即興は人間を自由にする。無限の生命エネルギーがわいてくる。人生そのものが即興である。譜面通りの人生なんて、つまらない。日本人よ、即興をしろ。(『考える脳』p310)
■茂木健一郎の連続ツイート
脳科学者茂木健一郎の『考える脳 偶然を幸福に変えるヒント150』(PHP)は、2010年8月4日から2011年3月11日までの連続ツイートより150編を選び、まとめたものだ。
茂木健一郎は、日本では、最も勇気ある、開かれた知性の一人だ。
勇気があるというのは、何らかの行動にコミットするという意味ではない。
日々考えを言葉にし、未完成のままに、太陽の光の下にさらし続けるという意味の勇気である。
いわば、幼虫であった蝉が、白く柔らかな身体を晒しながら、太陽の下で脱皮する行為に似ている。
世の中は常に変化して、不定形なままに動いてゆく。その変化の相を、ほとんど毎日のように、とりあえず語るという行為は実はとても勇気のいる行為である。なぜなら、誰も間違いたくはないからだ。
多くの人は、十分なデータや情報のもとで、決定版の<真実>を積分的に語りたがる。だが、それは本当に真実だろうか。それらの情報は、すでに誰かの頭のフィルターを通ったものであり、周囲の空気や利害関係のもとで、安定的な相へと、メディアによって加工されたものではないのか。
突っ込みどころのないベタな意見とは、結局のところ、定説や常識によって固められた世の中の映し鏡にすぎない。生(なま)の対象との接点を失い、世の人々にとって、心地よい形でタグ付けされ、パッケージ化された既製品の思考にすぎないのだ。
日々世界が示す変化の相を、自分の頭で、とりあえず微分してみること。
大いなる<真理>として、積分するのではなく、微分的に語ること。
これこそ、茂木健一郎の連続ツイートのめざすものだ。
さまざまな対象の間を、茂木健一郎の思考と言葉はさまよい続ける。
日々世界のさまざまな国、さまざまな都市を旅し、さまざまな人と出会い、語り合うように。
連続ツイートは、いわばノマド的な徒然草だ。
同じ事柄が、差異をともないながら、語られることもある。その時、対象の値は微妙に数値を変えている。世界は変化し続け、それをとらえる茂木健一郎の認識もアップデートされているからだ。
この反復と差異は、ニーチェの語る螺旋的な思考である。
同じことが繰り返されるが、前と同じ形ではなく、少しずつ変化をともない、そして前進してゆく。螺旋こそは、DNAに見られるように、生命の原理そのものだ。
それを読む時、わたちたちの思考も、螺旋状に元とは違った世界を生成する。なぜなら、わたしたちが接する世界の相は、一人ひとり少しずつ違っていて、それを構成する世界の記憶やイメージ、思考の断片も、違っているからだ。
共通の問題を前に、異なる世界のパーツを使いながら、わたしたちの思考も、並行的に進化してゆく。
■連続ツイートと『考える脳』の間に
しかし、『考える脳』=連続ツイートというわけではない。
これは、大いに考えさせられる問題だ。
日々の連続ツイートがイガや皮のついた栗だとすれば、『考える脳』は加工された天津甘栗のようなものである。固い殻も取られ、食べやすいサイズに揃えられている。
読者にとっては、その方が親切で食べやすいということはある。
ツイートの省略されたタイトルや番号は、便宜的なものだからカットされてもまあよしとしよう。
問題は、日付を持った思考が、カテゴリーの元で整理されてしまっているということだ。古いフォーマットに中に、新しい試みを収めてしまっている。いわば、アポロンの器に盛ったディオニソスの酒のようなものだ。
基本的に、茂木健一郎は、編集者に抵抗しない。彼らの高いスキルを信頼し、ほとんどタイトルもお任せなのだ。それゆえに、日々のラフなアウトプットが洗練された本なって、次々に世に送り出される。
だが、この部分に関してももっとわがままになってよいのではないだろうか。
ツイッターという新しい形式が、あたかも雑誌連載のエッセーのようになってしまっている。この部分に私は大きな違和感を感じる。
ツイッターの書籍化は、茂木健一郎だけの問題ではないからだ。
ソーシャルメディアのアウトプットを、その時間性や断片性にもこだわりつつ、ネット以外の媒体に再登場させられないものか。
ツイッターの書籍化の形は、もっと色々な解があってよいはずだ。
たとえば、詩人和合亮一の3・11以降の詩集『詩の礫』や『詩の礫 起承転転』では日時のある連続ツイートそのままの形が維持されている。
フーコー的に言えば、意味の集合体として文書ではなく、日付を持った出来事としての言語表現の形が和合亮一の詩集には存在しているのだ。
奇しくも、茂木健一郎の『考える脳』は大震災の直前の3月10日までで終わっている。
これ以降のツイートは、常に外の出来事と言葉の表現が密接にリンクしてくるはずである。
ツイートのフレームのついたまま、横書きで並べたっていいじゃないか。外で何があったかと対応させながら、時系列で並べてもいいじゃないか。
日々の連続ツイートは、目前の問題に関する考察であると同時に、一種の日記、クロニクルでもある。後者の性格を捨象してしまってよいいのだろうか。
続く連続ツイートのまとめ本では、編集者にも偶有性を偶有性のまま表現する冒険精神を期待したいのである。