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落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【後編】

JUGEMテーマ:自分が読んだ本            文中敬称略    ver.2.01

 

 

落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【前編】より続く)

 

4.コンピューテーショナル・ダイバーシティ

 

ある言語の単語の意味を、別の言語の語によって、完全に置きかえることはほとんど不可能である。それぞれの言語の語には、歴史の中で蓄積された明示的・暗示的な意味が含まれる。新たに単語を作り出すとしても、その単語はすでにある語や語素の組み合わせであり、元の語にはなかった含意をともなってしまう。落合陽一が、明治期の日本へと遡りながら、翻訳と外来文化の摂取の問題を取り上げるのは、まさにそれが脱近代の根幹に関わる問題だからである。

 

西洋より伝来した概念の多くは、日本の近代が成立した明治時代に発明された単語を用いて訳されている。

 

「文化」「科学」「意識」「思想」「観念」「社会」などは、昔からあった漢語の意味を変えたり、漢字を新しく組み合わせて作られた言葉だ。思考の根底をなす言語が急ごしらえで作られたため不安定である。西洋から伝来したこれらの概念は、西洋近代化の約200年に及ぶ歴史の中で醸成されている。しかしその翻訳語は、明治期の約30年の間に作られた。そのため、抽象的思考の道具とするには、数多くの欠陥を抱えているのだ。p163

 

たとえば英語の「Society」の訳語として採用された「社会」という言葉は、地域の神々の「社」を中心とした「会」合という意味を含むが、天皇制が国家の中心として機能していた戦前の日本での宗教的含意は、今日の日本ではすでに失われている。

 

西洋の「神」相当の概念として「天皇」を置き換えながらの文化的移植は、戦後の文脈ではもはや機能しなくなっているのである。

 

 戦後の日本人は、西洋近代的な概念を日本社会に上手く接合できないことに違和感をいだきながら、「神」概念を、その時々の上部構造――「アメリカ」や「金融資本主義」や「テクノロジー」に置き換えることでやり過ごしてきた。戦後社会の中で、日本語を再び現実に着地させるには、宗教倫理を前提としない言語を再発明するか、あるいは新たな宗教の代替物のもとに言語を作り変えていくしかなかったのではないか。p165

 

「アプリケーションドリブン」などテクノロジーに関する多くの語も、翻訳不可能で、仕方なくカタカナが用いられている。

 

外来の概念に無理に漢字を充てたことにより混乱が生じた例としては、「リアル/バーチャル」(現実 / 仮想)の対がある。「Virtual 」の正しい訳語は「実質」だが、「現実/実質」という対は、対比として機能しない。

 

これに対して、落合陽一が提案するのは、「物質的(Material)/実質的(Virtual)」という対だ。さらに両者に共通する情報を「本質」と考えることができる。

 

デジタルネイチャーの世界では、バーチャルな恋人やバーチャルな飲み会など「物質」と「実質」の間に、別の人物や機械の介入などの物質性の度合いによっていくつもの選択肢が可能となる。

 

こうした実質と物質の複合的な「オルタナティヴ」(選択肢)が、今後は増加するだろう。物質と実質の中間に、コンピュータによる生態系が作られ、そこに多種多様な亜種が出現するのだ。

 

人間と機械の横軸に、物質と実質の縦軸を加えれば、物質的人間(人間ー物質)、ロボット・アンドロイド(機械ー物質)、バーチャル化された人間(人間ー実質)、AI(機械ー実質)の4象限からなるマトリクスの中に、その段階に合わせて無数のオルタナティヴを位置づけることができる。

 

機械と人間との間に生じる無数のオルタナティヴには、「人間の標準」の概念を脱構築する豊かな可能性を持っている。これこそが、コンピューテーショナル・ダイバーシティの世界だ。

 

 「コンピューテーショナル・ダイバーシティ」とは、コンピュータによってはぐくまれた多様性、計算機による人的なリソースの強化や代替が育む多様性だ。機械ー人間の中間地点を取るオルタナティヴは、人間の機能の機械による補完や代替を可能にする。近代の標準的な人間観によって統一された世界から、パラメーター化を前提とした多様な価値基準を容認しうる世界への転換が進むだろう。p175

 

そこでは五体満足であることが「人間の標準」とされる過去の基準はもはや意味をなさず、視力不足を補うセンサーやディスプレイ、腕の欠損を補う高機能な義手といったオルタナティヴの集積が「一人分の人間」をカバーできるまでに、コンピューテーショナル・ダイバーシティは進化してゆく。そして、日本のような高齢社会のソリューションにもつながる。

 

ダイバーシティの考えは、一見民主主義の考えとは対立するように見える。民主主義は均質な標準的人間からなる集合を前提としているからだ。

 

 しかし、社会のダイバーシティが進むほど、多様な人間の分だけ価値観も細分化し、全員に納得度の高い結論を出すことは困難になる。例えば、この社会で民主主義を実現するには、「全体」と「ローカル」を分けて考えた上で、民主主義が機能する規模を調整し、「全体からの距離」を多数決によって決定するという方法が考えられる。p179


最終的には、コミュニケーションのスタイルが言語から現象へと変化すると、人間中心主義による意味論的対立構造も解消可能となる。テクノロジーによって、「標準の人間」を超えたレベルでの人間の解放を目指すべきなのだ。

 

人間が「標準的な人間」であることを前提として民主主義は設計されていたが、デジタルネイチャーの世界では、違いを持った多様な人が、コンピューターとのハイブリッド化することで、標準化することなく、より人間的な生活を送ることが可能となるのである。

 

 

5.未来価値のアービトラージと二極化する社会

 

第5章で提示されるのは、AIの発達がもたらす労働の変化だ。人類全体が労働から解放されるというようなユートピアは実現せず、第一章で示されたBI(ベーシックインカム)とVC(ベンチャーキャピタル)に二極化する方向へと向かう。

 

社会は、機械の指示のもと働く人間と、機械を利用して統計的分布の外れ値を目指しイノベーションに携わる人間に分断される。それによって、人々はAI+BI型の地域と、AI+VC型の地域に分かれて暮らすようになる。PP184-185

 

GoogleやAppleなどのプラットフォーム企業がAIによって得た利益を社会全体に還元することはなく、プラットフォーム利用者は常に売り上げの約3割を自動徴収され、搾取されている。

 

この格差は今後ますます拡大し、世界を労働から解放された<楽園>側と、プラットフォームに徴税される<奴隷>側に二極分化するだろう。p186

 

両者の違いは、AI+BI型が自らの労働力を時間単位で切り売りするのに対し、AI+VC型では時間軸方向にアービトラージ(裁定取引)を行うことで価値を創出するということである。元手はゼロでも、未来で得られる資本を過去へ転換するという考え方だ。

 

通常の物理的なてこの原理(「空間的てこの原理」)を第一のてこの原理とすると、AI+BI型で使われる仕事量に時間をかける「時間的てこの原理」は、第二のてこの原理であり、この「時間方向のアービトラージ」は第三のてこの原理である。

 

 高度に発達した資本主義経済の市場は、実質的にゼロサムゲームとなる。市場全体の富の総量は一定で、誰かが得た富は必ず誰かが失っているというルールだ。しかし「第三のてこ」によって、未来価値を現在に転換できれば、市場全体の冨が拡大し、ゼロサムゲームではなくなる。そして、富の源泉は未来に限らず、月を開拓したり、火星から資源を持ってきてもいい。要するに、新しいフロンティアを見つけ、それを資源と資本の評価軸に乗せることが大事なのだ。pp190-191

 

第三のてこは、トークンエコノミーにより、個人の冨にまで対象として新たな価値創造を行う。ICOやブロックチェーンによって、計算機自然の分散系はプラットフォームに伍する戦いを可能とする。

 

二極化した格差社会は今目の前にあるディストピアだ。プラットフォームの「帝国」が問題である。

 

 今後は、最低限の労働で収入を得られる社会、いわば選択の制限された<楽園>に暮らす層と、それ以外の貧困層に分かれていくだろう。前者では帝国的なプラットフォームが世界中からコミッションを徴収する仕組みによって、人々は働かずに豊かな生活を送ることができる。一方、それ以外の世界では、AIやロボティクスの普及により人間に固有の仕事は大幅に減るが、そこに暮らす人々はシステムに取り込まれて生活することになる。p192

 

さまざまなカテゴリーに分散したデジタルネイチャーの問題意識を整理することに終始していたかに見える落合陽一が闘争的になるのが、第4章のダイバーシティの問題であり、もう一つは「オープンでフェアなゲームをいかに可能にするか」という問題である。

 

  今、我々の世界を支配しているのは、オープンでフェアなゲームではない。オープンでフェアなゲームーーーそれは、かつての黎明期の「IT」にあり、それ以前は黎明期のマスメディアにあったともいわれていいる。現在ではまったく想像もつかないことだが、戦後、マスメディアがオープンネスとフェアネスを体現していた時期があったのだ。そして民主主義の自浄作用を担うものとしてマスメディアは働いた。しかし、それはやがてテレビ的なポピュリズムに変化し、政治と世論の情報複合体を作り出した。その権力構造を覆しうる新しいゲームとしての登場したのがインターネットだったが、現在ではそのインターネットによって新しい帝国が築かれつつある。すなわちGoogle、Apple、Amazon、Facebookといったプラットフォームの勃興だ。現座、フェアでオープンなゲームは、マスメディアの中にもインターネットの中にも見出すのが難しくなっている。pp193-194

 

私たちは<楽園>の側にわたることを夢見るべきだろうか。そのためにはM&Aで「帝国」によって買収されるか、新たなプラットフォームの「帝国」をつくりだすしかなく、ほんの一握りの人しか可能でない道だ。

 

  この帝国がもたらす支配と閉塞に風穴を開け、状況を覆す可能性があるのが、オープンソースの思想だ。実際に、プラットフォームに対抗するための動きは、既に一部で始まっている。p194

 

近代的なIT帝国を超克する試みとして、慶応大学の環境情報学部教授脇田玲が提唱する「ラボドリブン」という概念を落合は挙げている。

 

 研究や開発の自由度が上がっている現在は、小さなコミュニティ、つまり「ラボ(研究室)」をいかに作るかが重要になる。そこはコミッションを徴収する帝国的なプラットフォームとは真逆のオープンな世界観であり、生み出した価値は無償で提供される。p194-195

 

オープンソースやトークンエコノミーといった非中央集権的な最適化による少数のプラットフォームの寡占の超克、「穏やかな世界」の到来も、またデジタルネイチャーの一部なのだ。

 

 

6.全体最適化された世界へ

 

デジタルネイチャーをめぐる長い旅も終わりに近づこうとしている。第6章は、デジタルネイチャーの全体の定式化、落合陽一の主張が集約された白眉の章だ。デジタルネイチャーのもたらす未来像という結論を知りたい人は、(積読になるくらいなら)この章をまず読んでしまった方がいいくらいだ。

 

 計数機的自然、すなわち<デジタルネイチャー>とは、人間中心主義を超えた先にある、テクノロジーの生態系である。そこでは<人類>と<機械>の境目、生物学と情報工学の境界を越境した自然観が構築されるだろう。p204

 

デジタルネイチャーは、「市場という自然」「データのもたらす自然」「三次元的オーディオビジュアルの自然」の三層のレイヤーからなる世界である。

 

ゲノム情報の編集技術が進むと、先天的な障碍や疾患を、遺伝子レベルで解決できるようになる一方で、均質性へと向かい、多様性が失われた結果脆弱性が生じる。新たな多様性は、テクノロジーによる身体や感覚器の拡張によってもたらされる。

 

しだいに人間の身体の一部はデジタルによって置き換えられ、身体の物質性と実質性の境界があいまいになる。家に寝転がったま大半のことはできるようになるかもしれないし、自宅から職場のロボットを動かすだけで仕事を済ませるようになるかもしれない。

 

 人間がロボットを操作する、あるいは、人間が機械に操作される、さらには、仮想の世界で物事が完結するーーーこういった世界では、<物質>と<実質>は、ほとんど等価になる。同時に、現実と虚構の区別もつかなくなるだろう。p208

 

デジタルネイチャーが生み出す変化によって、単に私たちの身体のみならず、精神も大きく変化することになる。

 

 <近代>が作り上げた、自由意志の存在を前提に権利を設定し、それに基づいた幸福を追求する世界は、いずれ終わりを迎える。そして、<人間>や<権利>といった価値観の枠組みから解放された幸福が、コンピュータによる生態系の中で自動的に「自然的に」生成される時代が訪れるだろう。p210

 

個人の「死」の後にも、twitterのbotはつぶやき続け、生前の情報のデータベースから言葉を生成し続けるようにならそれは「死」と言えるだろうか。私たちの考えていた「人間性」の概念も、脱構築されるだろう。

 

人間を「情報」「意識」「身体」の三層で考えると、「情報」はAIによって個人に最適化した結果、「意識」は特定分野での先鋭化が進み、島宇宙化する。そして「身体」は均質化する。その多様化の喪失を補完するものとしては、外部化した知性としてのインターネットが役立つだろう。

 

さらに、人間の生物学的寿命を超越した知性も登場するようになるだろう。そのモデルたりうるのが、二十年ごとの式年遷宮のたびに同じ工法で建て直されるの伊勢神宮の建築だ。

 

伊勢神宮は、ハードウェアのコピーに準拠したことで、人間の知性を超越した永続性を可能にしているのだ。p216

 

章の終わりに、オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』やジョージ・オーウェルの『1984年』が提示する世界像との対比の中で、AIが進化したデジタルネイチャーの世界がユートピアなのか、ディストピアなのかが検討される。

 

もちろん、落合陽一の答えは肯定的だ。

 

 コンピュータがもたらす全体最適化による問題解決、それは全体主義的ではあるが、誰も不幸にすることはない。

 全体最適化による全体主義は、全人類の幸福を追求しうる。

 現在の世界の枠組みを超越するための「新しい<自然>」の発明、これはその始まりに共有されるべき新しいビジョンなのだ。p221

 

『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した侘と寂』は、落合陽一の最高傑作であるだけでなく、2018年というこの時期における日本語による最も高い到達点の一つであり、世界レベルの名著である。こうした言葉を大げさと思う人がいるかもしれないが、それが単なる誇張なのか、実体をともなった正当な評価であるかは、英語や中国語への翻訳、その反響や影響の大きさによって明らかになるだろう。

 

『デジタルネイチャー』の偉大さは、何かの革新的な主張というよりも、科学技術、経済、思想、アートといった多分野にひろがる問題意識を、「デジタルネイチャー(計数機的自然)」の名のもと集約して、統合的に語る場を形成したことにある。賛成者、反対者、継承者、発展者、他分野へのアダプターが何万と生まれ、それが世界的な議論の場を形成するキーワードとなることは間違いない。メディアアーティストや科学者として知られた落合陽一が、さらに一人の思想家として認められることは確かである。

 

それが、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』のような世界的ベストセラーたりうるかどうかは、翻訳のスピードと、海外展開のマネジメントやプロモーションしだい。それだけのポテンシャルを持った本であると言えるだろう。


PS 『デジタルネイチャー』はさらに続く。「終章 思考の立脚点としてのアート、そしてテクノロジー」では落合陽一の初期のメディアアート作品『Human Breadboard』から、最近作の『Morpho Scenery』や、あるいはBS-TBSの番組『夢の鍵 #86』でも紹介された『耳で聞かない音楽会』などが紹介され、そのテーマやメッセージが落合自身によって解説される。

 

『魔法の世紀』で紹介された落合の作品群との大きな違いは、『耳で聞かない音楽会』や『Telewheel Chair』のように、人間の知覚や身体機能を補完するため、アートというよりも福祉や医療などの分野に足を踏み入れた作品がしだいに増えていることだ。それは、そのまま第4章で紹介されたコンピューテーショナル・ダイバーシティの実装であるだろう。補完するというと、あたかも不足部分をコンピュータによって補てんし、「標準」的な人間に近づけるイメージを抱きがちだが、たとえば『耳で聞かない音楽会』の場合、実際に行われているのは音楽を聞く手段として聴覚ではなく視覚と触覚を動員するということであり、新たな選択肢(オルタナティヴ)の発明なのだ。この場合、標準からの偏差がそれによって拡大することはあっても、縮小することはない。また、この新しい体験から健常者が排除されることもない。

 

我々はデジタルネイチャーの向こうに、高齢者、身体障碍者と健常者という分類がなく、個々人が多様性を維持しながらも快適に過ごせる社会を目指している。p245

 

重要なのは、一つ一つのアート作品そのものがデジタルネイチャーの生成のプロセスとなっていることである。そのたびに新しい技術が生まれ、見えなかったものが形をとって、つまり実装されて現れる。手を動かし、モノを作ることの重要性は、一つの作品が現れるたびに、ビジョンが共有され、主張は強化され、文脈がより説得力を持って語れるようになるということなのだ。

 

(…)これからは実践者としての価値が今後、思想と共に重要になるだろう。考えながら手を動かし、思想を語り、波を作る必要がある。(p276)

 

終章に続く「あとがき」では、『Silver Floats』のステイトメントとロバート・キンセル、マーニー・ぺイヴァンの『YouTube革命 メディアを変える挑戦者たち』の解説を再構成しながら、デジタルネイチャーの現在を実例とともに語っている。

 

また、第2章、第3章、第5章の末尾で挿入されるコラム「魔術化とフェイクニュース」「日本戦後デジタルカルチャー史を比較する」「デジタルネイチャーの学習論」は、本来本文中にあった部分を、文脈整理上、分離独立させたものであり、それぞれに語るべき価値のある文章(だがここでは割愛)、ほどよい長さでまとまっているので(本文ともども)高校や大学の入試問題にも出題されるかもしれない。

 

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落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【前編】

 

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ロバート・キンセル、マーニー・ぺイヴァン『YouTube革命 メディアを変える挑戦者たち』

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