つぶやきコミューン

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出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 Ver.1.02

 

  冒頭に述べたように、この本は、僕が半世紀の間に、見たり聴いたり読んだりして、自分で咀嚼して腹落ちしたことをいくつかとりまとめたものです。この本の準備のために読んだ本は一冊もありません。それが参考文献を特に明示しなかった理由です。(出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』p333)

 


ライフネット生命CEOの出口治明氏の『仕事に効く教養としての「世界史」』祥伝社)は、最近の日本人によって書かれた本としては最も優れた世界史の概説と言える一冊です。

出口治明氏と言えば、HONZでも優れた書評をほぼ毎週のように書かれています。わずかな行数の中に密度の高い情報を簡潔に表現されることで、非常に高い教養の持ち主であることはわかっていましたが、この本は単なる教養人のたしなみレベルのものではありません。

どのページをとってもわかりやすく書かれているだけでなく、ストレートに身体に入ってくるのです。抵抗感なく身体に入ってくるということは、単なる借り物の知識ではなく自家薬籠中のものとして咀嚼されているということです。この本に関しては、ここはAという本、ここはBという本という風に、ネタとなる本のコラージュであるという印象を全く与えないのです。

それは、出口氏が「歴史」というものに対し、はっきりとした批判的態度を確立しているからです。まずはその紹介から始めましょう。

出口治明の歴史観

「はじめに」の中で、出口氏は歴史そのものに関しては一つしかないという考え方を提示しています。
 

 一部の人は、よく民族の数だけ歴史があると言ったりしますが、その考え方は間違っています。歴史の正しい姿はやはり一つなので、丁寧に文献を読み、いろいろな自然科学の手法を駆使することによって、たとえば土器や花粉や地層を調べたりして、いろいろなことがわかってきて、より正しい姿に近づくことができる。それが歴史なのだという気がします。p6


もちろん、実際に書かれた歴史の記述は多種多様です。しかし、それらが書かれる時の脚色の法則性を見出すことで、その中から真実に近づく方法を得ることができるのです。たとえば、王朝が変わったら前の王朝の記録を残すという易姓革命思想下の中国では、次のような法則性があります。
 

 ところで、この易姓革命の考え方に立って歴史を残すと、困ったこともたくさん生じてきます。前の王朝の最後の王様を可能な限り悪く書く。そう書かないと新しい王朝の正当性が担保できないので、最後の王様はだいたいみな、悪政を行い美女にうつつをぬかして滅んでいきます。
(・・・)前の王朝の最後の王様は全部悪くなるのです。悪政を行ったから王朝が替わったのだというロジックですから、前の王様が立派だったら、この論理が成立しなくなるのです。pp48-49


多くの大がかりな歴史は、国家によって遺され、そこには国家や王朝の正当性の根拠が求められることになります。史実に基づいたフィクションとも言える史書から歴史そのものを読み取るには、この正当化のバイアスを取り除いて見る必要があるということです。

ある地域で王朝が入れ替わる時、正当化の論理が求めらるのと同様、植民地支配で優位に立った列強の国々もまた正当化の論理を歴史の中に見出そうとします。

 

 

 アヘン戦争が終わり、1858年にインドが大英帝国の植民地になって、中国が列強に切り取られはじめた19世紀に、西洋は何を考えたのでしょうか。もはや地球上に、俺たちに対抗する勢力はない。俺たちがナンバーワンであるということだったと思います。
そうするとヨーロッパの列強は、このようなことも考えはじめます。西洋が優れていて、東洋は遅れているという19世紀のいまここにある現実は、じつは歴史的にも証明できるのではないかと。ちょうどプロイセンを中心に、近代的な歴史学が生まれようとしていた時期に当たります。東方には、古くからペルシアの諸王朝や、唐や宋、イスラム諸王朝そしてモンゴル帝国などの強力な王朝や高い文明がありましたが、それらに対する評価よりもローマ教会中心の西方の文明を優位に置く方向で、歴史の流れを組み立てたいと思う。それは世界の勝者としては当然の欲求であったでしょう。
   彼らにしてみれば十字軍がエルサレム奪還を目指してパレスティナに遠征したとき、その文化や文明の高さに目が眩んだことなどは、あまり記憶に止めたくなかったことでしょう。人間はいつの世も見たいものしか見ない動物なのです。
こうして19世紀のヨーロッパの人々がつくりあげた西洋史観、「理想とする」世界史像が、われわれの世界史のベースになってしまいました。

pp316-317


過去様々な歴史の教説が語られてきましたが、それらからいったん解放されて、歴史を自由に語れるためには、まず以上のような歴史書に対する批判的態度の確立が必要不可欠なのです。

これまで私たちが読んできた歴史の教科書や参考書の記述が断片的でちぐはぐに見えてしまうのはページ的な制約もあることながら、様々な教説から自由になりきれず、あるいは何人もの人の考えの寄せ集めで、一人の人間の頭で全体を考え抜いていないためではないでしょうか。

内と外

歴史を見る上での様々な観点を、出口氏は本書の中で提示していますが、その中でも最も印象的なのが、冒頭の日本史の見方の中で示された「内」だけでなく「外」から見るという視点です。つまり世界史から分離された日本史は存在しないということです。

 

 

 

 

 しかし、日本が歩いてきた道や今日の日本について骨太に把握する鍵はどこにあるかといえば、世界史の中にあります。四季と水に恵まれた日本列島で、人々は孤立して生きてきたわけではありません。世界史の影響を受けながら、今日まで日本の歴史をつくってきたのです。
世界史の中で日本を見る、そのことは関係する他国のことも同時に見ることになります。国と国との関係から生じてくるダイナミズムを通して、日本を見ることになるので、歴史がより具体的にわかってくるし、相手の国の事情もわかってくると思うのです。すなわち、極論すれば、世界史から独立した日本史はあるのかと思うのです。
p18


こうした視点でもって、ペリーの浦賀来航を見れば、捕鯨船の補給基地などという位置づけでは到底なかったことがわかります。

同様に、相互にたえず権力者が行き交い、支配―非支配の関係にあったフランスとイギリスも、分離することによってではなく、両方を合わせ鏡のようにとらえることで、初めて首尾一貫した歴史の論理の糸も見えてくることになります。各国史を分離して学ぶことが不毛なのは、相互関係を両方の視点で同時に見るという一番重要な視点が欠落しているからです。

 このようなイングランドとフランスの関係を見ていくと、この二つの国は一体として見るほうが、はるかに歴史がよくわかる気がします。
これは冗談のような話ですが……牛を意味する言葉の中でビーフはフランス語起源であり、オックスとかカウはアングロ・サクソンの起源である。これはノルマン人が支配階級になったので、彼らにとって牛は食べるものだからビーフ、彼らの支配下に置かれたアングロ・サクソン人にとっては、牛は飼って世話をするものだから、オックスとかカウという言葉が残ったと言われたりします。

p193


鏡としての歴史

歴史を学ぶことに価値があるのは、同じような出来事の反復の中で、自分たちの置かれた時代を相対化するのに役立つためでもあります。戦後の日本の歩みを、世界史の中で見てみれば、高度成長の時代を基準として「失われた20年」を語ることがいかにナンセンスかが理解できるというのが出口氏の主張です。どの時代、どの地域をとっても、本当の最盛期というのは、20〜30年しか持たないものなのです。
 

 世界の歴史を見ていくと、豊かで戦争もなく、経済が右肩上がりで成長していく本当に幸せな時代は、じつはほとんどないことがわかります。その意味で、戦後の日本はもっと高く評価されていいと思います。
人口が一貫して増え、経済成長が続き、戦争もなく、ほぼ10年ごとに所得が倍増するような豊かな時代は世界史の中でもほとんど例がありません。これほどいい時代がいつまでも続くと考えるほうがどうかしている。ですから、いまの苦しさは、むしろ日本が普通の国に戻ったのだ、と考えるほうがいいと思います。
p323


さらにもっとリアルなデータや大胆な主張を終章で、出口氏は次々に提示するのですが、それは読者が本書を実際にひもとかれた時の楽しみにとっておきましょう。

なるべく具体的な歴史の内容には触れず、出口氏の視点を中心に紹介してきましたが、本書は以下のように構成されています。
 

はじめに なぜ歴史を学ぶのか
第1章 世界史から日本史を切り出せるだろうか
―ペリーが日本に来た本当の目的は何だろうか?
第2章 歴史は、なぜ中国で発達したのか
―始皇帝が完成させた文書行政、孟子の革命思想
第3章 神は、なぜ生まれたのか。なぜ宗教はできたのか
―キリスト教と仏教はなぜ誕生したのか
第4章 中国を理解する四つの鍵 
―難解で大きな隣国を誤解なく知るために
第5章 キリスト教とローマ教会、ローマ教皇について 
―成り立ちと特徴を考えるとヨーロッパが見えてくる
第6章 ドイツ、フランス、イングランド 
―三国は一緒に考えるとよくわかる
第7章 交易の重要性 
―地中海、ロンドン、ハンザ同盟、天才クビライ
第8章 中央ユーラシアを駆け抜けたトゥルクマン
―ヨーロッパが生まれる前の大活劇
第9章 アメリカとフランスの特異性
―人工国家の保守と革新
第10章 アヘン戦争
―東洋の没落と西洋の勃興の分水嶺
終章 世界史の視点から日本を眺めてみよう
おわりに


この本は、広い時間と空間をカバーする十の大きなテーマによって構成されています。そこで語られている多くの事実は、高校時代世界史の教科書で学んだのとほとんど同じかもしれません。しかし、ただ単語の羅列であったものが、どのようなものであったのか、そしてなぜそのようなことが起こったのか、因果の糸が手に取るように浮かび上がります。

歴史とは、地球環境の変化を背景にした、人々の営みの集積です。何を求めて彼らは、陸路、あるいは海路はるばるその場所まで出かけたのか、なぜ戦わなければならなかったの、なぜ一方は勝ち、一方は敗れたのか、なぜある国は起こり、なぜ滅んだのか。

『仕事に効く教養としての「世界史」』は、今まで事実の羅列にすぎなかった歴史上の出来事や人名・地名・用語をありありとした実感へと落とし込み、歴史の因果の糸を目に見えるようにしてくれる名著なのです。

書評 | 22:17 | comments(0) | - | - |
原田曜平『ヤンキー経済』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 


           Kindle版
人は一定期間古い時代の固定観念で、世の中を見る傾向があります。自分たちの時代の考え方が今でも有効であるように感じて、今の若者を語ったり、ヤンキーを語ったりするのです。そして、そんな固定観念に基づいて、ビジネスモデルを脳内で作り上げ、外し続けてはなぜだろうと首をかしげるのです。

矢沢永吉の『成り上がり』に代表されるかつての都会志向、上昇志向で、社会に対して反逆的な性格を持っていたヤンキーとは異なる層が地方で、そして郊外で形成されつつある―そんな社会の盲点を見事に描き出したのが、博報堂で若者研究の中心となっている原田曜平氏の『ヤンキー経済  消費の主役・新保守層の正体(幻冬舎新書)です。

マイルドヤンキーとは何か?

この新しい層のことを原田氏はマイルドヤンキーと呼んでいます。彼らにあるのは、強い地元志向です。地元と言っても、半径五キロ程度の狭い範囲であり、小学校や中学校の同級生が交友関係の中心となります。都会へ出て名を上げメジャーになりたいという上昇志向もなければ、都心で散財したいとも考えず、最大の楽しみはイオンなどのショッピングモールへ出かけること。

マイルドヤンキーは、かつてのヤンキーのように社会にたてついたりすることを嫌い、物腰も丁寧で、いい人が多いようです。そこそこの給料で、今の快適な状態を維持できればよいという現状維持路線が彼らのモットーなのです。
 
  そんな36歳になっても消えることのないヤンキー魂を持つK君は、20歳前後の今のヤンキーたちと地元で付き合っているのですが、「最近の若者はよくわからん」と首をかしげています。
 
  K君がかつて行った抗争について彼らに話しても、まったく憧れられないばかりか、「た、大変ですね」とドン引きされ、「若いうちは暴走しろ」といくら説いても、「ルールは破りたくないっす」「人には迷惑かけたくないっす」「警察に捕まるのは嫌っす」と、やりたくないの一点張り。
p15

マイルドヤンキーは、電車での移動を嫌います。彼らにとっての最大の足は、車なのですが、それも高級車やスポーツカーではありません。多くの友人たちと移動時間を楽しむことのできるスペースを持ったミニバンこそがお気に入りの車なのです。

マイルドヤンキーはそれほどITに詳しいわけではありません。ツイッターやFacebook、LINEを楽しむものの、それは既知の友人関係を楽しむものであって、未知の世界へと足を踏み入れるための手がかりとするものではないのです。

マイルドヤンキーは、他の層に比べ、お酒や煙草、そしてパチンコを中心としたギャンブルとの親和性が高い層でもあります。アニメ鑑賞が趣味ではあっても、オタクとは違うのは、パチンコやパチスロで初めて『新世紀エヴァンゲリオン』や『交響詩篇エウレカセブン』を知ったことがきっかけであったりします。このように、お金を使わない若者像一般とは異なり、地元中心ではあっても消費への意欲の高いのがマイルドヤンキーなのです。

優良な消費者層であるにも関わらず、マイルドヤンキーと呼ばれるにこれまで光が当たりにくかったのは理由があります。彼らはほんの数キロ、電車で十数分程度の遠出でさえも嫌うので、わざわざ都心へ出かけての調査協力は、たとえ多額の謝礼が払われようと辞退する傾向があり、それゆえ調査の対象から外れてきたのです。
 
  そこで若者研に頼み、地元族の友達に会社のある東京の赤坂まで来てくれるよう交渉してもらったのですが、全員がNG。理由を聞くと、「地元を出たくない」「赤坂が怖い」「電車に乗るのが嫌」だから。普段から地元を離れないで生活を送る地元族からすると、電車に乗って違う土地に行くのも億劫だし怖いし、東京の赤坂なんて何をされるかわからない知らない場所だし、とにかく謝礼をいくらもらっても嫌だ、とのことでした。p153

『ヤンキー経済』の第二章では、ヤンキーがどのように変遷してきたか、そして第三章ではヤンキー135人に徹底調査の結果が語られ、第四章ではこれからの消費の主体に何を売るのかとビジネスモデルの提案を行います。

 目の前を通り過ぎながら、今まで層として抽出されなかった新しい消費の主人公、ある意味低成長時代に適応した新しいタイプの若者層に気づかない限り、いたずらに上昇志向を煽ったところで空振りの連続。そうならないためにも、世代やマーケットに関する時代の変化を一早くアップデートするためにも、『ヤンキー経済』は必読の一冊と言えるでしょう。

もちろん、ここで「マイルドヤンキー」と呼ばれる層に自分が該当し、その呼び名に違和感を感じる人もいるのではないかと思います。その名がふさわしいかどうかは、しだいに話題になる中で変化していくのかもしれませんが、少数派であると思っていたら結構全国に仲間がいるんだというのは、力強い発見かもしれません。
書評 | 23:01 | comments(0) | - | - |
原田久仁信・増田俊也『KIMURA 2』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

だから負けたんじゃ!
勝負事は一寸先は闇!
早く勝ちたかったんじゃろ!
それはお前のやさしさなのかもしれんが
その油断があの勇み足だ

(『KIMURA 2』p16)

そんでんあん子はやさしか
バカが付くほどお人好しばい
そいが心配なんたい!

(同上、p36)



原田久仁信・増田俊也『KIMURA 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか Vol.2(双葉社)では、木村政彦の小・中学生時代を描かれる。

[簡略ですが、以下の記述にはネタバレを多数含みます]

熊本小学校相撲大会で優勝した木村政彦は、全九州の大会へと出場する。大外刈りを武器にそこでも破竹の快進撃を続けるのであったが・・・

その活躍に注目した男がいた。鎮西中の柔道顧問である小川信雄である。

天から降って湧いたようなエリートコースへの誘いであったが、木村家は貧しく、家計の厳しさを知り尽くしている政彦は悶々と悩む。

折しも1931年、満州事変の勃発するころであった。

何とか鎮西中の柔道部へと入部できた政彦だが、容赦のない先輩の洗礼が待ち受けていた。大外刈り一本では非力。それでも、砂利すくいで鍛えた足腰の強さで一気に周囲の注目を集める彼のことを心よく思わない人間も少なくなかった。

二年前の天覧試合の全日本柔道大会で優勝を逃した牛島辰熊は、決死の覚悟で上京することになる。
 
もっと強くなりたい。郷里の英雄牛島の旅立ちに刺激されて、政彦もある選択をする。命のやりとりを前提にした大人の勝負の世界の洗礼が彼に容赦なく降り注ぐ。さらに、寝技への引き込みから入る高専柔道との出会い・・・

木村は一日にしてならず。いくら足腰が強いからと言って、それだけでのし上がられるほど柔道の世界は甘いものではなかった。壁、また壁が、次々に立ちはだかる。

そんな中でも、周囲の人が異口同音に指摘するのが政彦の心のやさしさだった。喧嘩が好きなわけでも、滅法強いわけではない。「鬼の柔道」とはほど遠いところに、十代半ばの木村政彦はいる。

原田久仁信の画は、リアルに、しかし人間への深い愛情を持って、1930年代の人々の姿を、そして街や風景をいきいきと描き出す。まるで、昭和のころの良質のモノクロ映画を見るかのような臨場感。

多くの人との出会いと様々な軋轢葛藤の中で、木村政彦も生き延びながら、自らを練磨し続けてきた。『KIMURA 2』で描かれるのは、神格化された英雄ではなく、多感な感情に翻弄される一人の青年の等身大の肖像である。

関連ページ:
増田俊也・原田久仁信『KIMURA』0&1


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