堀川アサコ『幻想郵便局』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
タイトルに惹かれて堀川アサコ『幻想郵便局』(講談社)を買って読んでみた。おそらくファンタジーであろうが、幻想郵便局とはどんなものなのか、何を「幻想」と呼ぶのか、そのコンテンツに興味があったからである。
幻想は空想と同一視されやすいが、「物語」の中の「幻想」は空想とは区別される。たとえば、有名なタレントと恋中におちるとか、ビジネスで成功を収め巨富を得るとかのストーリーを私たちが思い描けば空想であるが、それをそのまま小説にしても、あくまでリアルなストーリーの範疇に収まり、「幻想」と呼ばれることはない。物語の中の「幻想」とは、この世ならぬ世界との遭遇を意味する。その入り口が現実的な郵便局であるという点が気になったのである。何の入り口か?未来と過去の時空間の入り口、別の宇宙への入り口、『不思議の国のアリス』のような全く別世界への入り口…だが、最もありそうなのは、あの世とこの世を結ぶ存在としての郵便局である。
[物語冒頭のあらすじ]
想像力をめぐらすまでもなく、登場人物の会話の中で、早々に、この郵便局がこの世とあの世の境界にあり、真理子は実は死んだ人であり、この郵便局は生者も死者も呼ばれた人しか来られないことが明らかにされてしまう。
何だ、ポジティブ霊界ものか?とそこで読むのを止めそうになった。ここで言う「ポジティブ霊界物」とは、ホラー小説とは反対に死者の霊の恐ろしさよりも、この世で果たせなかった親しい人とのコミュニケーション不全を、霊の世界が後から補完する形で、人々を幸せにするという類の物語である。要するに、物語をこの世の制約から解放して、あの世の裏技でつじつまを合わせるというご都合主義の物語である。それはしばしば奇蹟を乱発させ、安易なハッピーエンドに流れやすい。また異世界は、そのステイタスをはっきりさせてしまった段階で、この世の不条理の隠喩であることを失ってしまう。あの世的な世界では、主人公は何ら危険を犯すことなく、死者の力を活用して、この世でできないことを可能にしてしまう。それは善意の支配する予定調和の世界であるのが常だ。
『幻想郵便局』にも生者と死者のコミュニケーションをはかる「いい話」的な部分はあるが、著者はその道を取り続けることはない。ミステリーの要素、悪の要素が導入される。真理子は、複数の男性と交際し、その結果殺されることとなったが、事件は未解決のままである。後ろから絞め殺されたため、犯人が誰かわからず、たたることさえできないのである。そして、他にも殺された女性がいて、犯人はアズサの近くにいるようだ。霊界の都合で動く郵便局自体、アズサにとってリスクはないが、この世の人間の都合は別である。もう一つの争いの種がある。登天郵便局は、古い社であった狗山比女神社を取り壊した跡地に作られたのであり、狗山比女と郵便局は地権争いのただ中にあり、気性の激しい女神によって郵便局は以前ひどい目にあったことがあり、どうやら「探し物」もそれにからんだものであるらしいのだ。つまり、霊界の都合、人間の都合、神界の都合、それぞれにバラバラに動き、三つ巴の先の読めない展開となる。これによって、郵便局とアズサの予定調和の世界は崩され、後半物語が加速する原動力となっている。
一体誰が真理子を殺したのか?郵便局と狗山比女の争いの行方は?
『幻想郵便局』が、『千と千尋の神隠し』同様、二つの世界を行き来する中での、自分探しの物語をベースにしながらも、それを超える魅力を持っているのは、<悪>と<神>という善意の世界を相対化する二つの原理を物語の仕組みの中に備えているからである。
PS『幻想郵便局』の中で隣町にあるとされる、同じような働きを持った映画館を描いた続編が『幻想映画館』(単行本の『幻想電氣館』を改題)
タイトルに惹かれて堀川アサコ『幻想郵便局』(講談社)を買って読んでみた。おそらくファンタジーであろうが、幻想郵便局とはどんなものなのか、何を「幻想」と呼ぶのか、そのコンテンツに興味があったからである。
幻想は空想と同一視されやすいが、「物語」の中の「幻想」は空想とは区別される。たとえば、有名なタレントと恋中におちるとか、ビジネスで成功を収め巨富を得るとかのストーリーを私たちが思い描けば空想であるが、それをそのまま小説にしても、あくまでリアルなストーリーの範疇に収まり、「幻想」と呼ばれることはない。物語の中の「幻想」とは、この世ならぬ世界との遭遇を意味する。その入り口が現実的な郵便局であるという点が気になったのである。何の入り口か?未来と過去の時空間の入り口、別の宇宙への入り口、『不思議の国のアリス』のような全く別世界への入り口…だが、最もありそうなのは、あの世とこの世を結ぶ存在としての郵便局である。
[物語冒頭のあらすじ]
安倍アズサは、短大卒業後就職浪人の身であった。そんな彼女にアルバイトの連絡が入った。行き先は、狗山という山の上の登天郵便局。山と言っても、田んぼの中の小高い丘のような山である。自転車で郵便局に向かう途中、美人の女性に郵便局への道を聞かれ、そのまま後ろに乗せて案内する。携帯を忘れたのに気づき、途中のドライブインから電話しようとするが、そこは廃墟となった気味の悪い場所であった。そこで出会った大男が、郵便局長の赤井であった。廃墟となったドライブインは心霊スポットとして有名であったが、郵便局の物置きとして使われていた。赤井は、そこで物探しをしていたのだが、アズサが雇われたのも、特技に「探し物上手」と書いたからであった。
局長の軽トラックが行き着いた先の郵便局は、木造一部二階建て築十年ほどの平凡な建物でアズサをがっかりさせた。局長以外に、ラーメン好きの小池さんみたいな青木、一帯の地主でもある老人の登天、そして姿が見えないがもう一人鬼塚という人が局員として働いているらしかった。
しかし、しだいにアズサは変な様子が気になり始める。「探し物」とは木簡であり、そこには起請文が書かれているという。アズサが自転車に乗せた女性の真理子がそこへ現れるが、よく見ると髪も服も焦げおり、どういうわけか、彼女は郵便局の庭に入れてもらえなかったのである。そしてここでの郵便配達とは、鼎(かなえ)の火の中に郵便を入れることであった。その中に預かった紙幣を燃やしだしたが、その紙幣は実はオモチャであった。色とりどりの花で、この世のものとも言えない美しさの庭には、人々が行列をなしていて、進むうちに風景に溶け入るように消えてしまった。
想像力をめぐらすまでもなく、登場人物の会話の中で、早々に、この郵便局がこの世とあの世の境界にあり、真理子は実は死んだ人であり、この郵便局は生者も死者も呼ばれた人しか来られないことが明らかにされてしまう。
何だ、ポジティブ霊界ものか?とそこで読むのを止めそうになった。ここで言う「ポジティブ霊界物」とは、ホラー小説とは反対に死者の霊の恐ろしさよりも、この世で果たせなかった親しい人とのコミュニケーション不全を、霊の世界が後から補完する形で、人々を幸せにするという類の物語である。要するに、物語をこの世の制約から解放して、あの世の裏技でつじつまを合わせるというご都合主義の物語である。それはしばしば奇蹟を乱発させ、安易なハッピーエンドに流れやすい。また異世界は、そのステイタスをはっきりさせてしまった段階で、この世の不条理の隠喩であることを失ってしまう。あの世的な世界では、主人公は何ら危険を犯すことなく、死者の力を活用して、この世でできないことを可能にしてしまう。それは善意の支配する予定調和の世界であるのが常だ。
『幻想郵便局』にも生者と死者のコミュニケーションをはかる「いい話」的な部分はあるが、著者はその道を取り続けることはない。ミステリーの要素、悪の要素が導入される。真理子は、複数の男性と交際し、その結果殺されることとなったが、事件は未解決のままである。後ろから絞め殺されたため、犯人が誰かわからず、たたることさえできないのである。そして、他にも殺された女性がいて、犯人はアズサの近くにいるようだ。霊界の都合で動く郵便局自体、アズサにとってリスクはないが、この世の人間の都合は別である。もう一つの争いの種がある。登天郵便局は、古い社であった狗山比女神社を取り壊した跡地に作られたのであり、狗山比女と郵便局は地権争いのただ中にあり、気性の激しい女神によって郵便局は以前ひどい目にあったことがあり、どうやら「探し物」もそれにからんだものであるらしいのだ。つまり、霊界の都合、人間の都合、神界の都合、それぞれにバラバラに動き、三つ巴の先の読めない展開となる。これによって、郵便局とアズサの予定調和の世界は崩され、後半物語が加速する原動力となっている。
一体誰が真理子を殺したのか?郵便局と狗山比女の争いの行方は?
『幻想郵便局』が、『千と千尋の神隠し』同様、二つの世界を行き来する中での、自分探しの物語をベースにしながらも、それを超える魅力を持っているのは、<悪>と<神>という善意の世界を相対化する二つの原理を物語の仕組みの中に備えているからである。
PS『幻想郵便局』の中で隣町にあるとされる、同じような働きを持った映画館を描いた続編が『幻想映画館』(単行本の『幻想電氣館』を改題)