つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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石川美子『ロラン・バルト』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

フランス構造主義を代表する批評家ロラン・バルト、作家の伝記的要素とその作品を可能な限り切り離そうとした立場であったがゆえに、その知名度に比べて、私生活は驚くほどわずかのことしか知られていない。

石川美子『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家(中公新書)は、死後35年を経て、ようやくその輪郭が見えてきたロラン・バルトの人生と作品双方に焦点をあてたオーソドックスな評伝である。

1915年に生まれたロラン・バルトは一歳のころ、父親が戦死する。母子家庭で育ち貧しく、幼い頃から肺の病を抱えていたがゆえに、ロラン・バルトの生涯は、エリートコースとはほど遠いところにあった。何とか人並のスタート地点にたどりついたかと思うと入院や転居を強いられ、経歴は中断する。成人するまでも、成人してからもロラン・バルトは人生の尾根ではなく、谷づたいに歩くことの連続であったのだ。
 
 一九四六年九月に、ロランはついにパリにもどってきた。肺結核を発病してから、一二年以上の年月が流れていた。あまりに長い回り道であった。ロランは、もうすぐ三一歳になろうとしていた。p25

やがて『零度のエクリチュール』を皮切りに、『ミシュレ』、『現代社会の神話』と一作ごとに知名度を上げ、新旧批評論争や、のちに『記号の国』として結実する日本での滞在を経て、1977年にはコレージュ・ド・フランスという知の頂点にまで達するバルトだが、同じ年最愛の母の死という悲劇が彼を見舞う。

深い絶望が彼を見舞う。そうしてたどりついた希望は、愛する人々を記憶に残すために、プルーストのような小説を書くことであった。

だが「小説の準備」というコレージュ・ド・フランスの講義を準備しているまさにそのさなかに、彼は交通事故に遭遇する。事故自体はそれほど深刻ではなかったらしい。しかし、幼い頃からの持病との併発症ゆえに、それが致命傷となってしまう。

晩年までバルトと友情を深めたフィリップ・ソラリスやジュリア・クリステヴァは悲痛な記録をその作品『女たち』や『サムライたち』の中に残している。
 
交通事故の直前に彼が内面から蝕まれたようになっていたようすや、病院の集中治療室での彼の絶望的なすがたなどを、ソレルスは愛情をこめて一〇ページにわたって描きだしている。
 
  彼の母が二年前に亡くなっていた。彼の大いなる愛……唯一の愛……彼はだんだんと青年たちとの複雑な関係に滑り落ちていった。それは彼の性癖だったが、急に速度を増したのだ……彼はもうそのことしか考えなかった。それと同時に、断絶や、禁欲や、新たな生や、書くべき本や、再出発のことも夢見ていた……、p186
最後にアルマン(バルト)の病室をたずねたオルガ(クリステヴァ)とエルヴェ(ソレルス)は、気管切開で話すことのできないアルマンにむかって、生きてください、書いてください、と必死で語りかける。そして、病院からの帰り道にエルヴェは言ういつの日か、アルマンの文学的価値が再発見されるようになるだろう、と。p187

バルトの死の二十日後に死んだ実存主義の代表的思想家・作家であるJ・P・サルトルの葬儀に比べ、バルトの葬儀は参列者も100人ほどのひっそりしたものだった。

ロラン・バルトの生涯は、その充実した著作活動に反して、つねに悲しみの音を、短調の響きをたたえている。同時に、郷里のバイヨンヌの風景や彼が愛したシューマンの音楽のような美しいきらめきを、彼自らが残した断章とともに、垣間見せてくれる。死後35年を経て、その生涯をたどり直すとき、エクリチュールという言葉の存在感といい、言葉そのものへの愛といい、いかに私たちの中においてロラン・バルトのの存在が大きかったかを知るのである。

先行する実存主義との軋轢や、五月革命の喧騒からも遠く離れた今、ロラン・バルトはその多様な著作の歩みとともに、再び発見されるべき批評家、最も魅力的な作家として、私たちの前にある。

関連ページ:
フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者 サルトル・ニーチェ・バルト』
 
書評 | 15:36 | comments(0) | - | - |
羽海野チカ『3月のライオン 11』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略



羽海野チカ『3月のライオン 11』では、19歳の棋士桐山零の二つの戦いを中心に描かれる。

一つの戦いは、川本姉妹の別居していた父親誠二郎とのたたかいである。10巻では、彼女たちを守るために、零は、次女のひなにプロポーズするという奇手に出たのだった。真面目も真面目、大真面目の零だが、周囲はまだ早すぎると諫めようとする。それでも、他の女性との間にできた「妹」をだしにしながら、何とか川本家にもたれかかろうと考える誠二郎に対し、敢然と立ち向かう零であった。相手の手の内を、先の先まで読み、叩き潰そうとする零の棋士としての才能が今初めて実生活でも発揮される…

もう一つの戦いは、将棋盤上の戦いである。大阪での玉将戦の対戦相手雷道は、気に入った若い対戦相手をいびりながら将棋をさす悪い癖があった。それを大人の態度でやり過ごそうとする零だが、終電を気にする仕草から、女性の存在をかぎつけ、妄想を膨らませネチネチとからみ続ける雷道。結果、対局も長引いてしまう。川本姉妹が待つ東京へ、彼は帰ることができるだろうか?

そのまま倒れ込むような熾烈な二つの戦いの後で、桐山零が見た光景は一体何だろうか?

何とか「婚約者」であるひなを守ろうとする零であったが、川本姉妹の祖父相米二(そめじ)の言葉にその道をまっすぐに進むと、三女のモモともども後に取り残される長女のあかりのことに気づかされるのだった。

どうやら、またしても零の取り越し苦労から一途な青春の暴走が始まりそうな予感が…

巻末のBUMP OF CHICKENとのコラボ企画「ファイター」では、いかにして隣がいつも空席だった桐山零が、将棋の対局に自分の居場所を見つけたかを幼少期からの回想記風に描く。

家族への喪失感から、過剰なまでに他の家族に思い入れをしてしまい、ぼろぼろに傷つくまで戦わないではいられない桐山零の成長と川本家との絆をかつてなく熱いタッチで描くのが『3月のライオン 11』なのである。

PS 『3月のライオン』を読んでいると、舞台となる佃島周辺を原風景とした吉本隆明のことを、そしてその関係性の概念を思い出してしまう。『3月のライオン』の世界を特徴づけるのは、それぞれの登場人物が張り切れそうなまでに膨らませた自己幻想の世界であり、それが他人を巻き込んでゆこうとする姿である。コマいっぱいに書き込まれた洪水のような台詞や独白によって、さらには背景に描かれた象徴的イメージによってそれは表現される。多くの場合、その幻想の世界は、相手の運命をのみこみ翻弄する暴力として現れる。将棋とはまさにそのような幻想のセルフイメージのぶつかり合いだが、同時に他者との関係性の習得の場でもある。自分同様に、相手もそれぞれの自己幻想を抱いてみな生きている。そのバランス、調和をはかること。自己幻想から対幻想への正常な通路を見出すことこそが、桐山零がたどるべき成熟ということなのだろう。



関連ページ:
羽海野チカ『3月のライオン 9』
村上春樹『職業としての小説家』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略 Ver.1.21

 

『職業としての小説家』目次 
第一回 小説家は寛容な人種なのか
第二回 小説家になった頃
第三回 文学賞について
第四回 オリジナリティーについて
第五回 さて、何を書けばいいのか?
第六回 時間を味方につける―長編小説を書くこと
第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み
第八回 学校について
第九回 どんな人物を登場させようか?
第十回 誰のために書くのか?
第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア
第十二回 物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出
あとがき

あらゆる文学論の中で、村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング)ほど私たちに身近な本も存在しないだろう。

というのも、村上春樹ほど読者の数が多い作家も日本には存在しないし、多くの世代の人々にとって数十年前の作品が今なお記憶に残り、最新作と並べて語られる作家も少ないからである。

デビュー作『風の歌を聴け』から『羊をめぐる冒険』、空前のベストセラー『ノルウェイの森』、オウム真理教事件を扱ったノンフィクション『アンダーグラウンド』を経て、『1Q84』最近作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』や『女のいない男たち』に至るまで、作品が成立する経緯や創作のスタイルといった数々の秘密が明かされているからである。

小説家は寛大な人物であり、他の業種の人間が参入したからと言って、排他的になることはめったにない。それは一つの小説を書き上げることは誰にでも可能なことであるが、小説を何十年も書き続け、小説家であり続けることはめったに可能でないということを知っているからである。

本書を通じて、村上春樹が明らかにしようとするのも、小説家であり続けるための資質、条件とは何かということである。
 
 小説をひとつ書くのはそれほどむずかしくはない。優れた小説をひとつ書くのも、人によってはそれほどむずかしくない。簡単だとまでは言いませんが、できないことではありません。しかし小説をずっと書き続けるというのはずいぶんむずかしい。誰にもできることではない。そうするには、さっきも申し上げましたように、特別な資格のようなものが必要となってくるからです。それはおそらく「才能」とはちょっと別のところにあるものでしょう。
じゃあ、その資格があるかどうか、それを見分けるにはどうすればいいか?答えはただひとつ、実際に水に放り込んでみて、浮かぶか沈むかで見定めるしかありません。
p27

村上春樹は、どのようにして小説家として浮かび、そして沈まずに済んだのかに、冒頭の数章は充てられる。

とりわけ興味深いのは、デビュー作『風の歌を聴け』ができあがる前後の話である。夫婦で貯金を貯め、借金をかき集めて国分寺にジャズ喫茶を開いたのは1974年のことであった。
 
 家にはテレビもラジオもなく、目覚まし時計すらなかった。暖房器具もほとんどなく、寒い夜には飼っていた何匹かの猫をしっかり抱いて寝るしかありませんでした。猫の方も結構必死にしがみついていました。
銀行に月々返済するお金がどうしても工面できなくて、夫婦でうつむきながら深夜の道を歩いていて、くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。シンクロニシティーと言えばいいのか、何かの導きと言えばいいのか、不思議なことにきっちり必要としている額のお金でした。
pp33-34

国分寺では3年間店をやり、千駄ヶ谷へ店を移すことになる。ライブ用のグランドピアノまでそろえたものの、一層借金まみれになる。小説を書くというアイディアが下りて来たのは1978年の4月、自宅に近い神宮球場でのヤクルトー広島戦のさなかのことであった。
 
一回の裏、高橋(里)が第一級を投げると、ヒルトンはそれをレフトにきれいにはじき返し、二塁打にしました。バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。ばらばらというまばらな拍手がまわりから起こりました。僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。
そのときの感覚を、僕はまだはっきり覚えています。それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした。どうしてそれがたまたま僕の手のひらに落ちてきたのか、そのわけはよくわかりません。そのときもわからなかったし、今でもわかりません。しかし理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。
p42

だが実際に書いてみると何だかしっくりこなくて原稿用紙と万年筆の執筆はあきらめ、最初の部分を英文でタイピングし、それを日本語に移植するかたちで作品を書き直した。このときこそ、村上文学の原点となったスタイルの誕生につながったのである。
 
 僕は英文タイプライターをまた押し入れに戻し、もう一度原稿用紙と万年筆を引っ張り出しました。そして机に向かって、英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に「翻訳」していきました。翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な「移植」に近いものです。するとそこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきます。それは僕自身の独自の文体であります。僕が自分の手で見つけた文体です。そのときに「なるほどね、こういう風に日本語を書けばいいんだ」と思いました。まさに目から鱗が落ちる、というところです。p47

『羊をめぐる冒険』の執筆を機に、専業作家になると決めると、あっさり店は売り払い、シンプルなライフスタイルへと切り替える。
 
そして物語を中心に据えれば、どうしても長丁場の仕事になってきます。今までのように「本職」の余暇に片手間にできることではありません。ですからこの『羊をめぐる冒険』を書きは始める前に、僕はそれまで経営していた店を売却し、いわゆる専業作家になりました。当時はまだ文筆活動よりは、店からの収入の方が大きかったんですが、それを思いきって捨てることにしました。生活そのものを、小説を書くことに集中させたかったからです。いくぶん大げさに言えば、後戻りできないように「橋を焼いた」わけです。p248

さらに、『ノルウェイの森』では、ほとんど何も、原稿用紙さえも持たずに世界を放浪しながら書き上げる。

そして、そんな生活が35年後の今に至るまで続いている。

村上春樹の執筆スタイルを特徴づけるのは、書き直しの多さである。

第一回目の書き直しでは、初めから最後まで全部首尾一貫整え、一週間ほどおいて二度目の書き直しではより細かく、三度目の書き直しは修正という感じ、ねじを締めたり、ゆるめたりする。ひと月ほど寝かせた後で、奥さんに原稿を見せる。担当編集者は移動で変わることがあるが、奥さんなら定点観測が可能という理由である。指摘されたら納得いかなくてもとりあえず直し、批判を受けては直し、また直ししてから初めて編集者に見せるというのである。

そしてこの書き直しの作業に、村上春樹は最大の情熱を注ぎこんでいる。
 
 とにかく書き直しにはできるだけ時間をかけます。まわりの人々のアドバイスに耳を傾け(腹が立っても立たなくても)、それを念頭に置いて、参考にして書き直していきます。助言は大事です。長編小説を書き終えた作家はほとんどの場合、頭に血が上り、脳味噌が過熱して正気を失っています。なぜかといえば、正気の人間には長編小説なんてものは、まず書けっこないからです。ですから正気を失うこと自体にはとくに問題はありませんが、それでも「自分がある程度正気を失っている」ということだけは自覚しておかなくてはなりません。そして正気を失っている人間にとって、正気の人間の意見はおおむね大事なものです。p152

それで作業が終わることはない。ゲラの段階になっても、真っ黒にすることの繰り返しが続くのである。

作家であるために必要なのはまず読書量、そして人や出来事をしっかりと自分の目で見る観察眼である。

さらに作家であり続けるために必須なのは、もちろん毎日書き続けることのできる持続力であり、体力である。
 
 三日あれば短編小説一本くらいは書けちゃうかもしれません。でも三日かけて短編小説をひとつ書きあげて、それで意識をいったんちゃらにして、新たに体勢を整えて、また三日かけて次の短編小説をひとつ書く、というサイクルは、いつまでも延々と繰り返せるものではありません。そんなぶつぶつに分断された作業を続けていたら、たぶん書く方の身が持たないでしょう。短編小説を専門とする人だって、職業作家として生活していくからには、流れの繋がりがある程度なくてはなりません。長い歳月にわたって創作活動を続けるには、長編小説作家にせよ、短編小説作家にせよ、継続的な作業を可能にするだけの持続力がどうしても必要になってきます。
それでは持続力を身につけるためにはどうすればいいのか?

それに対する僕の答えはただひとつ、とてもシンプルなものです。―――基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の身体を味方につけること。
p168

だから、長編小説を書き続ける作家には、マラソンを走りきる体力も必要なのだと考え、毎日1時間は走ることを欠かさない。
 
  僕は専業作家になってからランニングを始め(走り始めたのは『羊をめぐる冒険』を書いていたときからです)、それから三十年以上にわたって、ほぼ毎日一時間程度ランニングをすることを、あるいは泳ぐことを生活習慣としてきました。p171

ストイックなミニマリストの生活スタイルと、プロフェショナルなクラフトマンシップ(職人気質)こそが村上文学を支えていることがわかる。

興味深いのは、自ら小説の中の人称の変化、名前らしい名前の変化を分析している点である。

1994年の『ねじまき鳥クロニクル』までずっと一人称の小説を書き続けた後、『海辺のカフカ』で半分だけ三人称に、ようやく『東京奇譚集』『アフターダーク』になって三人称で通すことが可能になった。

人に名前をつけるのも苦手だった。「鼠」や「ジェイ」という呼び名までは何とか許せても人に名前をつける「嘘っぽさ」に耐えられず、ようやく『ノルウェイの森』に至り、人物にも具体的な名前をつけることができたというのである。

さらに、外国での自作の翻訳・出版に関しても、自ら積極的に関わり、あらかじめ翻訳まで用意して売り込んだ経緯など、日本にいる人たちが想像しているよりも、ずっと陰で村上春樹は自作のプロモーションのために苦労してきた。
 
僕は自分で翻訳者を見つけて個人的に翻訳してもらい、その翻訳を自分でチェックし、その英訳された原稿をエージェントに持ち込み、出版社に売ってもらうという方法をとりました。そうすれば、エージェントも出版社も、僕をアメリカ人の作家と同じスタンスで扱うことができます。pp275-276

『職業としての小説家』は、決して出版社サイドの要請で生まれたものでなく、村上春樹自らが発案し、書きためてきた原稿を柴田元幸の雑誌「Monkey」で発表したものにさらに加筆してできた本である。通常の文章体ではペースがつかめず、数十人規模のホールで人前で話す感じの文体にするとスムーズに進んだと言う。自作のスタイル、芥川賞のこと、『ノルウェイの森』以降のバッシング、海外で評価されることへのやっかみ、今までに言われるままに任せていたエネルギーが一気に噴き出した感もある究極のリベンジなのかもしれない。

本書を読むことは、もちろん小説家志望の人に役立つことだろう、これだけ同時代の作家が秘伝のタレやレシピを一気に公開することは極めてまれなことである。自作の謎解きや製造方法を語っているのだから、村上春樹のファンにとっても多くの楽しみを与えてくれるだろう。

さらに村上春樹の本が売れるのを傍目で見ながら話題にしてきた多くの人にも、とても役に立つ教訓を与えてくれるはずだ。売れるためには、普通の人が妥協するよりもずっとずっと先まで、地道な作業の繰り返しを続けなければいけないのだという当たり前の教訓を。

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