つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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畑中章浩『『日本残酷物語』を読む』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 ver.1.1



畑中章浩『『日本残酷物語』を読む』(平凡社新書)は、平凡社ライブラリーに7巻中5巻が収められている『日本残酷物語』のキュレーションブック、いわば紹介本である。

先行する『風土記 日本』同様、発売当時の昭和34年から36年にかけて飛ぶように売れた『日本残酷物語』も、今日ではごく少数の人しか知らない存在になりつつあるが、「『日本残酷物語』を超える民衆史、生活史は、半世紀後の今日までまだ現れていない」(p219)と著者は語っている。

本書では『日本残酷物語』の内容の紹介にとどまらず、編集の中心となった宮本常一谷川健一らの活動から成立事情、さらには横山源之助の『日本の下層社会』、細井和喜蔵の『女工哀史』から今和次郎の『大東京案内』を経てプロレタリア文学にいたる、日本の民衆生活を描いたノンフィクションや文学の中の歴史をたどる中で、その位置づけを考えようとする。

『日本残酷物語』のタイトルの起源となったのは、ヴィリエ・ド・リラダンの小説『残酷物語』(1883)であるが、『日本残酷物語』の発売と前後して、大島渚監督の『青春残酷物語』(1960)など、多くの映画や書物が「残酷物語」の入ったタイトルを有することになった。直後に日本公開されたヤコペッティの『世界残酷物語』(1962)も本来のタイトルは「犬の世界(Mondo Cane)」でどこにも残酷物語の文字はない。それほど一世を風靡し、世間に対して影響力を持ったタイトルであったのである。同時に、その言葉が持つあざとさは、『日本残酷物語』に影響を与えた『遠野物語』の柳田国男を忌避させたものでもあっただろう。

物語というタイトルが示すように、『日本残酷物語』は語りの文章が特徴的であり、そのためにこだわったのが、無署名の記事ということであった。そこに収められているのは、日本の津々浦々に伝わる伝承や物語、事実を集めたものである。

 無署名に拘ったことにより全体の統一感を出すという谷川の意図は、じゅうぶんに達成されている。つまり第一部『貧しき人々のむれ』から現代編2『不幸な若者たち』にいたるまで、時代を超えたリアリティをもって読むものに迫る、文体の工夫がなされている。近世に起こった民衆の叛乱暴動と、昭和三十年代に発生した水俣病の被害者の決起までが、いま目の前で起きたことのように描写的に表される。それはつまり『日本残酷物語』の叙述が「文学的」だということである。p190

「残酷」とされるのは、この国の中に根付く社会の仕組みや習慣であり、この国の気候・風土や、極限状態での生活であって、人々の性質や人の人に対する残酷さその ものではない。この国の辺境や下層に生きる人々の生活そのものの理不尽さ、不条理さ、その多様なバリエーションこそがここで「残酷」と呼ばれているものの正体なのである。

第一部『貧しき人々の群れ』では難破船の恩恵で生活するしかない南の離島の生活や度々飢饉に見舞われ人肉食に至った東北地方の集落、虫害がもたらす「風土病」の猛威とそれが生み出す差別や下層民の生活、貧困ゆえの堕胎や間引き、海辺に分布し海外まで渡ることとなった遊女の生活などを取り上げる。

それから女は人肉を食うことをおぼえて、自分の夫をだまし殺し、子も鎌で一打ちに殺し、食べられるところは全部食べた。また倒死人の肉を食い、新しい墓を掘りおこし、生きている子どもまで追いもとめるようになった。p105

第二部『忘れられた人々』では、対馬や薩南十島、東北の山岳地帯、海辺の砂丘地帯、ヒグマの猛威に怯える蝦夷地の開拓など、日本の近代化の過程で強引に開拓しようとした地域における悲惨な生活が描かれる。

 松浦静山によると琉球使節の一行は、薩摩藩による強制で、中国風の服装をさせられていた。役名も中国音で儀仗や路次の楽曲もすべて唐風めいたものを選ばされた。沖縄人は唐、大和の御取合(中国、日本との交際)のため、中国人でも日本人でもない、宙ぶらりんな「琉球人」として行動することを強いられた。p123

第三部『鎖国の悲劇』では封建社会のもとで、抑圧されてきた「かくれキリシタン」や被差別部落民の世界、異端とされた仏教の宗派などが描かれる。

また生月島ではいまなお、住民の多くが「かくれキリシタン」の信仰を持ちつづけていると言う。この島では家の中の薄暗い屋内のさらに奥まったところに、板戸で仕切られた一坪か双坪の物置があり、そこにはかくれキリシタンの「納戸神」が祀られている。p134

第四部『保障なき社会』では、三陸の津波や水害のもたらす悲惨、栃木における水運、アイヌに対する搾取など幕末から維新にかけての転換期に失われた産業や共同体の絆などが描かれる。

 昭和八年の津波被害を明治二十九年と比較すると、家屋の流失倒壊には大差がないのに、死者は十分の一近くに減った。その原因の一つには、三陸海岸の人々が明治二十九年の津波に訓練されていたからだと考えられる。しかし逆に、このときの災害で壊滅し、津波の経験をもたない人々が再興した村などでは、津波の実態がよくわからないため、災害を大きくしているようにみられる。p139

第五部『近代の暗黒』では農村の不作や争議、女工、坑夫、東京の貧民窟の生活だけでなく、朝鮮人労働者や廃兵の問題などが取り上げられる。

 女工たちは工場に入って初めて、募集人にだまされたことを知るものの、契約期間中は耐えるほかなかった。脱走を試みたものは捕えられ、殴打されたり、裸で工場内を引きまわされたりした。p153

現代編1『引き裂かれた時代』ではオートメーション化による大量生産の弊害、水俣病などの公害、伊勢湾台風の猛威、ダム工事によって失われる集落などの疎外の問題が取り上げられる。石牟礼道子の『苦杯浄土』の原稿が日の目を見るようになったのも、本書を通じてである。

追いつめられた漁民たちは、新しい患者の発生が半年ばかりなく、工場に浄化装置ができたこともあって、汚染されたままの水俣湾内で、密漁を復活させた。漁師たちは水俣病の恐ろしさに怯えながら、死の海に船を乗りだしてゆく。「生きるために毒魚を食う。それは生きのびるかも知れない可能性を求めて生きることなのだ」。p168

現代編2 『不幸な若者たち』とどまるも地獄、出るも地獄の農村の若者が直面する悲惨な問題、沖縄の戦中戦後の問題などを取り上げる。その末尾には、宮本常一自身の幼少期から青年期にかけての自画像が秘められている。

 和泉の国の「若い先生」、逓信講習所の「島の少年」「島の男」は、とりもなおさずこの文章を書いた宮本常一自身である。宮本は自分の少年時代から青年時代を顧みて、小さな「残酷物語」を綴ったのであった。p186

読者は、本書を開くことで、忘れかけられた名著『日本残酷物語』の 全体を概観して、その大まかな見取り図を描き出すことができる。そこから立ち現われるのは、かつてこの国の隅々に存在したにちがいない、そしてその記憶が 失われつつある極限の生活である。しかし、同時に今日も解決していない数々の問題のルーツの記録でもあるだろう。さらに、高度成長期が終わりバブル崩壊後、この国が少子高齢化社会へと移行する中で、再び立ち現われるかもしれない社会問題の予言でもあるだろう。いったん情報通信と交通のネットワークに組み込まれ、平準化された日本社会も、富と人が一部の地域に集中し、共同体の過疎化や高齢化が進む中で再び同じような辺境の問題が生じるかもしれない。日本という国の特異性、歴史、その現在と未来を透視する上で『日本残酷物語』は最良の資料となるだろう。本書は、その読者との距離を極限まで縮めてくれる格好の入門書である。


 

村上春樹『村上さんのところ』
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『村上さんのところ』(新潮社)は、作家村上春樹が読者メールの質問に対して、答えたQ&A集である。

日本全国どころか世界各地から、日本語のみならず英語・中国語など様々な言語で寄せられたメールの数は3万7485通、それに対する村上春樹の答えが3716と約1割の質問に答えているので、こんなに確率が高く、しかも無料なら宝くじよりも全然お得、自分も質問しておけばよかったと思った人も多いにちがいない。紙バージョンの村上さんのところ』ではその中から、473のQ&Aを厳選している。

三万以上のメールに目を通し、三千以上に答えるなんて、ほとんど人間業ではない。極真空手の百人組手か、24時間100キロマラソンを超えるハードなタスクである。それでも、やりだしたら行きがかり上最後までやり遂げてしまうのは、半世紀にわたって書くことを正業にしているプロとしての意地であり、さらには村上春樹がニューヨークシティマラソンを3時間台で完走しているアスリート作家であるからにちがいない。適当に手を抜いてやっているのではないことは本書の中で、村上春樹自身が言明でしている。

 

 僕はすべてのメールに目を通しています。最初に決めたことですから、もちろんその約束は果たしています。この仕事をしているあいだは、他の仕事はほとんどできません。p211


大体の質問については、「猫を飼ったらどうですか?」のような個人の感覚に沿った答え方をしている。読者の読み方に関して百人いれば百通りの読み方が可能でそれのどれかを正しいとする考えを提示しないように慎重に言葉を選んでいる。こだわっているのは、一つには
道徳的判断を作品評価に交える見方を斥けることと「ハルキスト」と言う言い方が嫌いで、村上主義者という言い方を推奨していることくらいである。

 

 

 

 でもハルキストじゃなくて、できたら「村上主義者」と呼んでください。よりハードコアな感じがします。いったい誰がいつから、そんな「ハルキスト」なんてちゃらい呼び方を始めたんでしょうね。p21


そして、答えのない問題についてはファンタジー的な答えで読者を楽しませる。また、「人生とは何か?」「自分が好きか?」のような言葉だけの意味のない偽の問題は、それにとらわれずスルーするように忠告する。

だが、いくつかの質問に関してはきわめてシリアスな答えが返ってくるのに驚く。『約束された場所で』や『アンダーグラウンド』で取材したオウム事件の話題、原発を核発電所と呼んだ件、戦争の問題。こうした問題に関しては言葉を選んで真摯に応えようとするところに、この作家の誠実さがうかがえる。

 

(…)どんな日本人にもある意味において、ある部分において「反日」になる権利くらいはあるんじゃないかと思います。成熟した国家というのはそういうものです。p60


また、これは『ノルウェイの森』のテーマとも絡んでくるが、親しい人の死によってできた空白は、無理に埋めようとはせず、そのまま時間が経ち、変化が生じるの待つのがよいとしている。多くの人の心の琴線に触れる言葉であろう。

 

(…)もしあなたの中に空洞があるのなら、その空洞をできるだけそのままに保存しておくというのも、大切なことではないかと思います。p45


だが、一番参考になるのは、創作の方法ではなかろうか。繰り返し、あちこちで取り上げられる話題を集めると、村上春樹とはどのような作家なのか、大体のやり方が見えてくるのである。

書き方の手順について:

 

 僕は小説を書くとき、いつも何も考えずに、思いつくまま最後まですらすらと書いてしまって、あとから書き直していくタイプです。だから書き直しにはとても長く時間をかけます。p252


推敲について:

 

 推敲は僕の最大の趣味です。やっていて、こんな楽しいことはありません。推敲ができるから、小説を書いているようなものです。p67


結末について:

 

 

 書きながら考えます。最初から結論を決めちゃうと、書くのがつまらないです。p43


時系列チャートについて:

 

 

 長編小説を書いているときには、チャートはよく作っています。時系列も表を作ってチェックしています。そうしないとわけがわからなくなるから。p29


取材について:

 

物語のディテールについて取材をすることもありません。ディテールはだいだい自分の力で満たしていきます。取材や調査をしていると、スピードが鈍るから、物語の本来的なスピードをできるだけ殺さないこと、その力を削がないことが、それが大事になります。p187


性的描写の意義について:

 

 

僕がセクシュアルなシーンを書くのは、それが人間の心のある種の領域を立ち上げていくからです。p21


創作の方法に関しては個人的でほぼ正反対のやり方をやっているプロも少なくないはずだが、翻訳におけるプロフェショナリズムに関してはほとんど王道的な解答が帰ってくる。

内容の伝達可能性について:

 

 

 

 言語レベルでつきあわせていくと、オリジナルのテキストと翻訳されたものとのあいだには、やはりある程度の落差は生じます。これはもう原理的に仕方ないことです。しかしその表層を一枚剥いだ物語レベルにおいては、ほとんどそのままの内容が伝達可能であるはずだと、僕は考えています。p68


原文の理解可能性について:

 

 

 

 原文の意味がうまくくみ取れずに困ることはしょっちゅうあります。でも投げ出したいと思ったことは一度もありません。「一生懸命考えれば、意味がわからないわけがない」と信じているからです。p94


翻訳の更新の必要性について:

 

 

 

 リジナル・テキストのアップデートは不要です。(…)
  しかし翻訳は時代とともに更新されていく必要があります。なぜなら翻訳は芸術ではないからです。それは技術であり、芸術を運ぶためのヴィークル=乗り物です。乗り物はより効率的で、よりわかりやすく、より時代の要請に沿ったものでなくてはなりません。
p185


対談に関しても同様で、相手の全著作を読んで臨むようにすると、逆にそれが重荷になってできなくなったが、河合隼雄や小澤征爾との本はインタビューという形で楽しくやれたと言う。

旅行記の場合も片手間で書くという考え方は村上春樹にはない。

 

 

 

 旅行エッセイ、あるいは滞在記みたいなものは、僕の経験からすれば、はっきりした目的意識なしには書けません。つまり「自分はこの旅行について、あるいは滞在について、一冊の本を書くのだ」という覚悟がまず必要になります。のんべんだらりと旅行したり生活したりしたら、本なんてまず書けません。というか、人が読んで面白いと思う本は書けません。p146


人生を生き抜く上で役に立つのは、次の二つの知恵である。一つは、女性の感情が吹き荒れるのを自然現象としてひたすらおさまるのを待つしかないとする考え方、そしてもう一つは人生を平和に生き抜くためには、規則的生活が大事だとする考えである。

 

 

 

 

(…)規則正しく生活し、規則正しく仕事をしていると、たいていのものごとはやり過ごすことができます。褒められてもけなされても、好かれても嫌われても、敬われても馬鹿にされても、規則正しさがすべてをうまく平準化していってくれます。p110


村上春樹の世界を深めるために、特に作品の中で登場する音楽や小説、映画などを知る上での必読書である。これに関しては、また地名、人名辞典というものを作りたくなっている私である。

そして、『村上さんのところ』は猫好きのための本でもある。猫に関するエピソードも数知れず、すきまを飾る猫のイラストも数多い。そしてその後ではお約束のようにこの言葉が出てくるのだ。にゃあ。

PS 437のQ&Aで物足りない人のためには、何と村上春樹が答えた3716のメールすべてを収めた【コンプリート版】の電子書籍『村上さんのところ』がある。村上春樹の世界にどっぷりつかりたい方、御用とお急ぎでない方は、単行本8冊の中身が入ったこちらがお勧めである。

 


関連ページ:
村上春樹『女のいない男たち』(1)
村上春樹『女のいない男たち』(2) 
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』補遺:村上春樹の名古屋

 

 

書評 | 11:56 | comments(0) | - | - |
辻田真佐憲『ふしぎな君が代』
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辻田真佐憲『ふしぎな君が代』(幻冬舎)は、「君が代」の知られざる過去、その数奇な運命を解き明かし、国歌としての「君が代」の運用に再考を促す豊富な材料を提供する快著である。

「君が代」の詞は古今和歌集のころから存在し、人々に愛唱されていたと言っても嘘はないが、現在のような国歌としてではなく、たとえば徳川時代には大奥で元旦の儀に将軍を讃える歌として用いられていたし、これ以外にも鹿児島の琵琶歌「蓬莱山」など様々な場所で、異なる形で用いられていたのであった。しかし、現在につながるのはあくまで歌詞に限ってのことであった。

曲をともなった国歌としての「君が代」が登場することになったのは、1869年、開国にともない、外交上国家がないと格好がつかないという実用的な意味からの作成であった。その必要性を説き自ら作曲したのは、英国陸軍の軍楽隊長のフェントンだが、この「君が代」は様々な問題を抱えていることが実際に式典などで使われるうちに明らかになってきた。何よりも、古歌である歌詞と洋楽の音が合わないのである。これを「君が代」のバージョン1.0とすると、現行バージョンの「君が代」2.0へのアップグレードは、1980年に海軍省と宮内省の手によって行われた。実際に曲をつける作業にあたったのは奥好義(おくよしいさ)だが、名義上はより上の地位にある林宏季(はやしひろすえ)の手によるものとされ、指導にあたったドイツ人のエッケルトの手によって編曲された。しかし、そのころの「君が代」の位置づけは、有象無象の国歌候補の一つにすぎなかった。「君が代」も国歌として認められるに至るまでには、文部省との縄張り争いや巷の批判も加わって、さまざまな他の候補曲とのバトルを勝ち抜かなければならなかったのである。

「君が代」に対するよくある批判、皇室の歌であって日本国民の歌でない、あるいは暗く、陰気すぎて、戦意高揚には向かないといった声も、実は百年以上前からあるものなのだ。

こうした歴史を知ることで、凡百の歌にはないような「君が代」の驚くべき特質も本書では明らかになる。今日上記のような理由で、新しい国家を誰かが作ろうとしても、十中八九過去の文部省や、それに対抗する日教組の試みと同じく失敗に終わることになるだろう。国歌を意識して作曲された曲は戦前も戦後も同じような紋切型の凡庸さに陥っており、それに比して、「君が代」は政体の変化をものともしない、しなやかな強靭さを備えた、懐の深い曲なのである。

揺るぐことのない戦時中の地位から、一転して平和国家になった後の「君が代」のサバイバルまで歴史をたどる中で、著者はその未来についても考えようとする。

日の丸と同等に扱われがちな「君が代」だが、その押し付けに対する人々の抵抗感のレベルは大きく異なる。それは、国旗が受動的な見るという行為しかともなわないのに対し、国歌は歌うという能動的な行為をともなうからである。

著者の立場は、「君が代」を排撃するという左派的なものでもなければ、「君が代」を全国民に強制するべきという右派的なものでもない。本文の記述は一貫して、目的論的な歴史観と無縁であり、我田引水的性質のない細かな事実洗い出しと集積からなっている。マイノリティに対して暴力的であり、強制的な踏み絵の性質を持つ歌う「君が代」ではく、聞く「君が代」こそが21世紀の「君が代」のあるべき運用方法であるという著者の提案もきわめて現実的でバランスのとれたものと言えるだろう。

無知が生み出すのは新しい何かではなく、過去の失敗や蒙昧の繰り返しにすぎない。右からも左からも風当たりの強い中間の場所にとどまりながら、ヴィヴィッドな問題意識によって古いと思われがちな話題を新鮮なかたちで蘇らせる辻田真佐憲は、歴史書の価値を現代人に再認識させる若手論客随一の人である。

関連ページ:
辻田真佐憲『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』
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