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千葉雅也・東浩紀『実在論化する相対主義ーーーマルクス・ガブリエルと思弁的実座論をめぐって』(ゲンロンβ28,29より)

 文中敬称略

 

 

「実在論化する相対主義ーーーマルクス・ガブリエルと思弁的実座論をめぐって」は、2018年3月25日にVOLVO STUDIO AOYAMAで行われ、ゲンロンのメルマガである「ゲンロンβ28」「ゲンロンβ29」に二回にわたって掲載された思弁的実在論をめぐる千葉雅也と東浩紀の対談である。思弁的実在論とは、認識する主体から離れて、モノが存在するという哲学的思潮であり、ポストモダン以降の哲学の流れの一つである。

 

まず2018年1月に邦訳出版されたマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないか』に対する評価よりスタートする。

 

次作への発展の余地を留保しながらも、千葉雅也は「Aさんから見た山」も「Bさんから見た山」も同じように実在するとするガブリエルの発想を、80年代のポストモダニズムの発想の域を出ていないとするのである。

 

千葉 彼自身は、ポストモダニズムを構築主義であると見なしたうえで、そこに「実在論」を導入することで構築主義を乗り越えたと主張する。しかし、その全体がかつての議論の反復のように見える。

 別の言い方をすれば、すべてのものに実在の身分を与えようという議論なんですよね。

 

そうした上で、思弁的実在論全般の特徴へと進みながら、それを現代思想の中に位置づけるのである。

 

ポストモダニズムにおける「多様性へ」というメッセージは、真理はひとそれぞれであるという「相対主義」との批判を生んだが、思弁的実在論の登場は、「ポストモダニズムの相対主義的な側面の乗り越えの動き」であると千葉雅也は語る。

 

思弁的実在論の最初の論者は、カンタン・メイヤスーである。メイヤスーは、カント以降哲学が陥った「相関主義」という袋小路から抜け出す道筋を探求する。メイヤスーの考え方の見事な要約がここにある。

 

千葉 メイヤスーは。カント以後の哲学は、世界そのものというよりも、わたしたちが世界を認識するための枠組み、すなわち思考のフレームワークばかりを研究してきたと批判します。カント的な立場では、哲学的な問いが「わたしたちにとって世界はどうあるか」という問題に限定されてしまい。それ以上は問えなくなる。メイヤスーはそのような限界を抱えたカント以降の哲学を「相関主義」と名付けます。認識の枠組みと世界が「相関」する、それが基礎になっているからです。

 メイヤスーはこの相関主義を批判し、それを突破するための「実在」を追い求める。わたしたち人間と無関係な、非人間的な、いわば無人の世界における実在に、なんらかの方法でアクセスしようと試みる。それがメイヤスーの哲学です。

 

思弁的実在論のムーブメントは、このメイヤスーの問題提起を受けて、2007年にロンドン大学で行われた「Speculative Realism」というタイトルのワークショップが行われたことに起因する。このワークショップのメンバーは、レイ・ブラシエ、メイヤスー、ハーマン、イアン・ハミルトン・グラントであった。それにともない、現代思想の中心もパリからロンドンへ移ることとなった。

 

思弁的実在論は、ポストモダニズム以降の思想的停滞を打破するものとして現れてきたことを、東浩紀も評価する。

 

とはいえ。思弁的実在論は、その担い手のハーマンや、ブランシエが辺境の大学に勤めていたり、ネットで拡散したりするなど、マイナーな流れであり、ポストモダニズムの再来を期待することは困難だろう。

 

千葉 つまり、思弁的実在論は、そもそもが哲学の主流からドロップアウトしてしまった現代思想から、さらにドロップアウトしているわけです。

 

メイヤスーが相関主義批判によって主張したいのは、実は唯物論であると千葉は言う。

 

千葉 メイヤスーは「真の実在」を思考する方法として数学を特権化します。現代の物理学は数式の集合体ですが、数的なものこそほんとうの実在だとメイヤスーは主張する。数的なものこそが人間の外部にある実在だというのがメイヤスーの基本的な立場です。

 

これに対して、グレアム・ハーマンの哲学は、事物をすべてオブジェクト=対象ととらえようとすることより、「オブジェクト指向哲学」と呼ばれる。

 

ハーマンは、それぞれのオブジェクトが絶対的に分離し、独立していると考え、この状態を「ひきこもる」と呼んでいる。

 

千葉 ハーマンの考えでは、オブジェクトがバラバラにひきこもって存在する水準こそが「実在的」である。逆にオブジェクトとオブジェクトが関係する水準は感性的な世界にすぎない。だからハーマンは、さまざまなオブジェクトが表面的なレベルではつながっていてもじつはバラバラである、という二部構造を用いて世界を説明する。

 

思弁的実在論とあわせて千葉が紹介するのは、思弁的実在論に影響を受けた政治理論であるニック・スルニチェクの「加速主義」である。

 

その主張は、ひと言で言えば、フォークポリティックス(民衆政治)とは逆に、情報技術の進化を敵視するのではなく、むしろ「加速」を肯定する立場にたつべきとすることにある。

 

千葉 それに対して加速主義者は、人間が情報技術や数理に疎外されるディストピア的状況を積極的に肯定し、その果てにこそユートピアを実現させるという方向に振り切れるべきだと主張するわけです。

 

加速主義について、東はフォークポリティクス批判には共感できるものがあるものの、スローガンが抽象的で、実装のプロセスが見えてこないとするのである。

 

また、「人新世」という言葉も流行しつつあるが、これは人間の活動が与える地質学的影響を考慮すべきという主張であり、それを唯物論の復活であると東はみなしている。(以上「前編」ゲンロンβ29)

 

 

(以下「後編」ゲンロンβ28)

 

以上を踏まえて、マルクス・ガブリエルの哲学を再考してみると、実は同じ実在論と言っても、思弁的実在論とガブリエルの考えは正反対であると千葉は指摘する。

 

ガブリエルは、自然科学の素粒子の世界も、特定の文学作品も、一角獣のような虚構の存在も、同じ「意味の場」としてとらえ、多様なものの見方からそのまま実在へと飛躍してしまう。そして「世界」のような、それらを包括する全体の集合は考えることができない(=世界は存在しない)とするのである。

 

ポリティカル・コレクトニスの主張には便利な哲学であるが、逆にヘイトやレイシズムにも転用可能な危険をはらんでいる。また、悪しき相対主義にも陥りかねないと千葉は警告する。

 

千葉 かつてのポストモダン的な相対主義が、見ようによってものごとはちがって見えるという話だったのが、ガブリエルの場合「見ようによっては」と言われていたものが、見ようによらずともすべて実在しているという話になってしまう。つまりガブリエルの哲学は「相対主義の実在論化」なんですよ。そして、この相対主義の実在論化とは、ポスト・トゥルースそのものです。

 

さらに、思弁的実在論と東や浅田彰などの日本の現代思想との関わりを、千葉は指摘する。

 

それによれば、日本の現代思想は思弁的実在論を先取りしており、東のデリダ論である『存在論的、郵便的』(1998)における否定神学批判は、メイヤスーの相関主義批判と本質的に同じものであるとするのである。

 

千葉 つまり、『存在論的、郵便的』の試みとは、思考と世界の相関とその外部の不可能なものという構図があり、その不可能なもののさらなる外部、もうひとつの外部を探求していく試みだったのではないか。この二番目の外部が、思弁的実在論と東浩紀の共通の問題になっている。

 

これを受け、『存在論的、郵便的』を「哲学がとりこぼす物質性を探求した本」ととらえなおした上で、東は自らの立場を次のように要約している。

 

 哲学の歴史においては、素朴な物質性に直面することが、いつのまにか不可能なものに直面するという別の問題にすり替わることが反復されている。その反復から身をかわし、つねに世俗的なもの、身もふたもない単純さに立ち返らなければならないというのが、ぼくの思想なんです。

 

だが、東の議論はそこで止まることなく、「誤配」の哲学とのつながりを論じることになる。

 

ガブリエルは一角獣を実在とするが、東浩紀はそれを人間の中で不可避的に生じるエラー、誤配であるとする。さらに、『ゲンロン0 観光客の哲学』でとりあげた家族=ネーションについても、その文脈で語ることになる。

 

家族とそれ以外の境界はきわめて曖昧で、それはそのままネーションの境界につながる。ネーションの謎は家族の謎なのである。『ゲンロン0 観光客の哲学』の核心部分が明らかにされる。

 

 家族とネーションの問題とは、人間はなぜ境界をつくるかという問題、そのものです。『観光客の哲学』は前半で、友敵の境界の脱構築をテーマにした。だから後半では、ひとがなぜそもそも境界をつくるのか、そしてひとがどうしても境界をつくらなければならないだとすれば、その思想をどこまで自由なものに変えられるのかという話をしたかった。つまり、家族=境界の概念そのものを変えたかった。これはいま、政治的にも大きな意味を持つ試みのはずです。

 そして結論から言えば、ぼくは家族=ネーションとは一種の「誤配」、エラーだと考えたいわけです。けっして実在はしない。しかし同時にけっして逃れられないエラー。そのように自覚することで、ぼくたちは家族=ネーションの概念と、もっとうまくつきあうことができる。

 

「実在論化する相対主義ーーーマルクス・ガブリエルと思弁的実座論をめぐって」は、今日まで日本でなされた、思弁的実在論の、最もクリアで最も俯瞰的にして簡潔な解説である。それはマルクス・ガブリエル、ハーマン、メイヤスーの思想を位置づけ、それぞれの輪郭をわかりやすく伝えるだけでなく、日本の現代思想の思弁的実在論とのつながり、さらには東浩紀の『存在論的、郵便的』から『ゲンロン0 観光客の哲学』に通底する思想の核心部分まで明らかにする。まさに「神回」と呼ぶにふさわしい対談なのである。

 

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