つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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堤未果『沈みゆく大国 アメリカ <逃げ切れ!日本の医療>』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略  ver.1.01
「金を積んでも買えないものとは何ですか?」
「人々の、民衆の心の中ですよ。小手先のお金と捏造された情報でつぶしてもつぶしても、そのたびに私たちの怒りは大きくなって、広がってゆく。住民運動とは、オセロゲームのように、国民の意識を白から黒へとひっくり返してゆくものなのです。私たちの最大の弱点は無知だったこと。でも一度知識を得たら、目に映る世界はそこから大きく変わるんです。(…)」

p157




堤未果『沈みゆく大国 アメリカ <逃げ切れ!日本の医療>』(集英社新書)は、同じく集英社新書から出版された『沈みゆく大国 アメリカ』の続編である。前作では、オバマケアに代表されるアメリカの医療制度の変質によって、それまで中流層としての生活を享受していた多くのアメリカ人が貧困に苦しむに至ったかを中心に描いていた。そして本書では舞台は日本に移ることとなる。アメリカの強欲資本主義の次のターゲットは、日本である。いかにして、現在私たちが享受している国民健康保険制度を、骨抜きにして、混合医療を中心とした医療保険を押し付けようとしているか、その手口が明かされる。

堤未果の本はスティーブン・キングのホラー小説よりも恐ろしい。なぜなら、それは現実の象徴としての恐怖ではなく、現実そのものの恐怖を描くからである。アメリカ社会に訪れた変化は、そこで長期間生活したり、旅行者として病気となり医療を受け、法外な治療費を払うことにならない限り、対岸の火事として見ることができたが、魔の手が日本の医療に及ぶとなるともはや悠然たる態度をとっていられなくなる。1985年のMOSS協議に始まるその流れは、この30年間、議会を有名無実化する経済財政諮問会議や、TPPや国家戦略特区諮問会議に至るまで、日本のさまざまな分野にはたらきかけ、法律や制度の変更を行ってきた。

  戦略特区が全国に広がり、日本全体で外資系企業がしっかり稼げるよう十分に規制が取り払われたところで、TPPを締結させる。そうすれば、一度広げた規制は元に戻せないという<ラチェット条項>が、総仕上げとして規制緩和を永久に固定化してくれるという寸法だ。
  アメリカの財界にとって何よりも都合がいいことは、TPPと国家戦略特区が双子の兄弟だということに、日本国民がまったく気づいていないことだった。
pp75-76

しかし、私たちはただ脅えているわけにはゆかない。無知な人々をほど扱いやすい者はないからだ。多くの政治家や官僚にしても、自分や懇意の業界の利益を図っているつもりでも、より致命的なかたちで自分や家族の身体レベルでのリスクを高める努力を行っているのである。やがて時間がたてば、その努力も割が合わないことに彼らも気づくかもしれない。しかし、そのころには手遅れとなっていることだろう。手遅れになる前に、国民全体が医療や健康保険制度に関するしっかりとした知識を身につけてしまえば未然に阻止することも可能である。このような願いで本書は書かれている。

本書はアメリカ社会に関しても絶望的な例のみを挙げているわけではない。製薬業界と保険業界が結託し、アメリカ政府を取り込んだ医療の変質に対する対抗例として、保健医療を拒絶し直接支払い診療を採用した医療の現場、キリスト教における助け合いの医療制度としての教会共済や、州における住民投票の三つの例を取り上げている。これらの可能性は、アメリカの人々に残された希望の例である。そして、同様に、日本における希望の萌芽もまた取り上げられる。

私たちは、より賢明になる必要がある。政府は医療の予算を流すために、好都合な数字を、捻じ曲げながら流す。意図的にフレームアップされた医師悪玉説はその最たるものであろう。歪曲されたデータに反して、医師の数は不足し、過酷な労働状況に置かれるのが現状である。病院をコンビニ的に利用し、単なるクレーマーとなることは、医療現場をブラック化させるだけである。

本書は、医療のみならず、さまざまなかたちで私たちの生活をおおむね悪い方向へと変えようとしている法律や制度の下の利害関係を明らかにする。狙われているのは、日本の健康保険制度であり、私たちの老後資金である。それを守るための基本知識を身につける上で、本書は全国民的必読書と言えるだろう。


五十嵐泰正・開沼博編『常磐線中心主義』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略  ver.1.02

  近代通勤路線、長距離路線、そのいずれの顔も、ことさらに語られてこなかった常磐線。しかしそれは、この沿線の地域が、単に通過される経路となるだけの不毛の地であったことを意味しているわけでは、決してない。それどころか、この常磐線沿線の地域こそが、東京と日本の近代を支えてきたといっても過言ではないのだ。(五十嵐泰正:序章 寡黙で優秀な東京の下半身、p11)

 「常磐」とは日常の土台そのもの。自らの日常を問い直し、生活の足下を見つめ直したとき、「常磐」はあなたの目の前にたちどころに現れる。
(小松理虔:第四章 泉駅pp204-205)

   常磐線を通して他の線路よりも語りえることがあるのだとすれば、それは「語られてこなかったこと」だ。
(開沼博:終章「語られなかったこと」が示すもの、p289)


開沼博五十嵐泰正責任編集『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)(河出書房新社)は、南は上野から北は富岡まで、常磐線に沿って北上する形で、8人の論考を収めたものである。年間数百冊は読破する中でも、この本ほど濃厚なメッセージが込められ、魅力的な目次を持った本は他に類を見ない。

常磐線中心主義

ページの上には左端の上野から右端の仙台まで常磐線沿線の地図が描かれ、竜田から原ノ町、相馬から浜吉田の不通の区間は破線で描かれている。そしてページの下には章題が右から左へと並ぶが、すべて駅名になっている。第6章は不通区間に含まれる富岡駅で終わり、それより先の駅が登場することはない。ひとを考えさせずにはおかない、この目次の見事さだけで、この本は買う価値がある。

24年間常磐線を中心に生活してきた。但し、日常的に使うのは上野から取手駅の区間であった。たまに仕事や余暇の目的で、土浦や水戸まで足を伸ばすことはあったが、それより先に足を伸ばすことはなかった。仙台や石巻の親類に足を伸ばす時には、東北新幹線を使ったので、水戸から北の常磐線はまるで縁のない鉄道であった。

一口に常磐線と言っても、実はよく知った区間と、たまに使う区間、そしてまるで足を踏み入れたことのない区間、この三つがあるのは、私だけではないだろう。常磐線と生活圏が重なる多くの関東在住者にとっても、常磐線は、いくつかの異質の層からなっているのだ。

『常磐線中心主義』が目指すのも、この異なる歴史や産業や文化を持った駅中心のエリアが形成する層を輪切りにしながら、異質性を異質性のまま描き出すことであるだろう。

2011年に東日本大震災では、さらに常磐線が地震と津波の影響で切断した。そして、その切断を切断のままにとどめる形で、本書はまとめられているのである。

第一章上野駅では、「北の玄関口」のターミナルでありながら、高層化されることもなく、街との一体性を重視した存在であり続けた上野駅の特異性を五十嵐泰正が描く。続くコラムの南千住駅では、「あしたのジョー」に描かれたような山谷のドヤ街から大規模再開発の波とともに福祉のまちへと、さらには外国人観光客の人気スポットへと移り変わる変貌ぶりを稲田七海が描き出す。

第二章柏駅では、福島から遠く離れた東京のベッドタウンでありながら、福島第一原発事故によりホットスポットとなり、住民がネットワークを形成しながら除染対策へと立ち上がった経緯を中心に五十嵐泰正が論じる。さらに安藤光義のコラムでは、茨城県という首都圏へ出荷する巨大な農業地帯としての特異性を、県北・県南・県西・鹿行の四つに分けながら取り上げる。

第三章水戸駅では、県都でありながらも中心街の空洞化が進む水戸での、ストリートダンス「ロックンロール」のローカルなサブカルチャーとしての変遷を大山昌彦が論じ、さらにコラムではそれとは異なる視点から、「水戸黄門」など水戸の歴史的コンテキスト活用課題を沼田誠が論じる。そしてもう一つのコラムでは、停滞に悩むかつての企業城下町日立の今日的課題を帯刀治が論じる。

第四章泉駅では、震災をきっかけにいわき市の水産会社に転職することになった小名浜生まれの理虔が福一原発事故とともに壁にぶつかった蒲鉾会社のサバイバルへの苦闘を内側から描く。それまで淡々としていた記述が一気にドラマティックになるのもこの章からである。コラムのいわき駅では、震災を機に常磐線沿いのラッパーが結集したアルバム『常磐DOPE』を、同じく小松理虔が取り上げる。

第五章内郷駅では盆踊りの目玉となっている日本一の回転やぐらの誕生とその60年間の変遷の歴史から、
炭鉱とともに繁栄の場所であった地域の特異性を開沼博が掘り下げる。『フラガール』の湯本は観光によって生き残りをはかったが、内郷がとったのはベッドタウン化の道であった。さらに第六章では津波によって大きく破壊され、未だ常磐線再開通のめどが立たない富岡駅周辺の地理的・歴史的特殊性を開沼が分析しながら、復興の道を見出そうとする。

沿線の地層学ともいうべき『常磐線中心主義』は、最後に忍び込む暴力的な鉄道の切断によって、21世紀の日本の経済や技術力をもってしても容易でない東北の復興の困難性を物語る。おそらくはその傷を生々しく語るためにこそ、本書は書かれたのであろう。

もちろん『常磐線中心主義』は、常磐線のすべてを語ることはない。無数のフォークロアがその間の余白に、あるいは、同じ層の上下に書かれるべきものとして存在することだろう。本書がめざすのは、車中心社会であえて「鉄道が通ることによってそこに生まれた物語」の見直しという、問題意識の座標軸の形成である。そういった意味で、本書はいつもすでに追記されるべき開かれた書物として存在しているのである。
松井優征『暗殺教室 15』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略



松井優征『暗殺教室』も、刻一刻エンディングの足音が聞こえる15巻。もうじき二学期が終わり、冬休みに突入する季節です。

理事長の浅野学峯と殺せんせーとの、直接対決の中で理事長の過去も明かされます。今の3年E組の教室がある場所こそ、かつて教育への志に燃えた完璧超人教師の学峯が塾を開いたその場所だったのです。生徒への愛情豊かな学峯を豹変させたある出来事とは?

冬休みを前にした椚ヶ丘学園の年内最後の学校行事は、演劇発表会。その出し物を決めるクラスでの話し合いの中で、殺せんせーは自分が主演したいと言い出します。そもそも殺せんせーの存在は国家機密であるし、生徒をさしおいて教師が主役などという暴挙が果たして許されるのでしょうか?意外な話し合いの結果は?

そして、その片付けが終わろうとする頃、3年E組のある女生徒が、それまで秘めていた殺意をあらわにして、シロの放つ刺客として殺せんせーに襲いかかります。生徒が教室内で普段行うような、普通の襲撃ではありません。堀部イトナ同様、髪の下に隠していた触手で殺せんせーをピンチにおとし入れるのでした。

かつて3年E組の担任であった雪村あぐりの妹を名乗るその女生徒の正体とは?

そう、潮田渚のあの髪型を決めたのも、殺せんせーの名前をつけたのも彼女だったのです。

そして、いよいよ解き明かされる殺せんせー誕生の謎とは?

殺せんせーが超生物になる前は、実は… 善から悪へと改宗したのが浅野学峯であったとすると、悪から善へと改宗したのが実は殺せんせーだったという衝撃の事実もまた明らかにされます。

この15巻で、松井優征の画力は、さらに進化を遂げていて、それは87pの女生徒が触手を伸ばし、殺せんせーに襲いかかるシーンに端的に表現されています。『暗殺教室』が、『魔法少女 まどか☆マギカ』の系列に属するファンタジーの末裔であることを、あらためて知らされる瞬間なのです。

関連ページ:
松井優征『暗殺教室 14』
松井優征『暗殺教室 11』
松井優征『暗殺教室 9』 
松井優征『暗殺教室 8』
松井優征『暗殺教室 6』
松井優征『暗殺教室 5』

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