石川美子『ロラン・バルト』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
フランス構造主義を代表する批評家ロラン・バルト、作家の伝記的要素とその作品を可能な限り切り離そうとした立場であったがゆえに、その知名度に比べて、私生活は驚くほどわずかのことしか知られていない。
石川美子の『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書)は、死後35年を経て、ようやくその輪郭が見えてきたロラン・バルトの人生と作品双方に焦点をあてたオーソドックスな評伝である。
1915年に生まれたロラン・バルトは一歳のころ、父親が戦死する。母子家庭で育ち貧しく、幼い頃から肺の病を抱えていたがゆえに、ロラン・バルトの生涯は、エリートコースとはほど遠いところにあった。何とか人並のスタート地点にたどりついたかと思うと入院や転居を強いられ、経歴は中断する。成人するまでも、成人してからもロラン・バルトは人生の尾根ではなく、谷づたいに歩くことの連続であったのだ。
やがて『零度のエクリチュール』を皮切りに、『ミシュレ』、『現代社会の神話』と一作ごとに知名度を上げ、新旧批評論争や、のちに『記号の国』として結実する日本での滞在を経て、1977年にはコレージュ・ド・フランスという知の頂点にまで達するバルトだが、同じ年最愛の母の死という悲劇が彼を見舞う。
深い絶望が彼を見舞う。そうしてたどりついた希望は、愛する人々を記憶に残すために、プルーストのような小説を書くことであった。
だが「小説の準備」というコレージュ・ド・フランスの講義を準備しているまさにそのさなかに、彼は交通事故に遭遇する。事故自体はそれほど深刻ではなかったらしい。しかし、幼い頃からの持病との併発症ゆえに、それが致命傷となってしまう。
晩年までバルトと友情を深めたフィリップ・ソラリスやジュリア・クリステヴァは悲痛な記録をその作品『女たち』や『サムライたち』の中に残している。
バルトの死の二十日後に死んだ実存主義の代表的思想家・作家であるJ・P・サルトルの葬儀に比べ、バルトの葬儀は参列者も100人ほどのひっそりしたものだった。
ロラン・バルトの生涯は、その充実した著作活動に反して、つねに悲しみの音を、短調の響きをたたえている。同時に、郷里のバイヨンヌの風景や彼が愛したシューマンの音楽のような美しいきらめきを、彼自らが残した断章とともに、垣間見せてくれる。死後35年を経て、その生涯をたどり直すとき、エクリチュールという言葉の存在感といい、言葉そのものへの愛といい、いかに私たちの中においてロラン・バルトのの存在が大きかったかを知るのである。
先行する実存主義との軋轢や、五月革命の喧騒からも遠く離れた今、ロラン・バルトはその多様な著作の歩みとともに、再び発見されるべき批評家、最も魅力的な作家として、私たちの前にある。
関連ページ:
フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者 サルトル・ニーチェ・バルト』
石川美子の『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書)は、死後35年を経て、ようやくその輪郭が見えてきたロラン・バルトの人生と作品双方に焦点をあてたオーソドックスな評伝である。
1915年に生まれたロラン・バルトは一歳のころ、父親が戦死する。母子家庭で育ち貧しく、幼い頃から肺の病を抱えていたがゆえに、ロラン・バルトの生涯は、エリートコースとはほど遠いところにあった。何とか人並のスタート地点にたどりついたかと思うと入院や転居を強いられ、経歴は中断する。成人するまでも、成人してからもロラン・バルトは人生の尾根ではなく、谷づたいに歩くことの連続であったのだ。
一九四六年九月に、ロランはついにパリにもどってきた。肺結核を発病してから、一二年以上の年月が流れていた。あまりに長い回り道であった。ロランは、もうすぐ三一歳になろうとしていた。p25
やがて『零度のエクリチュール』を皮切りに、『ミシュレ』、『現代社会の神話』と一作ごとに知名度を上げ、新旧批評論争や、のちに『記号の国』として結実する日本での滞在を経て、1977年にはコレージュ・ド・フランスという知の頂点にまで達するバルトだが、同じ年最愛の母の死という悲劇が彼を見舞う。
深い絶望が彼を見舞う。そうしてたどりついた希望は、愛する人々を記憶に残すために、プルーストのような小説を書くことであった。
だが「小説の準備」というコレージュ・ド・フランスの講義を準備しているまさにそのさなかに、彼は交通事故に遭遇する。事故自体はそれほど深刻ではなかったらしい。しかし、幼い頃からの持病との併発症ゆえに、それが致命傷となってしまう。
晩年までバルトと友情を深めたフィリップ・ソラリスやジュリア・クリステヴァは悲痛な記録をその作品『女たち』や『サムライたち』の中に残している。
交通事故の直前に彼が内面から蝕まれたようになっていたようすや、病院の集中治療室での彼の絶望的なすがたなどを、ソレルスは愛情をこめて一〇ページにわたって描きだしている。
彼の母が二年前に亡くなっていた。彼の大いなる愛……唯一の愛……彼はだんだんと青年たちとの複雑な関係に滑り落ちていった。それは彼の性癖だったが、急に速度を増したのだ……彼はもうそのことしか考えなかった。それと同時に、断絶や、禁欲や、新たな生や、書くべき本や、再出発のことも夢見ていた……、p186
最後にアルマン(バルト)の病室をたずねたオルガ(クリステヴァ)とエルヴェ(ソレルス)は、気管切開で話すことのできないアルマンにむかって、生きてください、書いてください、と必死で語りかける。そして、病院からの帰り道にエルヴェは言う。いつの日か、アルマンの文学的価値が再発見されるようになるだろう、と。p187
バルトの死の二十日後に死んだ実存主義の代表的思想家・作家であるJ・P・サルトルの葬儀に比べ、バルトの葬儀は参列者も100人ほどのひっそりしたものだった。
ロラン・バルトの生涯は、その充実した著作活動に反して、つねに悲しみの音を、短調の響きをたたえている。同時に、郷里のバイヨンヌの風景や彼が愛したシューマンの音楽のような美しいきらめきを、彼自らが残した断章とともに、垣間見せてくれる。死後35年を経て、その生涯をたどり直すとき、エクリチュールという言葉の存在感といい、言葉そのものへの愛といい、いかに私たちの中においてロラン・バルトのの存在が大きかったかを知るのである。
先行する実存主義との軋轢や、五月革命の喧騒からも遠く離れた今、ロラン・バルトはその多様な著作の歩みとともに、再び発見されるべき批評家、最も魅力的な作家として、私たちの前にある。
関連ページ:
フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者 サルトル・ニーチェ・バルト』