つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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中森明夫『寂しさの力』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 ひとはなぜさみしいのか?それは死ぬからでしょう。五十歳を過ぎて、やっとわかった。私の母は死にました。やがて、私も必ず死ぬ。そうして、あなたも死ぬでしょう。この世に死なない人間はいない。
 人生はほんの一時です。
 人はさみしさから生まれ、さみしさの彼方へと消える。

 p185

 

 

『寂しさの力』(新潮新書)は、評論家であり作家でもある中森明夫渾身の人生論であり、人間論である。華麗なレトリックと、様々なアーチストや作品に対する慧眼ぶりで鳴らした中森明夫だが、この作品は従来の作品とは趣を異にして、私小説的な内容まで踏み込んで心情を吐露した感動的な作品となってる。

評論家としての中森明夫の近年の活動は、端的に言ってしまえば二つのことしか言っていない。

この作品がえらい、なぜなら〜だから。
このアイドルがスゴい、なぜなら〜だから。

おおよそオタクと呼ばれる人にはありふれたこのフォーマットも、中森明夫においては、二つの才能によって際立ったものとなる。一つの才能はいち早く有望な人や作品を見出しそれがほとんど外れないという慧眼ぶり、発掘の才であり、もう一つはそれを説得力あるものとし、読む者を感染させる修辞の才であり、それはとりわけあるものを別のあるものと重ね合わせることにより一層輪郭を浮き彫りにする見立ての才(たとえば桐島=キリスト)によって発揮される。この自由自在な見立ての才は、古今東西のカルチャー・サブカルチャーに通じたデータベース的博識によって裏付けられる。つねに新しいものを追い続けているかのように見える中森明夫だが、専門の外国文学者を除き、彼ほど今なお広範囲に外国文学の古典を読み続けている人はいないだろう。

80年代の評論から近著の『午前32時の能年玲奈』に至るまでの中森明夫の文章を見て、浮かんでくる疑問はたった一つ、ジャンルを超えて、なぜそこまである小説を、ある映画を、あるテレビ番組を、あるアイドルやアイドルグループを支持、擁護し、熱狂的に語り続けるのか?ということである。

『寂しさの力』は、それに対する解答であり、同時に中森明夫の評論活動の中間的な総括となっている。

もしも、中森明夫がある映画や小説を熱っぽく語り擁護し続けるとしたら、それはそれらの作品が寂しい作品であると感じるからだ。

もしも、中森明夫があるアイドルやアイドルグループを熱っぽく語るとするなら、それはそのアイドルたちの中に寂しさを肌で感じ、人々の記憶から忘れられるに任せるに耐えられないからだ。

寂しさは悲しさとは異なる。悲しさは何かが失われた出来事の衝撃そのものより生じるが、寂しさは、後から遅れてやってくる。寂しさは、不在そのものの体感からやってくるより深い感情なのだ。

 

 

 

 親しい人が死んだ瞬間、人は誰もが泣くでしょう。悲しくて、つらくて、身がふるえる。大きな衝撃を受ける。お通夜があり、お葬式があって、亡くなった人の親族や友人・知人が集い、みんなで悲しみの別れを告げます。
 死―というと思い浮かぶのは、そんな場面ではないでしょうか。
 けれど、時は流れる。月日を重ねると、やがて悲しみは癒えます。
 どんなつらい別れや悲しさも決して癒えないものはない。
 死に対した時の衝撃的な感情は、日々、薄れてゆきます。
 そうして、ある日、気づく。
 死んだ人は「いない」ということに。
 もう二度と会うことはできないのだと。
 その瞬間、心に浮かぶ感情は何でしょう?
 そう、「さみしさ」です。
 いわば「悲しさ」が終わった時から、「さみしさ」が始まる。

 pp58-59


ここで読者は、奇妙な二重表記に気づくことだろう。表題では「寂しさ」となっているのに、本文は「さみしさ」となっている。この本のページを開いた者のみが、「さみしさ」という表記に接することができるのだ。慣例的には「寂しさ」は「さびしさ」と「さみしさ」の両方の読み方が可能であるが、常用漢字表の訓は「さびしさ」のみである。

 

 

 

 

 男が、「さみしい」と口に出して言うことはめったにない。
 少なくとも私自身が誰かに言った記憶はありません。
 なぜでしょう?
「さみしい」とは、実はとても恥ずかしいことなんですね。
 大の男が人前で「さみしい」と口にしたりするのは、なんとも女々しく、情けなく、恥ずべきことだと思われている。

 女性にしたってそうだ。「さみしい人」と言われるのは、ひどく屈辱的なことでしょう。
p21


「さみしい」は、人前で口にするのが恥ずべき表現であり、そして心情のストレートな告白を思わせる「さみしい」という表記は寂寥感といった文化的な表現にも結びつきうる「寂しい」という表記よりも恥ずかしい。栗本慎一郎風に言えば、「さみしい」はパンツを脱いだ「寂しい」であり、表題にある「寂しさ」とはパンツをはいた「さみしさ」なのである。本をひもとき本文に接することがない人間に対して、どうして恥ずかしい部分を見せることができるだろうか。

『寂しさの力』は、父親の死の後遅れてきた「さみしさ」から始め、母親の死による「さみしさ」で締めくくるという恥ずかしい本である。しかし、それは親より先立つことがない限り、誰にも生じうる運命である。そして、その延長には自らの死そのものがある。それを語ることなしに語られた人生論、人間論に何の重みがあるだろうか?

『寂しさの力』は中森明夫の大きな転機となる書物、いわば80年代のニューアカブームまで含めた、長すぎる中二病に対する決別の書とも言える。

自らの両親の死に関する文章のはざまで、『寂しさの力』を構成するのは、古今東西、カルチャー、サブカルチャーにわたる「さみしさ」という感情の系譜学である。

この系譜学は、坂本龍馬より始まり、ウォルト・ディズニー、アドルフ・ヒトラー、大杉栄、スティーブ・ジョブズから、酒井法子、パク・ヨンハ、中島みゆきへと、さらにモンテーニュ、ルソー、ツヴァイクまで横断的に走破する。

寂しさの力は、その欠如の感覚の補償のために、多くのクリエイターや偉人たちが、そしてアイドルが生き、そして成功の原動力とした力である。それは時に、ヒットラーや三島由紀夫のように破壊的、否定的力となって現れることもある。さらに酒井法子の場合には、成功の理由も、失敗の理由も同じこの「さみしさ」から来るのと中森明夫は喝破する。

本書の白眉の部分も、この「さみしさ」と芸能界の関係を集約した部分である。

芸能人の人気は決して、顔やスタイルのよさ、芝居や歌の上手さといった学校社会的なスコアの足し算では計ることができないものである。

 

 

 

 

 芸能人の何が優れているか?ではなくて、何が欠けているか?に着目する。
そこに人気の秘密がある。

p126


ハングリー精神と言っても、今日の日本で飢餓のどん底に苦しむような経済的なハングリー精神を持った人はほとんどいない。家族の関係に恵まれないといった精神的な飢えが、「さみしさ」の力を引き出し、成功へと導くのである。

 

 

 

 さみしい人が芸能界に入る。
 どんなにつらくても、大変でも、やめない。ずっとそこで生き残る。なぜなら、帰る場所が無いから。
 成功しても、お金持ちになっても、満足しない。決して。精神的な飢えは、充たされることはない。
 そう。
 さみしい人こそが芸能人になるんです!

 p129


「寂しさの力」という、自らの実体験と過去の文筆活動を結ぶミッシングリングを手に入れたことで、中森明夫はより一層自覚的に、そして精力的に文章を書き、さらなる傑作を生み出すことだろう。なぜなら、評論家や作家として成功する上でも、「さみしい」ことは必須の条件であり、最大の原動力になるからである。

関連ページ:
中森明夫『アナーキー・イン・ザ・JP』

 

書評 | 14:03 | comments(0) | - | - |
岩田健太郎『サルバルサン戦記』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本    文中敬称略

 

何、これ?めちゃ、面白いやん。
第二の海堂尊の誕生?
田舎出の医学者が、世界に出て、初めての抗生物質を発明し、
梅毒から人類を救う!

いかにしてその発見はなされたのか。
そこに至るまでの困難は何なのか。

その途中で出会う森林太郎、志賀潔、野口英世ら医学史に残る燦然たる
スターたちの姿を、その内心の葛藤に至るまで、臨場感豊かに描きつくす。

やがてあの世の住人たちが、時空を超えて、医学の歴史を、そして現在の世界を朝生よろしくぶった切る奇想天外な展開に読者は驚愕するだろう。

 


岩田健太郎『サルバルサン戦記 秦佐八郎 世界初の抗生物質を作った男』(光文社新書)は、ドイツに渡りパウル・エールリッヒとともに梅毒の特効薬である「サルバルサン」を開発した医学者秦佐八郎の半生を描く、伝記的ノンフィクションノベル&ファンタジーである。

通常、伝記的なノンフィクションは、幼少時代の出来事から時系列で進んでゆくが、『サルバルサン戦記』では、ドイツに渡りエールリッヒのもとで、抗生物質の開発に取り組む場面から始まり「サルバルサン戦記」と、そこに至るまでの医師としての自己形成の記録である「サルバルサン前記」が交互に展開するようになっている。よほどの有名人でない限り、実際の活躍に至るまでの幼少期のエピソードなどから始めると読者は退屈してしまうし、医師として活躍した後で、過去を遡るのも気の抜けたサイダーのようで、テンションが下がってしまうものであるから、練り上げられた構成である。

医学者としての研究態度とそこに至るまでの人間的学問的な足跡を並行して展開することで、適度な緊張感を維持しながら、秦佐八郎そして同時代に活躍した医師、森林太郎(鴎外)、志賀潔、野口英世といった医学界に燦然と輝くスターたちの個性や交流とともに、鮮やかに浮き彫りにしてゆく。

本書の冒頭で「本書は史実をもとに作られた物語であり、実在しない人物、場面、会話が含まれています」とあるように、これまで伝記などに記されている実在のエピソードをつなぐようにしながら、おそらくは全くの虚構であるかもしれない臨場感あふれる会話や心情をの吐露を通じて、医師としての秦佐八郎と、対照的な生き方をした森林太郎(森鴎外)や、同門の野口英世の個性や思想の違いを描きだす形をとっている。だから、どこまでが事実であり、どこからがフィクションなのかよくわからないのである。

会話として交わされる医学者たちの言葉や独白などの多くは、おそらく個人の足跡や、数々のエピソード、論文などから帰納的に導き出されたものであろう。そこで特に著者がこだわっているのは、医学者としての姿勢や内に抱えたドラマである。そして、著者と同じ島根県に生まれ育った秦佐八郎の思考には、著者の考えが強く反映されていると感じる部分もある。

だから冲方丁の『天地明察』『はなとゆめ』のように、可能性はあったが、現実的にはなかった場面、会話そして歴史的に無名の人間の創作があると考えて、読者は読み続けることになる。

しかし、あるところから当初の伝記的ノンフィクションノベルの範囲を逸脱してしまうのである。登場人物にありえない邂逅が生じ、当時知りえない話題が飛び交うようになり、時間を超えた俯瞰的医学論になったり、文明論となったりするのである。

それではどこまでがノンフィクションノベルで、どこからがファンタジーなのかわからないと不安に感じる読者もいるかもしれないが、一つのお約束がある。

ヤマザキマリの『テルマエロマエ』で、主人公のルシウスが時空を飛び越えてありえない事柄に遭遇するのは常に風呂を通じてであるように、この『サルバルサン戦記』がファンタジーの世界に入るのは、常に酒の席を通じてである。

なぜ、このような工夫がなされたのであろう。著者が小説家であれば、すべてが虚構であるとみなされるが、現役の医師である著者が書くと、すべて資料とみなされてしまう可能性がある。しかし、記録に残った事実だけを再構成するのでは、秦佐八郎の医師としての内的な世界や思想に肉薄することができないと考えたのではないか。したがってもっともらしい虚構の場面を挿入しながら、それらを史実として信じられないように、本書のステータスを宙づりにするために、あえて明らかに出鱈目とわかるありえない遭遇やアナクロニックな会話を一部挿入したのではなかろうか。

本書の中で真実を描くのに著者岩田健太郎が用いたのは次の三つである。
一つは、事実そのもの、
一つは、事実のように見える嘘、
そして、もう一つは明らかな嘘の中にまじえた真実である。


『サルバルサン戦記』は、虚実を超えて、真実を読み取るリテラシーが読者に求められる快著である。

関連ページ:
岩田健太郎『「感染症パニック」を防げ!』

書評 | 23:08 | comments(0) | - | - |
橋本幸士『超ひも理論をパパに習ってみた』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

私たちの世界は原子でできていて、原子は電子と陽子と中性子でできてる。その陽子と中性子が、こんなにわかってないということは、私たちはこの世のことを全然知らないということよね。>p80

科学者は毎日、冒険に出かけてるんだ。誰も知らない真理を求めて、リュックを背負って。p94

 



超ひも理論とは何か?わかりやすく言えば、素粒子が小さなひもでできているという仮説であり、「この宇宙のすべての物質と力を統一的に説明するという野心的な物理理論」である。

橋本幸士『超ひも理論をパパに習ってみた 天才物理学者・浪花坂教授の70分講義(講談社)は、初心者にもわかる超ひも理論を中心とした、素粒子物理学の簡単な入門書である。17歳の女子高校生の美咲が、父親である天才物理学者の浪速阪教授から、素粒子のことを教わり、さらに彼女が抱いた疑問点に対し父親が答えるというかたちをとっている。

標準語で尋ねる娘、それに対して関西弁で答える父親。

 

 

「異次元で素粒子がわかるって、わけがわからない」
「そやろ、それが面白いんやで。クォークの振る舞いの謎を解く鍵が、異次元の考え方にあるかもしれんのやで。わからんのが面白いんや」
p26


こんな漫才みたいなペースでこの講義は進んでゆく。1日10分×7回、ほんの一時間ばかり本書を読むだけで、次元のこと、素粒子のこと、超ひも理論のことが、隅から隅まで、すっきりと謎が解ける…というわけではない。

なぜなら、次元にせよ、素粒子にせよ、超ひも理論にせよ、多くは仮説の段階にとどまっていて、専門の学者にもわからないことだらけなのだ。

 

じつは、クオークを表す方程式はわかっているのに、それを解いた人はおらんのや p25


水素の原子核が陽子、その陽子は三つのクォークという素粒子から成り立っていると考えられている。しかし、クオークには不思議な性質がある。単独では取り出すことができず、二つ三つと組み合わさってしか見つからない。その方程式を解くと1億円もらえると言われるほどに価値のある問題、「ミレニアム問題」の一つさえ存在する。

わかるのは、なぜそうした仮説が必要であるのか、何がわかっていて何がわかっていないのかであり、問題のありかとその必然性が、この本を通読することで、くっきりと浮かび上がってくるのである。

次元の問題は、素粒子の問題を解くために必要な仮説の中で登場する。数式的につじつまを合わせようとすると、三次元を超えた異次元を、超ひも理論では九次元まで導入することが必要となってくる。

しかし、なぜそこに異次元があるとわかるのか?

異次元は、この三次元での世界では、切り口としてしか見えず、モノが異次元にまで広がっているなら、消えてしまうように見えるはずである。

 

物理学には有名な、エネルギー保存の法則、っていうのがあるんやけど、もしモノが消えてしまったら、エネルギーが保存せんことになって、そりゃ大変なことになってしまう。そやから、異次元があるかないかは、エネルギーが保存しているかどうかをチェックすれば調べられるんや
p40


ダン・ブラウンの『悪魔と神』にも登場し、『知ろうとすること。』で紹介した早野龍五氏もしょっちゅう研究員として出かけているヨーロッパのCERNが、LHC(大ハドロン衝突器)という超巨大な粒子加速器を使って調べているのも、このエネルギーの消滅の有無なのである。

異次元はなぜ見えないのかについては二つの考え方がある。
一つは、われわれの感覚が三次元にとどまっていて、異次元方向へと進めないという可能性。
もう一つは、実験の限界以上に小さく巻かれているので、異次元は見えないという可能性である。

後者を余剰次元のコンパクト化という。こうした普通の人間の感覚からは遠く隔たった世界へと、本書は軽妙な語り口によってあれよあれよという間に導いてゆくのである。

陽子には、多くの兄弟が存在する。重さが違う以外、ほとんど同じ性質を持った素粒子、これを総称してハドロンという。1950年代に多くの素粒子が発見されて学者たちは大慌てしたが、それを解消したのもさらに小さい素粒子クオークの導入だったのである。

多くのハドロンはなぜ存在するのか?その謎も本書の後半で解説される。

ハドロンを形成するクオークの間に働く「強い力」は、「グル―オン」という素粒子のやりとりによって生じるが、その軌跡を描いた図が「ファインマン図」である。しかし、グル―オンはどんどん分裂して、その飛跡によってファインマン図は埋め尽くされるという奇妙な事態が生じる。そこでは万有引力の法則のような逆二乗法則(力は距離の二乗に反比例する)が成り立たなくなってしまう。そこで成り立つのは、逆ゼロ乗法則であると言う。

ここでもわかっていないことの壁が人類に立ちはだかる。

 

物理学者は、なんでクォークの間の力が逆二乗やなくて、逆ゼロ乗になるか、わかってへんのや。p102


しかし、本書の歩みはそこでとどまることはない。クォークがもし異次元方向に丸まっているとすると、そこでぐるぐると異次元方向にめまぐるしく動いているなら、エネルギーは三次元からは質量の変化として観測される。これが陽子と重さだけが異なるハドロンが生じる説明である。

そして、最後に進むのが超ひも理論の世界である。

超ひも理論で想定されるひもには、二種類ある。
のばした靴ひものような、開いたひも
そして、輪ゴムのような、閉じたひも
の二種類である。

超ひも理論を導入するとどんなよいことがあるのだろうか?

 

「素粒子が小さなひもだったら、何が変わるの?」
「そこがポイントやな。じつは、素粒子がひもやったとすると、自動的に光と重力が出てくるねん!スゴいやろ!」

p125


じつは重力こそが閉じたひもであり、光や電磁気は開いたひもである。そこから統一された理論のまばゆいばかりの世界が示される。

超ひも理論の世界は、数理的に厳密に基礎づけられていない謎だらけ、わからないことだらけの世界である。

この素晴らしいヴィジョンによって多くのことが上手く説明できる、何となくこれでイケそうな感じ、でもまだ数式が解けない、証明できないもどかしいまでの科学の現在をも本書は正直に示している。

本書は量子物理学の最先端の成果を広く伝える本であるが、同時に無知の知に関する本である。一般の人が思いたがるのとは逆に、この世界にはわからないことだらけ、宇宙にも解けないことだらけ、未知の領域が広がっている。だから科学は面白いのである。

本書を読めば、素粒子理論の現在に関して、その成果の理解ということに関しては、専門の学者と五十歩百歩の位置に立てる、少なくともそう錯覚できるかもしれない。

もちろん、この五十歩と百歩の間には、途方もない距離がある。巨大な加速器を使い実験を繰り返したり、数式を使ってさらに先まで理論を進めるということは、素人には到底かなわないことだ。

だが、この本を読んだ中学生や高校生が、素粒子理論や科学の面白さに目覚め、近い将来この分野の大家になり、数々の謎を解き明かし、この本の中で述べられた一億円を獲得するという可能性は大いにあると思う。『超ひも理論をパパに習ってみた』は、ポンとそんな世界にまで、わたしたちの理解と想像力をワープさせることができる類まれな一冊である。

書評 | 10:54 | comments(0) | - | - |

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