魔法の世紀』の読者が抱くこの問いに正面から答えた著作である。

囲碁や将棋でコンピュータが最高レベルの名人に打ち勝つように、コンピュータの能力が、人間の能力を凌駕するようになる点を、シンギュラリティ(技術的特異点)という。まさに私たちが居合わせているのは、そのような時代の入り口だ。そうした時代、どのように生きればコンピュータの下請けにならずに主体的に生きてゆくことができるのか。

多くの自己啓発書を読み漁り、そのエッセンスを消化することだろうか。

根性やガッツ、気合いで乗り切ることだろうか。

英語や、プログラミングの能力をしっかり身につけることだろうか。

これらすべてに落合陽一はノーと答える。

「魔法の世紀」を主体的に生きるためには、まず自己啓発書的な発想そのものを、脱魔術化しなければならない。なぜならそれらは「映像の世紀」の遺物にすぎないからである。

 たしかに、優秀なビジネスマンになるためには、処理能力の高さと根回し能力が必要でしょう。でも、ホワイトカラーのビジネスマンの社会的寿命が尽きようとしているときに、そのためのスキルを磨いても仕方ありません。銃や大砲の時代が始まっているのに、兵士に剣術の奥義を叩き込み騎馬戦で戦場に出るようなものです。
それなのに、多くの啓発書は相変わらずホワイトカラー教育を志向しています。で、そういう自己啓発書やSNS上のオピニオンリーダーの言うことを真に受けた人たちが、いわゆる「意識(だけ)高い系」の大学生になったりする。これはかなりマズいことで、正直、いまの中学生や高校生には、とりあえず「意識だけ高い系にだけはなるな」と言いたいぐらいです。

pp32-33

「意識だけ高い系」にあるのは広く浅い知識の事例集しかなく、何らの専門性も独自性もない。

根性やガッツ、気合で乗り切ろうとすることも、人間なら何万年もかかる総当たり戦の演算を瞬時にやってしまうコンピュータ相手には勝ち目のない戦いである。ガッツは、レッドオーシャンなのだ。
 
同じことをコツコツ積み重ねることを努力と呼ぶなら、この点でも人間はコンピュータにかないません。どんな悪条件のブラック企業に入っても、そこで課せられるハードワークに耐えられるのがコンピュータです。
pp36-37

では英語力は?Google翻訳が進化し続ける現在では、単なる英語力、語学力よりも大事なものがあると落合は言う。
 
(…)そういう世界で大事なのは英語力ではありません。たとえばコンピュータが翻訳しやすい論理的な言葉遣いが母語でちゃんとできること、つまりそのような母語の論理的言語能力、考えを明確に伝える能力が高いことのほうが、はるかに重要です。
p28

ではプログラミングの能力は?もちろんプログラミングも英語もできないよりはできた方がよいが、切り札にはならない。手段と目的を取り違えてはならないのだ。
 
 はっきり言って、子供のときから単にプログラミングが書けること自体にはあまり価値はありません。IT関係の仕事で価値があるのはシステムを作れることです。プログラミングは、自分が論理的に考えたシステムを表現するための手段にすぎません。p29

それでは、人間にあって、コンピュータにないものは何か?

第一の、そして最も大きな違いはモチベーションの有無である。
 
 コンピュータに負けないために持つべきなのは、根性やガッツではありません。コンピュータになくて人間にあるのは、「モチベーション」です。p38

コンピュータには、これがやりたい、何かを実現したい、人間社会をどうしたいというモチベーションがない。逆に、強いモチベーションのない人間は、コンピュータに「使われる」側に立つしかないということになる。

新たな時代、「魔法の世紀」では、人間とコンピュータの相互補完的な棲み分けが行われる。実質的な仕事はコンピュータが担い、人間がコンピュータのインターフェイスになることだってあるのだ。

この時代においてイニシアティブをとることができるのは従来のホワイトカラーではなく、専門的な技術を持つという点で、ホワイトカラーとは区別され、むしろブルーカラーに近い存在で、独自の暗黙知を持った専門家、スペシャリストである。この階層は「クリエイティブ・クラス」と呼ばれる。
 
 誰にでも作り出せる情報の中には、価値のあるリソースはない。その人にしかわからない「暗黙知」や「専門知識」にこそリソースとしての値打ちがあります。それをどれだけ資本として取り込むことができるか。IT世界では、そこが勝負になるのです。p73

勝利するのは、誰も持っていないリソースを独占できる者である。
 
 誰もが共有できるマニュアルのような「形式知」は、勝つためのリソースにはならない。誰も盗むことができない知識、すなわち「暗黙知」を持つ者が、それを自らの資本として戦うことができるのです。p78

しかし、このようなクリエイティブクラスにはロールモデルが存在しない。たとえばスティーブ・ジョブズなり、佐藤可士和なりのロールモデルを真似たところで、スティーブ・ジョブズ「もどき」、佐藤可士和「もどき」ができるだけである。そこにはオリジナルにある暗黙知も、カリスマもない。

ではオリジナルになるには何が必要か。

オリジナルになるには、まず誰も気づかなかったオリジナルな問題の発見が必要である。

必要なのは誰かの後を追うだけの「勉強」ではなく、自ら論理的思考をはたらかせ暗黙知を蓄積しオンリーワンとなれるだけの専門性へと昇華できるだけの「研究」である。
 
 教科書を読んで勉強するのがホワイトカラーで、自分で教科書を書けるぐらいの専門性を持っているのがクリエイティブ・クラスだと言ってもいいでしょう。pp83-84

このようにして、『これからの世界をつくる仲間たちへ』ではその前半で、「魔法の世紀」である21世紀において、コンピュータの機能のはざまに埋もれないための生き方のエッセンスを見事に要約している。

後半において、「魔法の世紀」における「魔法使い」、21世紀の「超人」とも言える、クリエイティブ・クラスに必要な要件が、より明確にされることになるだろう。

『これからの世界をつくる仲間たちへ』は、中高生やその保護者を主なターゲットにしているが、これまでのやり方が通用しなくなったと感じているすべての世代にとっての必読の一冊である。なぜなら『これからの世界をつくる仲間たちへ』が私たちに与えてくれるのは単なる知識、情報ではなく、思考そのもののアップグレードだからである。

落合陽一『これからの世界をつくる仲間たちへ』PART2 に続く

関連ページ:
落合陽一『魔法の世紀』


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甲斐谷忍『無敵の人 1』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略



勝敗の行方は最初の配碑で半ば決まり、運に左右されることが多いため、およそコンスタントに勝つことが不可能であると考えられているゲーム、麻雀において、常勝の人間がはたして可能か。この問いに正面から答えるのが、『LIAR GAME(ライアーゲーム)』『ウィナーズサークルへようこそ』など熾烈なゲームにおける知能戦で読者の頭脳にハードな負荷をかけ続け熱烈なファンを生み出してきた、甲斐谷忍『無敵の人』だ。

あらすじ
主人公となる無敵の人、Mはまだ十代の少年である。300万ユーザーを誇るオンライン麻雀ゲームの雀仙に現れたMは次々に強敵をなぎ倒し、あっという間にその頂点に君臨してしまう。そこでイカサマではないかと運営元の株式会社ブイラインが、Mをとらえた者に300万円の報奨金を出すと広告するところより物語は始まる。

その話に飛びついたのが、アルバイトとしてブイラインで働いている園川順平だった。家が貧しく生活費と妹の学費のためにアルバイトをかけ持ちしている順平は、仕事の中でMの正体を気づいてしまったのである。何とかMに取り入って友人となろうとする順平。だが、Mの行う麻雀にはどこにもイカサマの痕跡がなかった。本当に、Mは無敵の人だったのだ!だが、ブイラインの社長は順平の言葉に耳を傾けようとしない。それどころか、汚い手を使ってMを潰しにかかる。


順平は、一人、Mを信じる味方となろうとするのだった。

園川順平のキャラクターは普通の善良だが気の弱い少年だが、Mのキャラクターはとても個性的である。ビジュアルは、ハリネズミのようにとがったヘアスタイル、髪にかかるゴーグル、目の下の隈、丸い首のボタンのない服など、『NARUTO』の主人公うずまきナルトを連想させる(ただし、ナルトの場合はゴーグルではなく、バンダナだ)。しかし、感情の起伏が豊かなナルトとは対照的に、Mは感情を失っており、笑顔も全く見せない。まるでコンピューターのように正確な驚異的な記憶に基づき、相手の手を分析してしまうMは、サヴァン症候群のように設定されている。麻雀を続ける中で、失ってしまった感情を取り戻すことができるのかというのが、この物語の大きなテーマであり、めざすべきゴールとなっている。

しかし、毎回の物語の流れ自体は麻雀版タイガーマスクであると思う。虎の穴よろしく、汚い反則を織り交ぜながら邪魔者を消そうとする組織が次々に繰り出すルール無用の相手に、フェアプレイで勝ち抜く。そのためには、相手の悪だくみを上回る超人的な頭脳の回転が必要である。『無敵の人』は、麻雀を知っていると突っ込みながら楽しむことができるが、知らなくてもMの圧倒的な力を、理解者にして解説者の園川順平の視点をそっくり借り信じることで、同じように楽しむことができるスリリングで痛快な知能戦ドラマなのである。

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