つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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三部けい『僕だけがいない街 4』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 
             Kindle版

三部けい『僕だけがいない街』
は、「再上映(リバイバル)」という特殊な能力を持つ漫画家志望の青年が、18年前の小学生時代に起きた連続誘拐殺人事件の謎を、その力で過去に遡りながら解き、未来を変えるというサスペンスファンタジーです。

第3巻では、主人公である藤沼悟が、誘拐犯人の罠におちて、母親殺しの汚名を着せられ、逮捕されてしまうというところで終わっていました。

歴史は変わったけれども、まだ十分ではなく、クラスメートの雛月加代は、以前と同じように殺されてしまう。真犯人はまんまと逃げのび、代わりにユウキさんという青年が逮捕されてしまう。その流れを変えないことには、18年後の未来において、母親は殺され、自分がその犯人にされてしまうのです。

再び、再上映(リバイバル)によって、1988年、小学5年生の時代へと戻る悟。彼がまずやろうとするのは、雛月を母親の虐待より守りきることでした。

姿形は、小学生でも、その考え方は二十台後半の大人です。そんな悟の変化に気づいたのが、親友のケンヤです。彼は、悟に対して、お前は何者だ?と問いかけるのでした。

このままでは雛月が殺されてしまう。自分は正義の味方になりたい人だと言って、悟はケンヤを味方につけます。しかし、悟の行動は、ケンヤにも危うく見えて、その破滅なやり方を食い止めようとします。

小学生である自分たちの手に余るのを感じた二人は、大人たちを、警察や児童相談所を動かすしかないと判断し、ある計画を実行に移すことを決心します。

それは、何と雛月加代を**すること!

彼らのもくろみは果たして成功するのでしょうか。その間にも、次々に犯行を繰り返すであろう犯人の魔の手は彼らの周辺に迫ります。

『僕だけがいない街』は、奇数巻が青年時代中心、偶数巻が少年時代中心となっていました。この4巻は終始1988年の少年時代にとどまり続けます。しかし、まだ多くの謎が残っています。そのまま、18年後へ戻ったところで何の変化もないことでしょう。

4巻の冒頭で、これが最後の再上映(リバイバル)だ。失敗したらもうやり直しはきかないと悟は自分に言い聞かせます。つまり、次には真犯人との対決があり、謎の核心が解き明かされるであろうということです。いよいよクライマックスに近づく『僕だけがいない街』、ますます目が離せませんね。

必読!大御所小池一夫氏の『僕だけがいない街』レビュー(マンガHONZ)

関連ページ:
三部けい『僕だけがいない街 3』
三部けい『僕だけがいない街 2』
三部けい『僕だけがいない街 1』

書評 | 01:03 | comments(0) | - | - |
東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本    文中敬称略

 


世界一わかりやすい東浩紀入門


『弱いつながり 検索ワードを探す旅(幻冬舎)は、思想家であり、作家でもある、東浩紀さんの一番わかりやすく、一番新しい本です。

一番わかりやすいというのは、まず読者に語りかけるようなていねいな文体で書かれていて、難しい引用などもありません。思想家などが登場するときも、わかりやすくくだいて説明されています。

さらに、本の話が中心ではなく、経験の話が中心になっています。

それも、一人の小難しいことを考えるオッサンの経験ではなく、ほしおさなえというペンネームでも活躍している作家で詩人のきれいな奥さんと、東さんのツイッターのアイコンにもなっているかわいい娘さんの三人が登場する、キャラ立ちしたファミリーロマンです。

でも、この本はとても大切な二つの問題に、正面から答えた本だと思います。

一つは、人はネットの中だけでは、自由で、オリジナルな考えにたどりつくことができないということ。

ネットの世界は、実は自分の考えを映す鏡にすぎません。検索により、自分の好きなものが、出てくるのです。そこには、誤配性というものがありません。誤配性というのは、望んだもの以外の間違って自分のところに届けられるということです。

今の世の中は、日本も、そして他の国でもそうですが、誤配性をとことん忌避する世界、嫌がって避けようとする世界にどんどんなりつつあります。

では、ネットの外側で、たとえば会社のような、何かの組織に属していればいいのでしょうか。

それもまた誤配性のない、強いつながりの世界です。期待された役割を、期待されたとおりに演じようとする世界、村人の世界です。

オリジナルな考え、自由な行動を得ようとすれば、いったんネットの外へ、あるいは組織の外へ出て、誤配性の中に身をさらす必要があるのです。

そんな時に役に立つのが、弱いつながりです。

「たまたまパーティで知り合っひと」のような弱いつながりをきっかけにした方が、転職の際にも成功につながることが多いのです。

閉じた世界の中では、欲望も枯渇してしまいます。自分の好きなものだけ選んで、その中で気持ちよく暮らしているはずなのに、いつかマンネリになり、気持ちよさも失われてしまう世界、一種の自家中毒の世界。

そんな風にして、欲望が力を失ってしまうと、そのままネットの社会、組織の社会の中に、完全に呑み込まれてしまいます。考え方が固定化され、自由で柔軟な思考ができなくなります。新しいものに触れ、自在に変化する自分という軸がないからです。

リアルな世界に身をさらしてこそ、新しい欲望が発見され、ネットの世界、組織の世界でも、自由に考え、生きる横断的な軸ができるのです。

大事なのは、身体を拘束し、環境そのものをまるごと変えることです。大事なのは、周辺の世界をまるごと変えることで経験される身体的な時間です。

そのための旅。しかし、この国において、旅については、ある強い固定観念が支配してきました。

観光としての旅は、本当の旅ではないというものです。

きれいなホテルに泊まり、一流レストランで食事をし、観光地をツアーコンダクターに導かれ、ショッピングモールで買い物をするような旅ではなく、貧民街の中に身を投げ出し、現地の貧しい人の家で寝食をともにし、生活のリアルに触れるものこそ本当の旅である。少なくとも、物を書く人、表現活動を行う人は、そのような旅を行うべきである、と。

ライターとして、一旗上げようとした時、他の人との差別化のために、つまり目立つためにそうした選択を行うのは、切実なサバイバルへの欲求に基づいたもので、それ自体は非難されるべきものではありません。

しかし、それが唯一の正しい旅の姿であると考えるのは間違った考え方です。

誰もが藤原新也や、石井光太になれるわけではないし、まして一生あり続けるわけにはゆかないのです。

若い時は、バックパッカーとして、インドを放浪し、食中毒や盗難やら様々な苦難を乗り越えながら、旅をするというのも、本人にその覚悟があればいいでしょう。

しかし、守るべき家族ができ、年齢とともに、体力やごたごたしたトラブルを乗り切る気力が失われるとかつて可能であったことも可能でなくなります。

また、現地にとことん溶け込むという考え方も、村人の発想です。

自分の帰属する社会でも、他の社会のいずれでもない、中間に身をおくこと。その行為こそが観光と呼ばれるのです。

観光とは、一種どの社会からも、距離をとることです。そのことによって、新しいキーワードが見つかり、フラットにしか見えなかった世界が、立体的に立ち上がり、ネットの検索の世界もずっと豊かになります。

具体的なモノを目の前でして見ることには、それだけの力があるのです。

この『弱いつながり』の第一の主張は、検索ワードを見つけるための観光の価値ですが、これは見る側の論理です。

『弱いつながり』の第二の主張は、そのように人を考えさせるモノは残す必要があるということです。これは、ぐるり百八十度回転し、見せる側の論理です。

モノは残す価値がある、それは際限のないメタゲームを終わらせるために可能な唯一の解毒薬だからです。

メタゲームというのは、言葉に言葉を重ねる世界です。いくらでも、原理原則にさかのぼって相手の主張をひっくり返すことが可能です。その行為に終わりはなく、不毛な論争が続くことの方がしばしばです。

それを調停する可能性は、モノだけなのです。

歴史認識の問題でも明らかなように、記憶は都合よく書き換えられる。それに抗するには、モノを残すしかない。



『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』は、過去あった出来事の痕跡を濃厚に残す場所とモノをまず見ることで考えようという発想でつくられた本ですが、『福島第一原発観光地化計画』では、今度は事故の現場のモノを残すことで、将来にわたって、人が考える材料を与え続けようという発想で作られた本です。



同じように見えても、見る側から見せる側へと視点が大きく変化しているのです。

東さんは、まだ二十代のころ『存在論的、郵便的』という本の中で、メタゲームの極致である脱構築を終始一貫し探求したジャック・デリダという哲学者の研究を行い、一躍注目を集めた人です。



また『一般意志 2.0』という本の中では、ジャン・ジャック・ルソーというフランスの思想家の考えを発展させ、ネット上の意見を集約することで、新しい民主主義の可能性を夢見た人でもあります。




さらに、『動物化するポストモダン』やその続編である『ゲーム的リアリズムの誕生』では、コミックやアニメ、ラノベ、ゲームといったサブカルの世界、オタクの世界を極め、シリアスで好意的な論評を行ってきた人でもあります。



その東さんが、今メタゲームを終わらせ、ネット社会の限界を超克する方法を模索しています。同時に、データベースを極めつくした内部の人間しか発言を認めないような、閉鎖的なオタクの世界、村人の世界にも別れを告げようとしているのです。

この意味で、『弱いつながり』は紛れもなく、東さんの一番新しい本。アップデートされた思想書でもあるのです。

もちろん、こうした過去の研究からそのまま引き継がれた発想もあります。デリダ論の中で展開された誤配性はその最たるものですが、その主体はエクリチュール(書かれたもの)から、リアルに触れる観光やモノの世界へとシフトしています。

さらに、ジャン・ジャック・ルソーの世界観、とりわけ人間の動物性、「憐れみ」によりポジティブな価値を見出そうとしています。
 

   ひとは国民であるまえに個人であり、国民と国民は言葉を介してすれちがうことしかできないけれど、個人と個人は「憐れみ」で弱く繋がることができる。そこにこそ、二一世紀のグローバル社会の希望があるのです。(pp110-111)


東さんの多くの本を読んでいる人ほど、その変化の大きさに気づくはずです。そこには、3・11以降の世の中の様々な変質に対する失望感と、新たな試みの成果が反映されています。大学はもはや言論の自由を保証する場ではなくなり、かえってその妨げとなる場となった。だから、大学を辞めて、自ら出版社を作り、さらに言論の場であるカフェを作りながら、そこで誤配性のある「弱いつながり」の場をつくろうとする―そんな今日に至る変化を伝える本です。

そのすべての変化が記された『弱いつながり』は、繰り返しになりますが、思想家東浩紀の一番わかりやすく、一番新しい本です。

ようこそ、東浩紀の世界へ!

kindle版


関連ページ:
東浩紀・桜坂洋『キャラクターズ』
東浩紀『セカイからもっと近くに』
東浩紀『クリュセの魚』
東浩紀編『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(1) (2)  (3) (4)


書評 | 00:10 | comments(0) | - | - |
平野啓一郎『透明な迷宮』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略


 

平野啓一郎の最新中短編集『透明な迷宮』(新潮社)は表題作を含む六つの物語からなっている。何も隠してはいない。すべては明晰に言葉によって示されている。しかし、いずれの物語も謎めいていて、真理の奥行きを感じるがゆえに、一度読んでも何かしら見落としがあるのではないか、早急な間違った解釈をしてしまったのではないかと、目を凝らし再読せずにはいられない。そのような珠玉の中短編から構成されている。一冊の本を編み、ページを埋めるための、抱き合わせ的な物語が一つもないのである。

全体を通じてまず感じ取られるのが、多様かつ周到な場所の設定である。第一の物語「消えた蜜蜂」は山陰地方のとある小村。第二の物語「ハワイに捜しに来た男」の主人公は、オアフ島からハワイ島にやってきたばかりだ。第三の物語「透明な迷宮」は、ブダペストと日本(東京)で展開する。第四の物語「family affair」は関門海峡に近い福岡県のある町周辺で展開する。第五の物語「火色の琥珀」はとある地方と場所はぼかされているが、京都や小豆島など主人公とその家族の関連する場所は示され、漠然と地域の限界を暗示している。最後の物語「Re:依田氏からの依頼」は日本(成田および東京周辺)とパリで展開する。明確な場所の設定、漠然とした場所の設定の双方が、主題との関わりで、きわめて意識的に選択されているのである。

語りのスタイルも、物語を個別化し、個性化するために、細かく工夫されている。「消えた蜜蜂」は「僕」で始まる一人称、主題となる人物はKと呼ばれている。「ハワイに捜しに来た男」は「俺」による1人称だが、名前は示されていない。「透明な迷宮」は三人称で、岡田、ミサと人物の名前が一応示されている。「family affair」は三人称体で、古賀惣吉、登志江、ミツ子など、人物の名前が明示されている。「火色の琥珀」は「私」による一人称で、やはり人物に名前がない。「Re:依田氏からの依頼」は、地の文は三人称で、依田総作、大野などの名前が示されている。後半出て来る作中作は、依田氏の依頼に応えた大野の作品で、「私」による一人称体だが、人物の名前は明示されている。一人称はすべて男性で、「僕」「俺」「私」という異なる言葉で示されることで、作品世界の雰囲気、イメージは意識的に塗り分けられているが、この点に関して、著者はかつて次のように語ったことがあった。その一部を引用しよう。
 

 日本語の一人称代名詞は、極めて相対的なものである。それは、他者との関係に於いて、前述のように「私」、「僕」、「俺」、「自分」と、様々に形を変えるものであり、逆に言うと、他者の存在を欠いた場所では決定不可能である。私が心中で「俺」という時、私は語り掛けるべき相手である「他者なる私」への遠慮の要らない親しさによって、その一人称代名詞を用いることが出来、まさしくその親しさの故に、私は、「私」という一人称代名詞に違和感を覚える。
 こうした一人称代名詞とその本人との結びつきの稀薄さは、何時、いかなる場所で、いかなる他者を前にしても、自分自身は「I」である英語や「JE」であるフランス語にはない日本語独特の性質である。

(『モノローグ』「日記のための日記 一人称代名詞を巡る考察」pp314-315)


日本語においてのみ区別された「僕」「私」「俺」といった一人称代名詞は分人化の指標であり、翻訳不可能な世界である。その選択は、語りうるものとそうでないものを選別し、物語世界の輪郭を規定するのである。

以下の一段落は物語の核心に触れるので、本書の購入購読を予定している方は、現時点ではスキップして読むことを推奨しますが、念のため実作を読まずして理解できないように、意図的に細かい説明を省いた不親切な書き方をしてあります。

前置きが長くなったが、六つの物語に共通しているのは、出来事の暴力性である。そこに他者が介在する場合もあるが、必須ではない。自らの選択による行為が呼ぶ暴力性は、むしろ運命とか性(さが)とか呼ばれるものであろう。著者が多用する「分人」の概念でそれぞれを説明すれば次のようになる。「消えた蜜蜂」における、他人の筆跡を忠実にコピーする類まれなる能力を持った男を運ぶ悲劇的な運命の力−それはまさにエクリチュールによる際限のない、分人化の物語である。三島由紀夫の「金閣寺』や『仮面の告白』を髣髴とさせる「火色の琥珀」の中の、女性を愛することも、男性を愛することもできず、火のみを愛する男のたどる運命も同様だ。「ハワイに捜しに来た男」では依頼を果たそうとする分人が、あるところからいつのまにか本人とすり替わってしまうのである。「透明な迷宮」では、ブダペストで強いられた性行為のトラウマをカップルはかかえることになる。だが、それを乗り越えるための行為は次の問題を生む。一人の女性を愛しているはずの分人が二つに分裂してしまうのである。ブダペストがドナウ川西岸のブダとペストからなる双子都市であるのと同様に、岡田が愛するミサもまた美里と美咲との間に引き裂かれるのである。「familiy affair」では、父親の遺品整理の際に発見された一丁の拳銃が、家族の肖像を浮き彫りにし、ちょうどヒッチコックの『ハリーの災難』のように、その始末を巡って、家族を、女たちを翻弄する。どこにでもいそうな田舎の普通のおばさんたちが、想定外の分人化へと駆り立てられることになる。「Re:依田氏からの依頼」では、小説家大野が再会した劇作家、依田はある不幸な出来事に出会い、その顛末をまとめるようにと依頼される。書かれた物語を、依田氏は自らの分人として受け入れるのだろうか。ここでも、「透明な迷宮」における姉妹の代補の問題が、涼子とその姉、未知恵の対となって、幽霊のように出没、再帰する。ちなみに、大野という人物は『あなたが、いなかった、あなた』に所収された『フェカンにて』にも登場する。両者は、ショパンとドラクロワを描いた小説の著者であるという点で、共通点を持ち、さらに今作では著者の三島由紀夫への傾倒や演劇への関わりをも共有する形となっている。それをモデル小説とするのは、余りに粗雑な考え方である。大野とは、リアルな所与のディテールを散りばめることで、そうした誤解を逆手にとって、その上でフィクションを構築するための模像(シミュラークル)なのである。

平野啓一郎が、人間論の新たな認識フレーム、そして文学の創作上の導きの糸として、多用している「分人」とは、別の言葉で言えば、ドゥルーズ=ガタリの生成変化、n個の性を、個人の分節の視点からとらえたものである。人や、物との出会いとともに、人の行動は変化し、想定外の方向へと進むこととなる。その衝動的な力が、数々の悲劇や悲喜劇を生むことになる。そのようなものとしての、Kの蜜蜂=生成変化、和菓子店主の炎=生成変化。

『透明な迷宮」は、愛の物語であるが、単純な人と人の愛の物語ではない。人ならざるもの、あるいは人の分かれたものへの愛と絆の物語である。そして、世界に偏在するこれらのドラマは、人間が人間のみならず人ならざるものへと持つ関係性や情念の中で、ずっと透明な迷宮を作り続けてきたのである。私たちが、六つの物語のディテールに、繰り返し、目をこらさずにはいられないのはそのためである。

『滴り落ちる時計たちの波紋』『あなたが、いなかった、あなた』のような、実験的なスタイル上の試みはもはやなく、オーソドックスな物語の形でまとめられた『透明な迷宮』は、ボルヘスの『伝奇集』にも並びうるような、平野文学の最高レベルの達成である。
 

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