JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略 ver.1.03
私たちは数学を、数字を、外なる存在として、認識する。しかし、本来宇宙や自然の中に数というものは存在しない。それが存在するのは、私たちの認識とともになのである。物理空間の中に存在する身体こそが、数によって世界を測り、認識する私たちの原点となるものである。
森田真生の『数学する身体』(新潮社)は、数学する行為を、歴史的思索の中で、身体性の原理のもとに基礎づけようとする試みである。
どのように数を数えるかも、私たちの身体と密接に関わる行為である。両手の指を動員して足りないところから、外部の道具に、そして記号に記憶をゆだねるようになる。しかし計算する行為もまた、筆算のように、身体性に属した行為として発達してきたのである。
しかし、私たちが学校で学ぶ数学は、そうした直感的なイメージとはかけ離れた世界のように思われる。
私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、近代の西欧数学なのである。数学は初めからいまの形であったわけではなく、時代や場所ごとにその姿を変えながら、徐々にいまの形に変容してきたのだ。p49
小学校中学校から高校にかけて私たちはあまりに多くの数学的内容を続けて学びすぎるために、数千年の歴史の中でどのように数学が発達してきたかを想像することが困難である。あたかも古代ギリシア、ピタゴラスの時代に、すでに数式やイコールがあったかのような錯覚を覚えてしまうが、現代のような計算技術の発達は、イスラーム世界におけるアラビア数字の成立とともになのである。
ギリシアで咲いた豊かな数学の種子が、長い眠りの後に西欧世界で再び芽を出したとき、西欧世界の数学の「土壌」には、インドからイスラーム世界を経由して中世ヨーロッパ世界に伝わった「代数的思考」と「計算」の養分がたっぷり蓄えられていたからだ。p62
本来ギリシア時代の数学は、図と自然言語による論証数学であった。これにイスラーム世界で発達した代数的思考と計算が加わり、デカルト以降急速な発展を遂げてゆく。しかし、ライプニツやニュートンとともに解析の世界に入るにいたり、それは、デカルト自身が拒絶した虚数のように、人間の直観の及ばぬ世界へと発展してゆくのである。19世紀になると数式と計算の時代から、概念と論理の時代へと移行してゆく。
どこまでもそれ自体の規則に従って進化してゆく数学からは、こうして人間の身体性に依拠した人間原理が失われるかに見えた。
数学を身体から切り離して徹底的に記号化することで、数学という営みの本性を数学的に研究するという、新たな可能性が開かれたのだ。p111
しかし、森田は二つの試みに着目する。一つは、「計算する機械」を考え出し、その実用化に至る道を切り拓いたアラン・チューリングの試みである。彼はやがて生まれる「計算する機械」の行う数学的演算によって、人間の脳へと近づこうとしたのである。
チューリングは実際、自らの選択した進路の正しさを、生涯を通して実証していく。計算や論理についての原理的な考察によって、「機械」の方から「心」の方へと迫る道筋が、少しずつ開けていくことになる。p88
もう一つは、日本の数学者岡潔の試みである。岡は、直感的な俳句や仏教の世界と数学の世界を対比しながら、数学が生まれる前の世界、「情緒」の世界に注目したのであった。親友中谷治宇二郎の死を機に、一切の職を捨て、故郷の紀見村に引きこもりながら、数学的な探求を続けた鮮烈な生き方から生まれた数学とはどのようなものだったのだろうか?
二〇世紀の数学は、数学を救おう、よりよくしようという思いの帰結とはいえ、行きすぎた形式化と抽象化のために、実感と直観の世界から乖離していく傾向があった。そうしたなかで岡は、「情緒」を中心とする数学を、心の中で理想として描いた。数学を身体から切り離し、客観化された対象を分析的に「理解」しようとするのではなく、数学と心通わせて合って、それと一つになって「わかろう」とした。p161
『数学する身体』を通じて、いかにして歴史の中で数学が人間の身体に依拠しながら、そこから離れてはまた回帰する様を、著者は難しい数式を一切交えることなしに、説明してのける。とりわけ第二章における数学の発展過程の歴史的記述は、これから高等数学を学ぼうとする中高生すべてに、数式の世界に迷子になる前に、通読させたい内容である。題目だけのどんな教育改革よりも、はるかに優れた実りをこの国の青少年の心にもたらすにちがいない。さらに、一見数学とは無関係のような荒川修作の三鷹天命反転住宅や、ユクスキュルの環世界の理論が、数学的風景として統合されるさまには、スリリングな知的快感をおぼえずにはいられない。
荒川建築のでこぼこの床を不器用に歩き回るうちに、日常の行為のパターンが解体されていくのと同じように、数学する者もまた、日常の行為の習慣を手放すことを余儀なくされる。数学は、単に身体的な行為であるだけでなく、日々の習慣から懸け離れた行為なのだ。p46
数学もまた、数学に固有の風景を編む。歴史的に構築された数学的思考を取り巻く環境世界の中を、数学者は様々な道具を駆使しながら行為(=思考)する。その行為が、新たな「数学的風景」を生み出していく。p126
『数学する身体』を読む人は誰もが、自分が中学高校のころにこんな本が存在していればどんなにかよかっただろうと考える。しかし、独立研究者森田真生はまだ三十歳。彼の探究の道のりは始まったばかりである。文系理系といった形式的な壁を取り払い、私たちの身体そのものに働きかけてくる数学的思考の冒険が、次にどんな風景を見せてくれるか今から楽しみでならない。
PS『数学する身体』と併せて読みたいのが、岡潔の名著『春宵十話(しゅんしょうじゅうわ)』である。
特に、一九六二年の毎日新聞紙面上で行われた連載『春宵十話』は単行本化されるとたちまちベストセラーとなり、彼が発する指摘で深淵な言葉の数々に、多くの人が心奪われた。(『数学する身体』p121)
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334741464