福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)は、科学エッセイの名著である。年間何冊か出会う程度の良書ではない。内容だけでなく、文体も素晴らしい。日本語で書かれた科学をめぐる文章の中で、十指に入る名著の中の名著である。そして、これから生命科学の道をめざそうとする若い人々にとって、格好の入門書ともなっている。
この本の文章は、表題である生物と無生物をあいだの諸研究にスポットライトを当てるという単純な構成ではない。まず、研究者としての著者の生涯の上で、大きな意味を持ったいくつかの場所の素描が来る。それは優れた文学者に特有の精緻なディテール描写と詩的なリズムをともなった文章である。
クイーンズボローブリッジを通り過ぎた直後、川沿いに目をやるとそこには赤いレンガ外壁の古びた低層建造物の一群がある。サークルライン船の乗客のほとんどは注意を払うこともない。もちろん、それがどのような施設をなのかを示す手がかりは何も建物に掲げられてはいない。
しかし、この建物の廊下を、かつてヒデヨ・ノグチは慌しく駆けていただろうし、オズワルド・エイブリーは影のように音を消して歩いていた。ロドルフ・シェーンハイマーもしばしばここを訪れていたはずだ。そして、そのような偉人たちとは較べるべくもないが、私もまたある一時期、この場所に属していたのである。p15
そして、複数の科学者の列伝とその研究内容の簡潔な紹介が来る。著者の目が向けられるのは、ノーベル賞を与えられるような、世界的に評価や賞賛の的となった研究を発表したサング・ヒーロー(sung hero)だけではない。ワトソンとクリックの前に、遺伝子におけるDNAの重要性を生涯を賭けて研究し、彼らの成果を準備しながら、日陰の存在で終わったエイブリーのようなアンサング・ヒーロー(unsung hero)の存在にこそ、むしろこだわり続けるのである。大きな評価を受けるサングヒーローの陰には、優れた研究を行いながら、生前最後の発表の段階まで至らなかったり、タッチの差で発表が遅れ、鳶に油揚げをさらわれたかたちの多くのアンサングヒーローの存在がある。氷山の一角のようなサングヒーローの存在は、無数のアンサングヒーローの研究の存在によって支えられ、生命研究の進歩は、サングヒーローとアンサングヒーローの系譜と、あたかもDNAを構成する二重螺旋のように、脈々と連鎖し続けているのである。著者は、科学の進歩と科学者の生涯が絡み合うこの謎解きの過程を、スリリングな筆致で、見事に描き出している。
本書のもう一つの優れた点は、生命科学の研究過程におけるいくつもの躓きの石、たとえばコンタミネーションや対照実験、そして純度の問題といった、一般人が誤解しやすい生命科学研究の手続き上の問題に関して、わかりやすい説明を加えていることである。この手続きのどこかをないがしろにした場合、STAP細胞をめぐる騒動のような事態が生じてしまうのである。そういう意味でも、他の分野の科学とはいささか異なる生命科学に関するリテラシーを身につけるための親切な入門書となっている。
もちろん、研究者にとっての、躓きの石は、何も科学研究上の手続きの厳密さだけとは限らない。同様に、問題になるのは、研究機関での身の置き方やステイタス、収入の問題である。博士号を取得しても、場が得られなければ、満足できる研究を行うことは不可能である。
実際、思うに任せぬ実験に日夜明け暮れ、ようやく博士号にたどり着いたはよいが、先の視界はあまり開けていないのが普通だ。研究者としての就職口はごく限られている。幸運なら大学の助手のポジションにありつける。ようやく好きなことをしてお金をもらえるようになる、と思ったら大きな誤りだ。お金をもらえるようになるのは事実だが、それ以外はまったく違う。
助手に採用されるということはアカデミアの塔を昇るはしごに足をかけるということであると同時に、ヒエラルキーに取り込まれるということでもある。アカデミアは外からは輝ける塔に見えるかもしれないが、実際は暗く隠微なたこつぼ以外のなにものでもない。講座制と呼ばれるこの構造の内部には前近代的な階層が温存され、教授以外はすべてが使用人だ。助手ー講師ー助教授と、人格を明け渡し、自らを虚しくして教授につかえ、その間、はしごを一段でも踏み外さぬことだけに汲々とする。雑巾がけ、かばん持ち、あらゆる雑役とハラスメントに耐え、耐え切った者だけがたこつぼの、一番奥に重ねられた座布団の上に座ることができる。古い大学の教授室はどこも似たような、死んだ鳥のにおいがする。pp84-85
さらに、特定のテーマに関する新たな研究を発表し、評価するシステムが、実は狭い社会の中で行われ、結果としてライバルに評価を仰ぐしかなくなるという人間社会のリアルまで描き出される。単に生命科学探求に関わる研究者の夢を、高らかに謳いあげた書物ではないのである。
ウイルスは、自己増殖機能を持つという意味では、生命であるが一方で物質でもあるという二重の性格より始めながら、生物と無生物の区別をめぐり思索をめぐらせ、「原子はなぜこんなに小さいのか」というシュレーディンガーの問いを、「生物はなぜこんなにも大きいのか」と言い換える中で、著者はやがて自身の著作のキーワードである動的平衡の概念へとたどりつく。動的平衡とは、私たちの身体がそうであるように、構成する物質は短期間ですっかり入れ替わりながらも、外側からはその変化がまるで感じられないような平衡状態の維持のことである。動的平衡を海辺に築かれた砂の城にたとえながら、著者は次のような文章で鮮やかに描き出している。
砂の城がその形を保っていることには理由がある。眼には見えない小さな海の精霊たちが、たゆまずそして休むことなく、削れた壁に新しい砂を積み、開いた穴を埋め、崩れた場所を直しているのである。それだけではない。海の精霊たちは、むしろ波や風の先回りをして、壊れそうな場所をあえて壊し、修復と補強を率先して行っている。それゆえに、数時間後、砂の城は同じ形を保ったままそこにある。おそらくは何日かあとでもなお城はここに存在していることだろう。
しかし、重要なことがある。今、この城の内部には、数日前、同じ城を形作っていた砂粒はたった一つとして留まっていないという事実である。かつてそこに積まれていた砂粒はすべて波と風が奪い去って海と地にもどし、現在、この城を形作っている砂粒は新たにここに盛られたものである。つまり砂粒はすっかり入れ替わっている。そして砂粒の流れは今も動き続けている。にもかかわらず楼閣は確かに存在している。つまり、ここにあるのは実態としての城ではなく、流れが作り出した「効果」としてそこにあるように見えているだけの動的な何かなのだ。p153
野口英世はかつて、世界でもスーパースター的な存在であったが、その後その研究の結果は誤りの集積であることが明らかになり、今では単なる女たらしの大酒のみとして、海外では名を残すのみである。その一方で日本では、昔ながらの美談に飾られた伝記が今でも出版され、あまつさえ千円紙幣にまでなっているのを見るにつけ、この国全体に科学リテラシーが浸透するにはまだまだ多くの努力と過程が必要であるだろう。本書の冒頭で、著者は日本で美化されすぎたこの偶像に対する懐疑を読者に抱かせることから始める。科学の研究は、ルールを持ったゲームのようなものであり、ルールからの逸脱は、いかなる理由があろうと許されるものではない。メディアによって日々量産される似非科学の跋扈に対する免疫がなく、人間的・人情的な理由で小保方チームの積極擁護に回っている人は、まず本書を読み、生命科学の研究のいろはを身につけるべきではなかろうか。