つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< March 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
 
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる人と育てる人のための教科書』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略

 

 

落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる人と育てる人のための教科書』(小学館)は、学ぶ側と学ばせる側双方の立場に立った学び方の教科書だ。

 

この本は、三つの章からなっている。

 

第1章 Q&A 幼児教育から生涯教育まで「なぜ学ばなければならないのか」は、今後大きく変化する社会で求められる能力と、何をどのように学ぶ、あるいは学ばせたらよいかを13のQ&Aのかたちでまとめたものだ。

 

たとえば、

なぜ勉強をする必要があるの?

学校はなんのために行くの?

大学はどのように選べばよいの?

英語は、プログラムは、小さいころから学ばせた方がいいの?

 

世の中に出回る情報に振り回され、子どもや親や、社会との板ばさみになる先生のために、長期的なパーステクティブから答えてゆく。情報が多すぎる時代の親は、簡単に耳ざわりのよい情報を見つけ、信じやすい傾向がある。また、時代のトレンドにも流されやすい。だが、そうした情報は発信者に都合のよい利益誘導型のものが多い。また、専門外の人が専門家の意見を単純化して、煽りなど誤解を招くような誇張表現に編集している場合も少なくない。つまり、いたるところにトラップ、罠が仕掛けられている。

 

落合陽一による解答のすぐれた部分は、つねに質問にまぎれこむ可能性のあるトラップに自覚的であることだ。

 

 以前ツイッターで、「お子さんに、『なぜ学校に行かないといけないの?』と聞かれたら、どうしますか」という質問を受けたことがありました。その時、僕は次のように答えました。その時、僕は次のように答えました。

「『なぜ学校に行かないといけないの?』と聞くような子供に育てるつもりはないから、大丈夫です」pp14-15

 

『なぜ学校に行かないといけないの?』は、行かなくてもよいという選択がある子どもには無縁の質問である。さまざまな学びの可能性が与えられている子供から、そうした質問がでてくることはない。「もしも〜」を含んだ質問には、仮定の話のオプションの一つを当然の前提に変えようとする罠が隠されている。

 

そもそも僕自身、大学で学生に教える立場にありますが、「学校=必ず行かなければならない場所」とは考えていません。義務教育であったとしても、ひとそれぞれに合わせた学び方の選択肢が存在すべきだと思っています。p15

 

「学校にゆくこと」と「勉強にゆくこと」はイコールではない。だから、「なぜ勉強しなくてはいけないの?」に対しては、別のかたちで答える必要がある。

 

  僕は、勉強する理由は、新しいことを考えたり、新しいことを身につけたる方法を学ぶためだと思っています。特定の勉強の内容そのものよりも、勉強し続けることを止めないことのほうが重要という価値観を持っているのです。

「学校の勉強なんて社会に出たらまるで役に立たない」とよく言われますが、その考え方の大きな間違いは、教育にある「コンテンツ」と「トレーニング」という2つの要素のうち、後者のもつ意味を正しく認識できていないことです。学校で学ぶ数式や漢字(コンテンツ)も大事ですが、それ以上に学習する訓練(トレーニング)を怠っていたら。社会に出た時に新しいことを学習する方法がわからずに、自分の経験を使えない人となってしまうのです。p19

 

いわばトレーニングは、コンテンツを入れるための器づくりだ。器が大きく、フレキシブルなものでなければ、いざ社会に出たときに別のコンテンツを入れようとしても、それを習得することができないか、同時に必要な器づくりを最初から始めるために、習得するまでに数段手間暇がかかることになるだろう。

 

英語は早ければ早いほど、ネイティブのように話せるのではないかと、幼いころから英語を学ばせようとする親も少なくないが、英語が話せないと困るような状況は、自動翻訳の進化でこれからはどんどんと少なくなってゆく。縦のものを横にするだけ、中身のない英語を流ちょうに話せることにもはや価値のない時代が来る。それ以前に、母語でしっかりと考える能力を備えていることの方が重要なのだ。

 

 そのような自動翻訳によるコミュニケーション技術の進化によって、英語力があるだけではそれほど大きな強みとは言えなくなります。それよりも大事なのは、そしてコンピュータが翻訳しやすい話し方や文章の書き方を母語で覚えたり、そういったスタイルの言語の使い方があることを理解することです。

 複数の意味にとれるような曖昧な意味を使わない。主語・述語を意識した論理的な構造で文を作る。こうした母語の論理的言語能力に加え、自分の考えを持ち、それを明確に伝える能力こそ鍛えるべきです。p40

 

2020年度の教育改革で小学生から必修化されるプログラミングも同様だ。英語にせよ、プログミングにせよ、あくまで手段にすぎないものを、一種のタリスマン(お守り)にようなものとしてすがろうとする保護者の心情に、落合陽一はあらかじめ釘を刺す。

 

  ただし、プログラミングの早期教育が、その後のプログラミングのスキルを生かしていく能力にどのくらい影響するのかといえば、それほど大きな因果関係はないと僕は経験上思っています。確かに、幼少期からプログラミングが書けると、独力でできることは増えるでしょう。しかし、プログラムの根本にあるのは「計算コスト」や「論理」や「計算手法」についての「数学」の考え方です。プログラミングの得手不得手に関していえば、早く始めた人よりも数学ができる人のほうが有利になります。何行書けるかよりも、何行書くことを減らせるかが重要な世界だからです。pp28-29

 

プログラミングの世界は、時間の流れが速い世界だ。あっという間に、以前習得したプログラムも時代遅れになってしまう。だから、ピアノのように、早ければ早いほどよいということにはならないのだ。

 

生きてゆく上で、落合陽一が大事な財産となると考えるものに経験がある。どこかの教育機関や施設で得られるようなもの以上に、自営業主の自宅や親の職場で得られるような経験こそが貴重だ。というのも、学校での均質化されがちな教育では、身につける知識やスキル、モチベーション(それらを落合陽一は「文化資本」と呼んでいる)の差別化が困難だからだ。

 

  幼児期から子供にさまざまな経験をさせてあげたい一番の理由は、人間の能力の差の大部分は、経験によってもたらされると僕が考えているからです。人間が持っている基本の能力にはそれほどの差がないと考えています。ものすごく処理能力が高い人でも、せいぜい他の人の2倍か3倍程度でしょう。しかし、経験を含めた能力差は人によって大きく違います。こういった経験を生み出すものを文化資本と考えることができるでしょう。文化資本は、教育に金銭コストをどれだけかけられるか、だけでなく、大人が自分の持ちうる知識やネットワークをどう活用するかで決まるのです。p36

 

子どもが大きくなり、大学へ進学するようになったときの、大学選びの基準に関しても、偏差値至上主義とは違った選び方を落合陽一は用意している。

 

  大学を選ぶ時の一番簡単な基準は、大学の経営がうまくいっているかどうかです。特に、私立大学を選ぶ上で重要となるのが、経営の健全性です。優秀な教員を、高い給料で雇えており、成果が上がっているような大学は安心です。たとえば、明治大学や近畿大学は非常に経営がうまくいっているように僕には見えます。

国公立大学の場合は、運営費交付金の金額と研究費を豊富に持っているかどうかが一つの指標となります。文部科学省から配分される科学研究費補助金(科研費)を参考にするとよいでしょう。p51-52

 

このように、すべての問いに対して、一般的な答えとは一味も二味も違った答えが用意されている。それは、もっぱら長期的な社会の変化を踏まえた上で、学習者のキャリアを成功させる視点から導き出されている。中でも重要となるのが自前の思考と複数の柱ということになる。

 

第2章 落合陽一はこう作られた・どんな教育を選び、どう進んできたか、生成過程は、自分史のかたちで、落合陽一がこれまでの人生をふりかえりながら、現在に至る経緯を自ら分析したものだ。

 

スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学で行った講演で述べたように、後から点と点をつなぐこと(connectng dots)で、科学者として、アーティストとしての落合陽一が、どのように形成されたかがくっきりと浮かび上がってくる。

 

この章は、「情熱大陸 科学者落合陽一」の解像度を上げたような内容で、いろいろ面白いエピソードが披露されている。

 

一つは幼いころに、月曜ピアノと音楽、火曜算数と理科、水曜空手教室・体操教室、木曜実験教室、金曜絵画、土曜公文式と、曜日ごとに違う習い事を教わったこと。この中で、月・火・金は、家庭教師か個別指導だ。

 

 これらの習い事は、すべて自分がやりたいと言い出した後、やっていたことで、親から強制されたものは特にありません。昔から自分がやりたくないことは続かないからです。

 家庭教師や個別指導のよいところは、専門性が高い人から、自分に合うように、カスタマイズされた教育が受けられることです。昔の貴族も個別教育が基本でしたし、インターネットが発達した今、マッチングは比較的楽なのではないでしょうか。また、教わる側からしても毎回関わる指導者が違うので、気持ちが切り替わることもメリットです。p113

 

幼い頃から、得意な一つのものに特化する方向ではなく、多動的な才能の伸長に重きを置きながら、落合陽一は育ってきたのだ。

 

もう一つは青春18切符を活用して、日本の全都道府県を旅したこと。これを読んで、落合陽一が新婚旅行に九州と四国を船の便を活用して、ユニークなコースを組んでいたことを思い出した。

 

  知識として聞きかじっていたものやことを実際に見てみよう、体験してみようというノリで、結局、高校時代に全国すべての県庁所在地を回りました。特に印象的だったのは、香川県と北海道です。香川とにかくうどんが安かった。単品はもちろん、定食にしても500円を切る価格帯には驚かされました。またさぬきうどんが都内に今ほどチェーン店展開をされていなかった頃で、生醤油でうどんを食べるという食文化を初めて知った時は、カルチャーショックを受けました。それ以来、そばもうどんもまずは何もつけないで食べるようになりました。pp127-128

 

うどん以外の食べ物では、鮎にはまったのが高校時代だったというのも落合陽一らしいエピソードだ。

 

  また高校時代は一時期、鮎にはまり、自分で鮎ばかり焼いて食べていました。鮎は今でも大好きです。複雑なものを複雑なままで食べられる料理が好きなのですが、まさに鮎は複雑の極みです。p129

 

落合陽一の幼少期から今日に至るまでの経験や経歴、それらを見る時、同時期の自分の経験や経歴を思い出す人も少なくないだろう。このような他人の自分史は、何が共通し、何が異なるののか、比較する中で、読者自身の自己形成のプロセスも浮かび上がり、その特異性やメリット・デメリットも見えてくる。

 

ちなみに、哲学者の千葉雅也も、『メイキング・オブ・勉強の哲学』の中で、「欲望年表」と称して、同じ自己分析の作業を行っている。千葉雅也と落合陽一の間には、考え方にかみ合わない溝が存在するが、こと自己分析に関しては、同じ方法をとっているのはとても興味深い。

 

理工系の教育の柱であるScience(科学)、Techinology(技術)、Engiineering(工学)、Mathematics(数学)というSTEMにArt(美術)を加えたSTEAMが世界的な教育のトレンドとなっている。

 

第3章 学び方の実践例・「STEAM教育」時代に身につけておくべき4つの要素では、このSTEAM教育で不足する、「言語、物理、数学、アート』という4つの要素で、単純で退屈に見える学びのプロセスを、ダイナミックに変えてゆく方法を解説している。

 

冒頭で、落合陽一は、「リンゴ」とその意味内容を、四つの視点から見ることで、ソシュールのシニフィアン(意味するもの)/シニフィエ(意味されるもの)という近代的二元論を、脱構築している。それは、リンゴをただ単に言葉としてだけでなく、現象、データ、アートとして処理することを意味する。

 

 このように考えると、数文字の言語でのみ表現されたリンゴは、実はものすごく情報を限定されていることになります。物理的・数学的なモデル化、あるいはアート的なアプローチを取り入れることによって、言語をきっかけにしながらも言語を超えた豊かな表現や高度な情報のやりとりが可能になります。p150

 

第3章は、この四つの要素を、学校ではなく、家庭というふだんの生活の中で、身につける方法が解説される。

 

 「学びの手法」とは、知的な世界との向き合い方、つまりライフスタイルの問題です。普段の生活の中に「学び」があるかということです。

  学校で教わるかどうかに関係なく、家庭教育の中にスタイルとして組み込まなければ、本当の意味での「学び」は身に付きません。p152

 

言語的な学びを身につけるにはどうすればよいのか。

 

筋道だった考え方であるロジカルシンキングと、論文作法であるアカデミック・ライティングの基礎は家庭でも身につけられる。

 

物理的な学びを身につけるにはどうすればよいのか。

 

大事なのは、目の前の現象を五感を使って観察し、考えることである。

 

数学的な学びを身につけるにはどうすればよいのか。

 

数学とは足し算や引き算の算数ではなく、データを読みとく統計的思考と、事象を数式へと結びつける解析的思考の二つがあることをまず知ることである。

 

アート的な学びを身につけるにはどうすればよいのか。

 

実技だけに走らず、作品を見聞きしてそれを言語化する鑑賞教育が大切だ。

 

家庭での会話を具体例にとりながら、四つのアプローチが一つ一つ解説されてゆく。それらすべては、目の前のものと、学習内容がばらばらになった学校で教わった知識と物や事象との関係を再結合させることへと、つまり世界を脱ブラックボックス化する方向へと向けられている。

 

 本来は、学んだことの本質を、普段の生活の中で感じながら暮らせるようになるべきなのですが、現状の学校教育では、学んだことを実生活と結びつけるための指導が弱いため、テストや大学受験が終わったらほとんど忘れてしまい、日常的に接している現象を物理的に理解しようとする習慣が育ちにくいのです。

 物理に関心を抱けない子供は、知識を通じて物理世界と触れ合う感覚を知らないまま、常に何らかのブラックボックスが目の前にある状態で人生を送ることになるでしょう。それは、ある意味では魔術化された穏やかな世界なのかもしれませんが、問題解決志向が弱まります。pp164-165

 

同じものを、四つの視点から見る習慣が身に付けば、料理一つをとっても、物理的にも、数学的にも、言語的にも、アート的にも語ることができるだろう。

 

   たとえば、僕は料理について研究に似ていると感じることがよくあります。普段、口にしている料理を、ただおいしいかだけではなく、食材や器、レシピや手順など、いろいろな角度から見ることで楽しみも深まります。

 調理の過程や味つけは物理的現象です。食材の生産や価格、流通の過程は数学的に考えられます。季節に合わせたメニューの名前には言語的センスも必要ですし。盛りつけやテーブルコーディネーターはアート的、という具合です。

いろいろな見方をすることで、さまざまな学びがあり、それが習慣となることで、さらに学び続けられるわけです。

p192

 

本書の中には、教育を考える上で、非常に大事な内容が凝縮されている。人生を、自分らしく、知的に生き抜くためのヒントがあちこちにちりばめられているのだ。特に、第3章の内容は、きちんと理解し、実行してゆけば、天才的な発想やひらめきを持った思考力の持ち主に変身可能なものだ。それをどう活かすかは、読者の自由である。

 

『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる人と育てる人のための教科書』は一見平易で、ハードルの低そうな本だが、その人生を変えるポテンシャルは本物である。本書を手に取った子どもや親の周辺から、大きな変化が生じることが期待できそうな良書である。

 

 

関連ページ:

コメント
コメントする









 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://mkamiya.jugem.jp/trackback/953
 

(C) 2019 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.