つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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水道橋博士『藝人春秋』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 


水道橋博士『藝人春秋』文藝春秋)が面白い。めちゃくちゃ面白い。

同じ軍団出身のそのまんま東に始まり、中学の同級生である甲本ヒロト、古館伊知郎、草野仁といった放送界の大物、あるいは意表をついてホリエモンや苫米地英人までも芸人の列に加えつつ、テリー伊藤を経て、北野武、松本人志という巨匠の壁に挑みながら、最後はしんみりと稲川淳二で締めくくる…

15の人物伝とまえがき、あとがきからなる『藝人春秋』は、芸人文学の頂点をきわめた、ノンフィクション文学の傑作である。

その視点は、あたかも映画のカメラのように、クールな視線で遠くから主題の人物をとらえる。

あるいは一見無関係に見える別の人物についての描写から始まりながら、しだいに主人公へと肉薄してゆく。

あるいは、ダイレクトに人物の爆発的なトークとクローズアップから始まる。

芸能界に出入りしている文筆家なら、クールな人物描写や分析はお手のものだろう。

しかし、一人や二人ならず、何十人もの−多くは格上の−人物と、間近に接し、火花を散らし、涙を流し、血まみれ、傷だらけになりながら実録を残せる人物はまれである。

『藝人春秋』は、一冊の中に、その二つの側面−客観と主観−を備えた傑作だ。

視聴者やナレーターと同じ視点(この世)と熾烈な弱肉強食な芸の世界(あの世)の間の往還の中から生まれたドキュメンタリーであり、私小説なのだ。

『藝人春秋』と名付けた本書はこの世から来た「ボク」があの世で目にした現実を「小説」のように騙る−お笑いという名の仮面の物語だ。まえがきp7)

客観的なドキュメンタリーの文章の中に散りばめられた人物評は、話芸で磨かれた言葉の技術を文章語の中に見事に落とし込んだキャッチコピーのような輝きを放っている。
 
 東さんには、度を越えた大真面目と、度を越えた大馬鹿が合わせ鏡のように、そのまんま同居している。(そのまんま東 p10)

一行の文章は、そのまんま人生の喜怒哀楽を同時に語っている。 
 
 ヒロトはかつてこう言った。
 「中学時代、ラジオからビートルズが流れてきたからロックをはじめた!」
 それを意識したボクは何度もこう書いた。
 「中学時代、ラジオからビートたけしが流れてきたから芸人をはじめた!」 

 (甲本ヒロト p34)

そう、他人の芸を語ることは、その映し鏡を通じて、自分の芸を語ることであり、他人の人生を語ることは自分の人生を語ることなのだ。

キャッチコピーと話芸を合体させた文章は、古館伊知郎の章において、超絶技巧のきわみに達する。

まさに古館本人を前にしながら、心の中で古館節の実況中継を行ってしまうのだ。 
 
 そして一方、これが古館伊知郎です。今をときめく花形アナウンサーではありますが、会社帰りのサラリーマンかと見間違えそうなほどの変幻自在ぶり、一癖二癖もある芸人の中すっかりウブな素人のように正体を隠したまま溶け込んでおります。ガチガチに緊張する博士に視線を送るその眼差しは、さしずめマングースを睨むハブ、そして鍋を頬張る際にのぞく舌はエモノを狙うカメレオンを連想させます。(古館伊知郎 p95)

テレビが、そしてプロレスが今よりずっと熱かった時代の熱気とともに、あの古館節がありありと水道橋博士の仮面の下に蘇るのである。
 
  おっとぉ一方の博士ですが拍手をしながら、しきりにトイレに行くタイミングを窺ってモジモジしているぞォ。まさしく尿道橋博士、さながらトイレット博士といった有様であります。(同上 p98)

古館節に便乗しながらも、セルフツッコミを忘れない芸人魂が炸裂する。

スパイダーまで駆使し、あらゆるテレビ番組のデータベースを心に焼き付け、めぼしいタレント本をことごとく読破する中『本業』という本までものし、話題の新刊にはことごとく目を通す日ごろの涙ぐましい精進努力、芸人としての業がこの数行には凝結している。

同じように、苫米地英人でも、テリー伊藤でも、炸裂する話し言葉の圧倒的な洪水が、博士の絶妙の編集を経て、読者に襲いかかる。
 
芸人界のボルヘスか松岡正剛か、はたまた言葉のミルマスカラスか、そんな言葉が水道橋博士にはふさわしい。


だが、『藝人春秋』の一番の売りは何よりも人生の機微や悲哀、そして涙である。

浮き沈みの激しい芸人人生、先を行く者の後ろ姿。

北野武/ビートたけしのように、はるか前方を走り続ける者もいる。

だが、ポール牧のように、不意に姿を消す者もいる。

ビートたけしが師と仰いだ深見千三郎。

奇しくもドラマの中で浅草修業時代のたけしを演じることとなった博士は行き詰まり、深見役を演じる石倉三郎に言葉をかけられ救われる。
 
 フランス座という空間に閉じ込められた撮影現場で、時間は過去へ過去へと逆行していった。
 小説のなかで語られた、北野武が現実のビートたけしへと変わりゆく物語。
 30年前のビートたけしが修業したフランス座体験、そして、15年前に訪れた、ボクたちのフランス座体験、それは折り重なり、まるで蜃気楼のような奇妙な既視感を生んでいった。
  やがて深見千三郎と師匠役の石倉三郎が役を超えて交錯し、ドラマの虚構がボクたちの現実を飲み込んでいった。
(石倉三郎 p60)

そんな折倒れた博士の父親。それに石倉師匠の言葉が重なる…「芸能界は親が死んでもトチれない世界なんだよ」。

複数の人生が、虚構と現実を織り交ぜながら、鏡のようにそれぞれの姿、人生を映し合う。
 
一つの感情だけでは語ることのできない人生の深みを、『藝人春秋』は垣間見せてくれるのだ。

『藝人春秋』は、順序にこだわった構成になっている。

飛ばし飛ばしじゃなくて、順番に読んでいってほしい、そう何度も語っている。

最後の章は、まさにあの世を語る稲川淳二と、彼が抱えた秘密を語り、あとがきは児玉清へのレクイエムとなり、この本は彼に捧げられている。
 
この二つの文章は、涙なしに読めないものだ。

だが、そのいきさつをここで語ることは、あの世との境を越えることである。

芸人人生の喜怒哀楽を一冊に凝縮した、水道橋博士『藝人春秋』のあの世は、次なる読者との出会いを今か今かと待っている。


PS  水道橋博士(@s_hakaseのツイッターを今フォローすると『藝人春秋』の感想ツイートが山のようにRTされたり、リプライされたりするのを目にするかもしれない。

本人のツイートだけ読みたいという人は辟易するかもしれない。

だが、それを見た私は、思わずこんな風につぶやかないではいられなかった。
 
@s_hakase 売れなきゃ本屋からあっという間に消える中で、著者以外の誰が本の宣伝するんだい。他で食えてるかどうかは問題じゃないつーの。本も、本の宣伝も芸のうちだって。だから堂々とやればいいんだよ。それが嫌だってんなら、芸風があわないんだから客の方がリムればいいだけなんだよ。

そして、それは水道橋博士のRTとともに、大勢の人の中に、無数のつぶやきの波となって広がっていったのだった。
 
書評 | 21:43 | comments(0) | - | - |
園子温『非道に生きる』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略

 


映画監督、園子温

2012年に朝日出版社より出版された『非道に生きる』は、昨年読んだ中でも、最も刺激的な一冊だった。

非道とは何か?

非道は正道の反対概念ではない。

非道は邪道ではない。

自らの内なる自然、衝動や欲求に従う中で、道なき道を行く。

それが非道である。
 

「非道」と言いますが、本来、人間は生まれながらにたった一人で、自分の道を切り拓くために生まれてきたわけです。そもそもが、道なき道をゆく宿命なんです。他の人と同じ生き方をするために生きるのなら、生まれなくてもよかったとさえ思います。少しでも面白くないと自分が思うことは一切やらない。それを他人が「非道」と呼ぼうが、知ったこっちゃない。165-166


非道とは、あたかも子供が内なる衝動に基づいて絵を描くように、人間本来のありかたに基づいた自然な生き方である。

周囲がどう思おうが、自分が面白いと思うものを追いかけて一瞬一瞬を充実させる。

そのように生きたい。そのように映画をつくりたい。

この主張は、『非道に生きる』の中の一貫した主張である。

『非道に生きる』では、テレビの「洋画劇場」に耽溺し、外国の小説を耽読した早熟な少年時代より、そうした生き方を通してきた壮絶な過去が語られる。

小学校では、授業中に性器を露出して、騒ぎを起こす。校内新聞では団地妻の淫らな生活を描いた小説を連載…

17歳で家出したのはいいが、東京駅で出会った女性とラブホテルに行った挙句、田舎で偽装夫婦生活を送る羽目になる。

そのいきさつも凄い。

 

 

「二つの選択肢をあげる。ひとつはいま一緒に死ぬこと、もうひとつは、あたしの田舎へ行って、旦那になりすまして家族と一緒に暮らしてゆくこと」。もちろん、二番目の選択肢でお願いします、となりますよね(笑)p23


映画館に入り浸るだけでなく、バンドやシンガーソングライターのまねごともやるが、歌詞を研究する中で、詩を高校生向けの雑誌に投稿、掲載されるようになる…

高校卒業後、放浪生活を送る中、空腹の極地に、統一教会の人に誘われついてゆく。

しかし、脱出するのに苦労し、今度は成田は三里塚のアジトに身を潜める。

ほとぼりを見計らって大学入学後、映画を撮り始める…

何とかスタートを切った映画監督稼業。必死のプロモーションが功を奏して、いくつかの映画賞も受賞し、やがて劇場に列ができるまでに。

さらに、渋谷の交差点で始めた路上パフォーマンス、東京ガガガは2000人もの人を動員し、警察との騙しあいのような日々が続く。。

40歳にして火事で焼け出され、文化庁の研修員としてアメリカへ留学。

帰国後、再び映画を撮り始め、現在に至る。

『非道に生きる』は前半が生きた足跡に重点が置かれ、中盤ではいかに映画を認めさせるかの努力を中心に、そして後半では自作にこめた世界観、映画観が語られる。

そして映画のターニングポイントとなったのが、2011年3月11日の大震災と原発事故であった。

 

 

 

 

社会学者・宮台真司さんの言葉を借りて震災以前の日本を「終わりなき日常」と表現するとすれば、震災以降そのような「日常」は終わり、僕らは「終わりなき非日常」に突入したのだと、そのとき思いました。p121

 


そのことを無視して、映画を撮ることはできない。

そうして生み出された石巻の海岸のシーンから始まる『ヒミズ』、そして福島の避難地区の家族を扱った『希望の国』。

この二作は、人々への取材と、当事者の視線に基づいて作られている。

とうてい、われわれの置かれた「終わりなき非日常」を二作で撮りきることはできないと、園子温は言う。

次に園子温はどのような映画を撮り、そこにどのような希望を見出すのだろうか。

 

 

 

 

書評 | 12:44 | comments(0) | - | - |
平野啓一郎『空白を満たしなさい』
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1  平野啓一郎の最新作『空白を満たしなさい』(講談社)は、一度死んだ人間が生き返った時に、本人がそして周囲の人々が直面する様々な軋轢・葛藤をリアルに描くことで、人が死ぬことの意味、そして生きてゆくことの意味を問う優れた長編小説である。

一歳半の時、父親を36歳で失った土屋徹生は、同じ年齢で建物の屋上から落ちて死んでしまう。

しかし、気がつくと彼は3年後の世界に、そのままの姿で生きていた。

あたかも幽霊を見るかのようなまなざしで、職場は、そして家族は彼を見るが、しだいにその事実を受け入れるようになる。だが、違和感は消えない。
 

 あれほど笑顔が絶えなかった彼の妻は、ここ数日間、まったく笑わなかった。それは、恐らく混乱のためだけではなかった。
 自分が生き返ったことを、妻は喜んでいるはずだ。―どうしてそう無邪気に、信じられるだろうか?……
p28


もはや、徹生は以前と同じ感覚で生活することはできないことに気づく。

いったん、生きている人間の死を受け入れるために、人は喪の作業というものを行う。それぞれに、心の中でその処理を行った後では、もはや以前と同じ生活を続けることは不可能なのだった。

 

 単に生き返ったのではなかった。自分の死が壊してしまった世界に生き返ったのだと、彼は感じた。それを元に戻すことこそが、自分が生き返った意味なのではないだろうか?p55 原文では傍点による強調


徹生には死んだ時の記憶がなかった。なぜ、自分は死んだのか。

彼の周辺で、ことあるごとに毒のある言葉を投げつける佐伯という男。

あの男が第一発見者なのだと言う。彼と死の前にいさかいをしたことを思い出す。

ひょっとして自分は彼によって殺されたのではないか。

徹生は佐伯の身辺を探り始める。

しかし、周囲の人は彼の死を自殺と考えていたようで、死因の追求をやめさせようとする。

ひょっとして自分は本当は自殺したのだろうか。

としたらなぜ?妻や子供にも恵まれてあんなにも幸せだったのに!

やがて証拠が彼の手元にたどり着く時、驚くべき真実が明らかになる…


『空白を満たしなさい』の設定は、一見ファンタジーのようである。死んだ人間が甦る、しかもそれは一人ではない。そして、いったん甦った人間も消え始める。これは、映画化もされた梶尾真治の『黄泉がえり』と共通した設定である。作品中で、なぜそれが起こるかを科学的に(というより疑似科学的)に説明されることも一切ない。

ただ世の中のルールが、変わった。不条理な初期設定の変化のみがあり、後の展開は徹底してリアルなのだ。

その不条理を受け入れる中で、人は何を考え、どう行動するのか。そしてどう生きるのかを問うことに著者の情熱は注ぎこまれている。

とりわけ、自らの死の意味にたどりつき、かけがいのない時間を生きなおそうとする主人公の姿は感動的だ。

最後の一行に至る時、多くの読者は涙を禁じることができないだろう。


2 書評と言うのは、文芸評論とも、文庫本の巻末の解説とも異なる。それらは、読者がすでに作品を読み、知らないことがないという前提に書かれている。しかし、ネット上の書評は、読んでない人に対し、読むことを促しつつ、何が次に来るかという物語本来の楽しみを奪わないためのものである。だから途中までの設定(それはすでに本の帯にあらかた示されている)のみ提示し、後はフェイドするしかないのだ。

そういう厄介な書評の制約の中でも、触れないわけにはいかないのが佐伯という人物の重要性である。あたかも『オセロ』におけるイアーゴーのように、彼は人間の影の部分を代表し、徹生に、そして彼の妻や周囲の人々に、邪悪な毒のある言葉を盛り続け、彼らの不安、恐怖、猜疑心といったものをあおりたて、自我の尊厳を崩壊させかねない存在、物語の暗い通奏低音である。

そして、もう一点この作品の中では、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』の中で平野が提示した「分人」の概念が、徹生と彼がカウンセリングの相手とした池端という男の間で、登場する。

 

「人間は、生きていくためには、どうしても自分を肯定しなければならない。自分を愛せなくなれば、生きてゆくのが辛くなってしまう。しかしですよ、自分を全面的に肯定する、まるごと愛するというのは、なかなか出来ないことです。よほどのナルシストじゃない限り、色々嫌なところが目についてしまう。しかし、誰かといる時の自分は好きだ、と言うことは、そんなに難しくない。その人の前での自分は、自然と快活になれる。明るくなれる。生きてて心地が良い。全部じゃなくても、少なくとも、その自分は愛せる。だとしたら、その分人を足場に生きていけばいい。もしそういう相手が、二、三人いるなら、足場は二つになり、三つになる。だからこそ、分人化という発想が重要なんです。」 p331 原文では傍点による強調


ほぼ同時期に、書かれた二つの書物は、それぞれに相互を参照しあう存在である。

時代や社会を変えつつも、消えることなく続く自殺という社会現象に対する根源的な問いかけと著者なりのソリューションが、『空白を満たしなさい』では、より詳細に示されている。

物語の展開とは別に、この魂の叫びが、平野にこの小説を書かせたと言っても過言ではないだろう。

この前後に書かれた誰がゴッホを殺したのか、肖像画の中のどれが本当のゴッホかというきわめて重要な問いかけがあるのだが、その謎解きはこの小説の最もスリリングな部分なので、ここでの詳述は割愛する。

 

書評 | 12:41 | comments(0) | - | - |

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