つぶやきコミューン

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坂口恭平『家の中で迷子』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略                     ver.1.01

 

 

坂口恭平の最新小説『家の中で迷子』(新潮社)は、いつもの部屋のイメージから始まる。

 

けれども、何かが違う。何かが違う時には、現実とは異なる別の世界が感じられる時である。けれども、『ナルニア国物語』のように、いきなり家の衣装ダンスを抜けて、向こう側の別世界に行けるわけではない。バンクーバーのガスタウン周辺の本屋から始まる『ネバーエンディングストーリー』の映画のように、いったん街中へ出る必要があるのだ。

 

迷子であると感じた時に蘇るのは、四歳の時の記憶だ。しかし、それは果たして記憶なのだろうか。坂口恭平はかつて『現実脱出論』の中で、こんな風に語ったことがあった。

 

 四歳の記憶を思い出すのではなく、四歳の自分に声をかけるように鍵盤を弾く。すると、四歳の自分は「僕ならこうするね」とアイデアを出してくる。(『現実脱出論』p76)

 

記憶の再現というよりも、自分の中にあるキーの一つを弾くと、自然に四歳の自分が語り出す。

 

  ふと、四歳の頃、福岡の天神で迷子になったことを思い出した。

  天神には大きな地下街がある。テンジンチカガイと口にしていたが、本当に地下街だとは知らなかった。歩いていても、そこが地下街だと感じたことは一度もなく、城に続く道だと思い込んでいた。p6

 

家族からはぐれ、母のスカートがあると思った店の中にいつの間にか入りこむ。そこで、白髪のおばちゃんに出された麦茶を飲み干すと、『不思議の国のアリス』のアリスのように、世界は変わるのだ。試着室の奥は森に通じていた。

 

そこで、手を引かれ、森へと導いた老人の名前はトクマツと言った。

 

入り込んだ世界は、この世の法則が通用しない世界である。

ひとも、ものも、神羅万象が別の何かへと生成変化する。

とりわけ優勢な存在は水だ。水は、この世界のエーテルのように、さまざまな場所を流れ、満たし、運ぶ存在だ。

 

「お前は水になったんだよ」

「水に?」

「生まれて初めて見た景色なんて言うもんじゃない。お前はそこから分かれていっただけで、その枝葉の一つにすぎん。(…)

p28

 

自分と他者の境界も存在しない。そのため一人称単数の代名詞は回避される。

内部と外部の境界も存在しない。他の生き物が自分の頭の中に住んでいることもあれば、自分が他の生き物やものの中に存在することもある。

部分と全体の区別も存在しない。部分は、成長して別のものの全体になることもある。

 

この世界を司るのは、偶然だ。偶然が一つの回廊をなしている。

 

しかし、出会う人も、生き物も、モノも、すでに自分の中に存在していたものだ。

 

すべての出会いは再会なのだ。トクマツは言う。

 

「これからもいろいろんなものと出会うが、それはお前が離れなかったものだ。はじめて会ったんじゃない。不思議でもなんでもないことはお前がよく知ってるはずだ。お前は何年もここにいる。だから、もう知らんことなんか一つもない。ただ出会うだけだ。頭の中だけで考えようとするから、すぐ茂みに逃げていく。お前が見たものは、すべて再会で、続きだと思えばいい。(…)p12

 

通路としての自分。人も生き物も、モノも、そこを通る時に目の前に現れ、再会するのである。

 

思い出されるものは、すべて自分から通じる内的空間の存在である。

 

「思い出すことがあれば、それがどんなに荒唐無稽でも、お前の一部であることは忘れるな。思い出すのは、思い出せるからで、思い出すということは、それはお前の中にお前じゃないものがいる兆しだ。それは自分の記憶じゃない。(…)」p36

 

トクマツの次に出会ったのは、アゲハという女だ。彼女は言葉をしゃべらず、指で字を描く。

 

 アゲハは右手首をもったまま、手のひらに指で文字を書きながら対話を続けた。

 穴の中は真っ黒なままだったが、彼女が「みずうみ」と書けば、途端に湖の姿があらわれた。

 p44

 

この世界では、文字や絵、そしてそれらが表現するものの境界も存在しない。

 

言葉をしゃべらないけれど、アゲハは歌を歌うことはできる。

 

 さびたかんかん

 てにもって

 ほらぜんぶ

 すいせいのよう

 しびれ

 けいれん

 へばりこむ

 さんざんてのばし

 せいどうき

 きがくるいそうだ

 

  そんな風に聞こえた。アゲハの声は、ただの音に近かった。石ころが転がる音や、流れる水どうしがこすれる音、穴を吹き抜ける風の低い音などに似ていた。人間が出せるような音ではなかった。それなのに、しっかりと言葉は聞こえてきて、頭の中には青銅の鐘が浮かんできた。pp49-50

 

アゲハの歌には、歌の根源的な姿がある。そして、『家の中で迷子』は、随所で詩や歌が挿入される歌物語ともなっている。

 

文字も絵も描かれた線としては等価である。

そしてすべての線は、容易にそれが想起させるモノや生き物へと生成変化する。

 

頬にトゲが何度か刺さった。指で拭うと、血はすぐに乾いた。浮き上がった指紋が動き出し、ミミズかと思ったが、よく見ると鱗があった。それは縞模様のウミヘビだった。ウミヘビは何匹も指の上を動いている。風呂の排水口にたまった長い髪の毛みたいだった。舌でなめると、ウミヘビは四方八方へ逃げるように消えていなくなった。pp10-11

 

『家の中の迷子』では、言葉がアニメーションのように連鎖し続ける。言葉には魂(アニマ)が宿り、それは動く中でけもの(アニマル)へと変わる。プリミティブな社会に見い出されるような言葉のアニミズムだ。

 

アゲハに続いて、コンパス売りのハジやよみびとのイシに出会いながら、一層水で満たされた世界へと舞台は移ってゆく。

そこはル・グインの『ゲド戦記』のいかだ村を思わせる舟の集落によってつくられた島、舟島であった。

 

『家の中の迷子』は、ダイレクトに神羅万象が生成変化する神話的イメージへとジャンプするわけではない。それは、意識から無意識へ、そして集合意識へと至る、いくつものレイヤーを接合しながら作られているのである。

 

家の自室から、家族に連れられた天神の地下街へ、いつのまにか移動したように、家族のレイヤーの隣には、福岡や熊本の地域と人々のレイヤーが存在し、この世界の一部を構成している。

 

さらに後半で現れる美しい鹿のイメージは、『もののけ姫』から抜け出したシシ神のようにも見えるし、物語で重要な役割を果たすネズミは、実は『けものになること』に出て来たウォルト・ディズニーのネズミなのかもしれない。あるいは、『舟鼠』という坂口恭平の作品構想の中にあったものが、『家の中で迷子』へと発展的に解消されたのかもしれない

 

「ほら」

 イシは懐に手を突っ込むと、目の前に何かを差し出した。逆光で影しか見えない。

 よく見ると、それは一匹のネズミだった。

 イシはしっぽを掴んだまま、ネズミの顔をこちらに向けている。

「これはあんたの手柄だから、大事にしまっときな。もちろん、煮て食ってもかまわんよ」

「ネズミ?」

「そうだよ。お前が獲ったフナネズミさ」

p81

 

さらに、ムラサキ、サラサリンガ、ハグロトンボ、ゾウムシといった昆虫名だけは妙に具体的で、神話的な世界のようには見えない。潜在的に幼年期の昆虫採集のレイヤーも存在するのだ。

 

『家の中で迷子』は、異世界をめぐる旅人の冒険譚という王道ファンタジーのかたちをとっているが、それが目指すのは、『現実脱出論』で語られているように、波乱万丈の物語というよりも、私たちの感覚の向こう側に潜む別世界、内なる世界を描き出すことである。

 

しかし僕は、自分が体感した「現実とは別の空間」を伝えることこそが、「物語」を書くことだと捉えている。(『現実脱出論』p133)

 僕にとって「ものがたり」とは、あらすじを持った作り話なのではなく、感覚器官という扉の向こうにしっかりと存在している空間を、現実のもとにおびき寄せる行為のことを指している。(『現実脱出論』p138)

 

読者は、どのページを開いても、豊饒なるイメージの連鎖の背後に、私たちの感覚の裏側に潜む世界の手がかりを見つけることができるだろう。その世界に深く潜れば潜るほどに、身体の中に響く何かを、別の知覚を、別の空間を発見する。『家の中で迷子』はそんな本である。

 

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