つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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[2014/08/21] あべのハルカス
 あべのハルカスは、天王寺駅に隣接して建てられた複合建造物、60階300mの高さを誇り、オフィスビルとしては日本一の高さである。

あべの1

地下鉄阿倍野駅とJR天王寺駅は目と鼻の先であるが、あべの駅で降りて、Q’sMALLを方面から近づいてみるといろいろと面白いアングルが撮れる(但し、この2F、3Fはイベントスペースになっていて撮影禁止)。

あべの2

天王寺駅前の交差点は、歩道橋が360度円形につながっている。パノラマ画像で見るとそれがよくわかる。

パノラマ

間近からとらえたあべのハルカス。ハルカスとは何かと言えば、近鉄百貨店の上に、オフィスビルを乗せ、そのさらに上がホテルと観光施設のハルカス300になった複合商業施設と言えばいいだろう。

あべの3

そして反対側に見えるのが、通天閣や天王寺公園など天王寺前のレトロな大阪の風景である。

あべの5

いよいよハルカス60Fへ。いったん16Fでエレベーターを乗り換える必要がある。
大人1500円と普通に高いので、毎週デートスポットとするにはやや敷居が高い。

これは北側の風景。まっすぐ走る広い道路は谷町筋。公園の奥は茶臼山で、右に見える緑は四天王寺。

ハルカス1

真下に見える大阪市立美術館。

ハルカス2

そして通天閣。近くて低い建物の中に埋もれてしまう。

ハルカス3

西側の風景。大阪港や明石海峡大橋が手に取るように見える。

ハルカス4

アップしてみる。赤い港大橋などいくつもの橋が視野に入るこのくらいの構図が一番面白い。

ハルカス5

さらに明石海峡大橋中心にアップしてみる。夕暮れ前の海面のきらめきが印象的な時間である。

ハルカス6

今度は南側の風景。

ハルカス7

東住吉区にある長居陸上競技場。

ハルカス8

そして東側の風景。左奥の山が生駒山。

ハルカス9

真下の鉄道や高速道路(天王寺バイパス)がジオラマのように迫る。

ハルカス10

再び北側へ。緑のエリアが大阪城であるが、天守がどこにあるのかわかりにくい。

ハルカス11

大阪城をアップで写してみる。高層ビルの間に埋もれ、近くにゆかないともはやランドマークにはならない。

ハルカス12

大阪駅方面。高層ビルが林立しているので、どこがどこかわかりにくいが、駅前の茶色い丸ビルを目印にすると位置関係が見て取れる。その後ろに大阪駅、左奥に梅田スカイビルが見える。

ハルカス13

ハルカス300は、60Fのガラスで覆われた回廊部分(天上回廊)と、吹き抜け構造になった58Fの中庭(天空庭園)からなっている。

ハルカス14

58Fから中庭に出て、飲食など楽しめるが、外気にさらされるため、夏場は暑い。そのため、冷気を運ぶミストが適宜噴出する仕掛けになっている。

ハルカス15

ハルカス周辺は、周囲に競い合うような高層建築がないため、現在360度視界の開けた大阪随一の眺望スポットとなっている。その視界を脅かす存在がない今のうちに行っておきたい場所である。


佐々涼子『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

観光、留学、ビジネス、公務、ボランティア、取材、様々な理由でひとは海外へと出る。そしてほとんどの人は何とか生きたまま母国へと帰ってくる。しかし、毎年何十万という人が海外に出れば、万に一つの場合は確実に生じる。病気、交通事故、地震や津波、台風、竜巻などの自然災害、山や海での遭難、犯罪、戦争やテロ…海外に出かけた日本人であろうと、日本を訪れた外国人であろうと、いつどこで死が訪れないという保証はない。外務省の統計によれば年間で400人から600人の邦人が海外で亡くなっているという。旅先で不慮の死を遂げた場合、世界で遺体処理の決まったルールがあるわけではない。ある時には、暴利をむさぼる業者の手によって、遺体は見るも無残な状態となる。間に入り、金をむしりとるだけで、何のノウハウもないからだ。

 

 

 同じ時期、その国の同じ地域からずさんな処置をした日本人の遺体がもう一体戻ってきている。遺体の搬送をの履歴から同じ業者が絡んでいることは想像がついた。その街ではやくざが救病院を徘徊していて、死者が出ると有無を言わさず知り合いの葬儀社に運んでしまうという。一度遺体を運び込んでしまえば、高額の遺体保管料が発生する。彼らはいわゆる「遺体ブローカー」なのだ。遺族には業者の優劣などわかるはずもない。これから遺体にどんなことをされるか(あるいはされないままで放っておかれるのか)事情を知らないまま、その業者にエンバーミングを委託してしまうのである。p9


正しいエンバーミング(防腐処理)を行うことのできる業者との出会いがあるかないかによって、残された人にとってその後の展開が天国と地獄ほども違うことを知らされ、読者は愕然とすることだろう。

不幸にして母国の外で死んだという事実は変わらない。だが、その後でどのように遺体が処理され、遺族の元へ送り届けられるかによって、死の事実はやわらげられ、穏やかに受け入れられることもあれば、悲嘆の情を倍加させ、人生や運命に対する憤りや呪いさえ感じさせることもあるのだ。

佐々涼子『エンジェルフライト 国際霊柩送還士(集英社)は、海外での不慮の死に遭遇した人々に対する最適な遺体処理と送還に携わる企業、エアハース・インターナショナルを取材したドキュメンタリーである。

エアハースの創業は2003年と歴史が浅く、日本ではこの種の業務を行う企業はまだ多くないい。したがって、ニュージーランドの地震などメディアで報じられるような邦人が遭遇した悲劇のほとんどの陰には、エアハースの活動が存在する。にもかかわらず、その活動はほとんど知られていない。死者や遺族のプライバシーを尊重したエアハースが、ずっと取材を拒否してきたからである。しかし、こうした企業があることを告知することに社会的責務を感じた著者は、様々な制約を抱えながらも、何とかその密着取材の許可を得ることができたのである。

日本では死を表に出して語ることは忌み嫌われる。だからエアハースの活動も光を当てられなかった。しかし、悪徳業者が跋扈し、高額な報酬をむさぼりながら、遺体が見るも無残な処理をされるのを遺族が受け入れなければならない道理はない。

 

 遺体は訴えることができない。何かを伝えたくても言葉を持たない。
特に国境を超える遺体は、海外でどんな扱いをされようと遺族の目が届きにくい。そんな状況に加えて、死を語ることを極端に避ける日本の国民性が加わり、国境を超えての遺体搬送の現場を「未開」ともいうべき混沌とした状態にしている。信頼できる人のアドバイㇲをもらえた遺族は幸運だが、たまたま悪質な業者にかかったら、いったい何が正常なのかの判断すらできないまま、不当な扱いを受けることになる。
ビジネスになるのは遺体搬送だけではない。もしかすると遺体の一部がビジネスにさえてしまったのではないかと思うケースもある。
p16


地球上のいたるところに、遺体にむらがるハイエナのようなビジネスが存在し、その中を自分やその家族友人が旅行しているという事実を私たちはまず知るべきである。知らないでいることが、放置に近い遺体処理で暴利をむさぼる仲介ビジネスや、こっそり臓器を抜き取り売買するようなビジネスの暗躍を助ける温床となっているのだから。

本書の中では、幼くして死んだフランス人の夫と日本人の妻の間に生まれた少女、アジアのある国で旅行中行方不明となり遺体となって発見された青年…異国でのさまざまな死のケースをとりあげ、その後のエアハースの適切な処理によっていかに死が和らげられたかが語られる。さらに、社長の木村利惠、新卒でエアハースへと入社した川崎慎太郎、利惠ともどもエアハースを立ち上げた山科昌美、ドライバーを務める古箭、シングルマザーの利惠が女で一つで育て上げ、その後エアハースの継承者として期待される利幸…エアハースに携わる人々の日常をクローズアップし、いかにして彼らが死と向かい合いながら生きているかを、生々しいタッチで描き出す。

 

  腐敗した遺体が帰ってくることもある。腐敗すると水泡ができる。不用意に触るとそれがつぶれどろどろになってしまう。そこに力を加えると皮膚は脱落する。さらにそこから体液が染み出すことになる。だから利幸は柩を開けるとまずじっくり遺体を観察する。そして全体を把握し、臭いに注意を払い、それから触る。手の施しようがないという言葉は、彼の頭の片隅にもないそうだ。とにかくご遺族のためになんとかできないか、を考える。決してあきらめないし、部下にも「これでいいや」とは決して言わせない。p209


五体満足でない死体に接しても、何とか生前の美しい姿で遺族の元へと届けようと情熱、執念には涙を禁じえない。

本書の最後は、シリアで取材中に、狙撃され、死を遂げたジャーナリスト山本美香の葬儀の背後でのエアハースの活動を伝えることで終わっている。これほどの密着取材を行いながらも、著者は死の現場に立ち会うことは許されなかった。他のジャーナリストと同じ視点でしか伝えられなかったその距離感の中に、エアハースの厳然たる使命感や職業倫理が表現される。

 

 目で「ここまでだよ、もうついてくるな」と言っている。私はうなずく。佐藤が助手席に乗り込み天を仰ぐのが一瞬見えた。我々は遠ざかって行くエアハースの霊柩車を見送った。p266


エアハースの役割は、遺族の涙を止めることではなく、遺族が正しく弔えるようにすることである。

 

  国際霊柩送還の仕事とは、遺族がきちんと亡くなった人に向き合って存分になくことができるように、最後にたった一言の「さよなら」を言うために機会を用意する仕事なのだ。p275


東日本大震災を経験する中、本書の執筆を契機に、著者は死と弔うことの意義を改めて問い直す。それはわたしたちすべてにとっての、重い宿題であると言えるだろう。

 

(…)今震災を経験して、弔いというものが人間にとっては本質的に必要なのだと私たちは理屈を超えて気づきつつある。葬儀は悲嘆を入れるための「器」だ。自らの力では向かい合うことができない悲嘆に向き合わせてくれるためのしくみなのだ。 
今、我々は生き抜くことと、悲しみ抜くことが同義の時代を生きている。
では、いったいこの時代の我々にとってどんな弔いが必要なのか。あるいはこの国にとってどんな弔いが必要とされているのか。我々は一度ここで立ち止まり、考えてみる時期に来ているのではないだろうか。
p278

 

書評 | 09:43 | comments(0) | - | - |
佐々木俊尚『自分でつくるセーフティネット』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本



20世紀から21世紀へと変わる中で、生じた大きな変化は、かつて日本社会において、堅固な「箱」というセーフティネットとして機能していた会社の存在が次第にその機能を失い、同時に国家による社会保障というセーフティネットも、下の年代になるほど脆弱な存在となってきたことである。これからの時代は、現在どんなに恵まれた立場にいようと、職や立場を失い、しかも国によるセーフティネットがあてにできないことを前提に生きてゆくしかないのである。

佐々木俊尚氏の『自分でつくるセーフティネット 生存戦略としてのIT入門』(大和書房)は、インターネットの発達とSNSの隆盛により、社会が総透明化する中で、これからの時代のライフスタイルの基本戦略を要約した快著である。

終身雇用制度のもと、単なる生計の糧を得るだけでなく、命を賭けても守りたいものであり、定年になっても居場所として機能していた「会社」という存在の意義はほぼ失われ、今や正規職員と非正規職員の間に大きな格差の溝が生じている。さらに、中高年の正規職員もリストラにおびえる時代である。

安全なレールから外れた場合に、会社関係のような「強いつながり」はもはやあてにできない。そうした場合に頼りになるのは、むしろ名刺交換しただけの相手や、パーティで知り合ったような人、ネット上の知り合いのような「弱いつながり」の方なのである。SNSにより、個人のプライバシーがどんどん透明化される中、それを監視社会の脅威として脅えているのは、よい戦略とは言えない。情報社会では、むしろ個人の情報は無視されるために使われる傾向にある。ツイッターで居場所を呟けば、それだけ空き巣に入られる可能性も高まるかもしれないが、得るものと失うものを天秤にかけた上で、これからは個人の情報発信を心がける必要があるのだ。ネット上では、よいものも悪いものも可視化され、個人の人格が透明化される傾向にある。誰かに敵意を投げつけるような発言は、最終的に個人の身にはねかえってきて、マイナスをもたらすことになるだろう。逆に、善意ある行為もそのまま透明化されるし、病や失業など、困った時には多くの情報が寄せられることもある。

そうした時代の変化を踏まえた上で、佐々木氏が本書の中で提案するのは、会社のような「箱」以外の、新しい「情の世界」をつくるあげることである。
 
 わたしはこの本の「はじめに」で、「昔の日本の社会には『理の世界』と『情の世界』のふたつがあって、そのふたつの世界が行儀よくうらおもての二重底になっていたから社会はうまくまわっていた」と書きました。でもいまはグローバリゼーションの荒波という「理」ばかりが勝ってしまって、「情」が置き去りになってなっちゃっていて、これがセーフティネットを危うくする原因になってしまっています。
 そういう時代に、弱いつながりを大切にして、多くの人とつながっていくというのは、これこそがまさに新しい「情の世界」なんじゃないかとわたしは思うんですよ。それこそが新しいセーフティネットじゃないかと思うんですよ。会社のような「箱」の中におさめられている「情の世界」じゃなくて、社会のすみずみに裏側で網の目のようにつながっている新たなかたちの「情の世界」。
p127

このようなつながりは、即座にマネタイズや転職につながることはないかもしれないが、みんなとゆるくつながるこの新しい「情の世界」が安心感を私たちにもたらしてくれるのだと佐々木氏は言う。

日本における素晴らしい絆とは、実は「空気を読む」同調圧力と同じものである。そこでは、みんなと違っていること自体が、非難や排除の対象となる。ブラックな企業ほど、愛社精神や絆を謳うことは記憶に新しい。知り合いのいないところでは何をしてもよいという、旅の恥はかき捨て的な日本人の行動にもつながりやすい。しかし、日本人もそうしたやり方を考え直す時期に来ているのではなかろうか。
 
 狭くて強いつながりよりも、広くて弱いつながりを保つほうが生存戦略として有効になってきている中では、「会社のために黙々と仕事をする」よりも、「広い社会のために善いことをする」というほうが正しい生存戦略である、ということです。p166

『自分でつくるセーフティネット』の中で、佐々木氏が提案しているのは、単に新しい生き方の提案だけでなく、親鸞の悪人正機説にも通じる、ネット時代の新しい倫理観である。

日本人は「箱」の中の人間には、親切であったかもしれないが、「箱」の外の人間に対しては残酷になる傾向がある。しかし、その「箱」自体が壊れようとしている時代に、それにこだわり続けることにどんな意味があるのか。どんどんと他人を排除していった結果、最後には自分しか残らないということになるのではないか。わたしたちは、見知らぬ他人に対し、寛容になることから始めなければならないのである。

「箱」が壊れることによって、わたしたちは成熟するチャンスを逃したともいえるかもしれない。成熟しないとは、いつまでも若いつもりでいること、そして純粋であるため、自分の汚れや穢れを引き受けることができないことを意味する。つねに自分は弱者で善人で、悪いのは外にいる誰かであるという発想を卒業することができないのである。自分がひょっとしたら加害者かもしれないという事実には蓋をし、常に被害者という弱者の立場に立ち、正義の人であろうとするマイノリティ憑依の問題もここから生じる。

しかし、今は「絶対」のない時代である。今日の勝者も明日の敗者、今日のヒーローは明日の悪人にいつなってもおかしくない時代である。誰もが永遠に勝者であり続けることはできない。誰もが永遠に善人であり続けることもできない。いつ敗者になり、あるいは悪人になっても不思議のない時代である。その「入れ替わり可能性」を引き受けることなしに、これからの時代の生き方を考えることはできないであろう。

善人とは、「自分が他人に迷惑な存在であることを、まったく意識していない」偽善者のことではないか。とすれば、そのことを自覚している中途半端な悪人の方が、ずっとましな存在ではないか。こうして、21世紀のインターネットとSNSの時代に、親鸞の悪人正機説が蘇らせながら、佐々木氏はこう結ぶ。
 
 自分が中途半端な立ち位置であることを自覚し、善人にもなれないし偽悪者でもないと自覚し、そして他人に寛容になることを目指してていく。見知らぬ他人をそうやってまず信頼し、そこから多くの人との弱いつながりをつくっていくこと。これが会社という共同体の「箱」が薄れつつあるいまの時代にとって、最強かつオンリーワンの戦略であるということです。p200

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