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落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【前編】

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

心地よく流れ出す文章は、SF小説の冒頭のようだ。新たなテクノロジーによって覆われた未来社会における日常生活のイメージを、人類はいくたび描いてきたことだろう。だが、大きな違いはそれがすでに私たちの周りに現存しているということだ。それを、当たり前のものとして受け入れてしまっている日常の表層を、テクノロジーの言葉によって描写しながら、落合陽一が再提示するとき、この奇妙な言語は生まれる。

 

  静止しているようにも感じられるが、速度計によれば、確かに時速40km。淡い乳液のようなミー散乱の中を、僕は走っている。空間のいたるところで発生する光の散乱は、ハイビームとその影による直線を空気中の水粒子に描き出し、色を持たないフォトンの影を黒色のビームのように錯覚させる。山中の冷ややかな空気の中、僕は可視光の海の中にいる。均一に濁った、それでいて波を感じないほどに穏やかな、さらさらとした海だ。p11

 

デジタルネイチャー(計算機自然)は、すでに私たちの周辺で、結晶化を始め、たえず進化しつつある。より複雑で、高度なものへと、不可視なブラックボックスをともなった魔法めいたものへと変容しつつある。けれども、主体と客体、人間と自然とのあいだに引き裂かれた形而上学の伝統にルーツを持つ西洋近代知の限界ゆえに、それを記述する言語はこのテクノロジーの変化に追いついていない。そこに落合陽一に苛立ちがあり、この『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』を執筆するモチベーションも存在するのだろう。

 

人びとは、ある時はユートピア的に、あるときはディストピア的に、コンピュータテクノロジーが日常生活の隅々にまで行き渡った世界像を、フィクションとしてあるいは社会理論として描き続けてきたが、そこで起こっている事象を、正しくとらえ表現する言語をまだ手に入れてはいない。そこで生じていることは、単なる機械の人間生活への侵入や支配ではなく、人間の知覚と思考の本質的な変容なのだ。

 

一言でいえば、コンピュータテクノロジーとともに人間が生み出した数々のデバイス、モノは、新たな自然となって、人間以前の自然と区別不可能な存在として、人間と共存するどころか、人間そのものの一部となって共生・融合しながら、進化し続けるということなのだ。

 

  遠からぬ未来、人類はフォトンと空気振動が媒介するネットワークへと接続される。それはイルカやクジラといった海洋哺乳類が、超音波による音響通信とエコーロケーションを、<海>の媒介によって可能にしているのと、よく似ている。そのとき人類は、視聴覚が完全に被覆された<デジタルの自然>へと至るのだ。p15

 

最先端の科学的知見に基づいて語られるデジタルネイチャーの世界だが、その着地点は<近代>以前の東洋の世界をヒントにしていることが告知される。ドイツ語によるフリードリッヒ・フォン・シラーの詩句に続くのは、荘子の『斉物論』であり、芭蕉の「古池や」の句なのだ。

 

  <自然>と<デジタル>の融合。寂びたデジタルが行き着く<新たな自然>。それは東洋文明が育んだ感性を端緒としたイノベーションになるはずだ。唯一神を持たず、近代的な<主体>や<個人>の概念に囚われない古典から接続された東洋的エコシステムは、思考や情報のトランスフォームをさまざまな形で可能にする。p14

 

けれども、このデジタルネイチャーをめぐる冒険は、同時に西洋のさまざまな国と時代へと旅することだろう。第一章では、19世紀末から20世紀初頭のアメリカという発明の国へ、第二章では20世紀後半のアメリカという科学の国へ、そして第三章では19世紀から20世紀初頭のドイツという社会科学の国へと旅しながら、そこで発見した知見を現在に結びつけることで「来たるべき新世界」を予見するという構成をとっている。これら三つの章は、いわばデジタルネイチャーを発見するための<バック・トゥー・ザ・フューチャー>なのだ。

 

 

1. デジタルネイチャーとは何か 

 

コンピューターテクノロジーが高解像度化し、世界のあらゆる事象を記述するようになると、それまで当たり前だった「自然」「人工」の対立軸にゆらぎが生じる。データの上で区別がつかなくなるのである。人間を含むあらゆる情報がコンピュータの中にある自然として存在するようになる。これこそが、デジタルネイチャーの世界である。

 

  人間による人工物として発明されたコンピュータが、その内部に人間の解像度に十分な自然を再現することで、<人工>と、<自然>の両方を再帰的に飲み込みつつあるのだ。p39

 

並行して扱うべき問題として、脱近代の問題がある。フランス革命以来の「近代」が定義するのは、「人間」「社会」「国家」といった枠組みであり、耐用年数を超えたこの「近代」の枠組みの超克は度々語られてきたが、決定打となるものはなかった。落合陽一は、近代をイデオロギーによってではなく、テクノロジーの側面から乗り越えようとする。資本主義という経済的イデオロギーや市民社会という政治的イデオロギーが成立した背景には、産業革命というテクノロジーの刷新があったからである。

 

テクノロジーの面から、近代を考えるために、最初に落合が取り上げるのはトーマス・エジソン。あまりに未来的であるために当時はビジネスチャンスに結びつけることのできなかった彼の発明の多くは、今日ようやく実用化されつつある。発明家というよりもメディアアーチストと呼ぶにふさわしいエジソンの足跡をたどることによって、近代を超えるヒントを落合陽一は見つけようとするのである。

 

 そしてエジソンは、そのメディアアーティスト性ゆえに、<近代>の創始者であると同時に、<近代>を超えるイマジネーションの持ち主でもあった。p42

 

たとえば、今日のVRデバイスに相当する「キネトスコープ」はリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」によって取って代わられ、その後の世界の趨勢となることはなかった。オキュラスリフトなどのVRデバイスがトレンドとなるまでに約120年を要したのである。蓄音機を発明した際も、エジソンが想定したのは、口述筆記目的や、死者の発言の記録、授業の録音など、時間差コミュニケーションに関わるものであり、演奏の録音には消極的だった。生前脚光を浴びなかったエジソンの考え方は、はるか未来を先取りするもので、それゆえ近代の枠組みの外側を考えるのに役立つのである。

 

エジソンと並んで重要なのが、自動車王ヘンリー・フォードである。エジソンとフォードは、電気自動車の試験運用を行い、時速40キロ、一回の充電での連続走行距離100キロという記録を残しているが、電気自動車ではなくガソリン車にシフトしたのはフォードの類稀なる経営感覚によるものだった。

 

 エジソンの発明とフォードの量産。この産業の両輪が揃うことによって、メーカーという概念が生まれ、電化製品や自動車の大量生産が進んだことで、マス(大衆)という概念が一般化し、バウハウスを経て、デザインという発想が生まれた。p50

 

ここで生まれた境界を、「エジソン=フォード境界」と落合は呼ぶ。私たちの周囲の製品は、性能こそ向上したものの、その道具としての本質的価値は変わってはいない。しかし、「近代」を定義するこの制約を超える技術が次々に現れている。その特徴は「体験の自動化・三次元化」であり、「生産の個別化」である。

 

近代社会は、規格化された立方体を積み上げピラミッドを積み上げようとしてきたが、コンピュータがあれば、リンゴやバナナのような不揃いな物体でも、崩れることなくピラミッドを積み上げることが可能になる。

 

徳川時代の江戸の町も、そのゴミを多様な素材として生かす方法など、近代以前の多様性を考えるモデルとして機能する。

 

近代を超える脱近代社会の可能性は、ノーマライゼーションをパーソナライゼーションへと置き換えるコンピュータによって開かれる。落合陽一はこの局面を見事に要約している。

 

 近代は「人間」という概念を発明し、産業革命に合わせ、産業の要請から、人々をその基準に画一化すること(ノーマライズ)で個体能力のばらつきによるコミュニケーションや前提知識のなどの非効率性を乗り越え、機械との親和性を高めることで生産力を飛躍的に増大させた。しかし、現在はテクノロジーの進化によって、低いコストで個別化(パーソナライズ)できる。前近代的な多様性を維持したまま、同時に全体が効率化された社会、それは、コンピューテーショナルな価値の算定と交換、環境に合わせた最適化問題解決によって初めて可能になる。p57

 

「近代以前の多様性が、近代以降の効率性や合理性を保ったまま、コンピュータの支援によって実現される」デジタルネイチャー的世界での人々の生活は、コンピュータの管理下で安定したBI(ベーシックインカム)的生き方と、リスクを引き受けながらイノベーションをもたらすVC(ベンチャーキャピタル)的な生き方へと二極化することになる。

 

「人間」と「労働」のありかたも再定義される。機械が単純労働を代行するようになると、人間に残されるのは、知的な頭脳労働だ。しかし、集中力が必要な頭脳労働では、単純な時間計算が通用しない。

 

  今日、知的生産に携わる人間は、時間労働によって身体的に疲弊するのではなく、頭脳の処理による負荷で疲弊している。問題は「時間」よりも「演算ストレス」であり、近代が「タイムマネジメントの時代」であったのに対して、現代は「ストレスマネジメント」の時代なのだ。そこで求められるのは、ストレスをマインドセットから除外し、いかにストレスフリーの環境で働くかという発想だ。p64

 

以下、落合陽一の『これからの世界をつくる仲間たちへ』や『超AI時代の生存戦略』ですでに語られたコンピュータにないものとしてのモチベーションの問題や「ワークアズライフ」の考え方へと接合される。

 

 

2.人間機械論、ユビキタス、東洋的なもの

 

第二章で落合陽一がまず取り上げるのは、主著『サイバネティクス」で人間と機械の区別があいまいになる時代を予見したノーバート・ウィーナーだ。ウィーナーは「出力された結果を入力側に戻して目標値に近づける」フィードバック制御の考えの提唱者として知られる。ウィーナーは、AIの登場も予見し、その方法論も考案したが、インターネットのない時代の技術的制約があった。「並列計算の高速化」「ビッグデータ」「アルゴリズムの改良」といった三つのブレイクスルーを手に入れた私たちは、ウィーナーの考えをさらに先へと進めることができる。

 

 人間とプログラムのネットワーク上の入出力行為は、その後の数理処理的には等価であり、両者にデータ価値の差は小さい、というのがサイバネティクスを内挿すると現れる発想だ。そして、数理モデルと実装が融合することによって、計算機上の人為(人間の為すこと)はモデリング可能になり、人間とコンピュータはある程度システムの中で交換され、そのすべてがインターネットに接続されている、という世界観は、既に実現しつつある。p82

 

ウィーナー亡き後、あらゆるモノがコンピュータ化し、相互に情報通信することで、人間の周囲の環境そのものが進化していく「ユビキタス」という考え方を提唱したのが、マーク・ワイザーだ。「デジタルネイチャー」は、ウィーナーのサイバネティクスとワイザーのユビキタスを継承発展させた思想なのだ。

 

つまり、西洋近代の人間中心主義による「<人間>の超人化」と「人間のための環境(モノ)の進化」という発想に対して、「<人間>の脱構築」と「環境的知能の全体最適化」、つまり「<自然>としてのコンピュータ」のエコシステムの構築を目指し、その超自然にそれぞれ不可分に内包されるのがデジタルネイチャーである。p87

 

コンピュータと人間の間の相互通信によって生まれる場が「コンピューテーショナル・フィールド」だ。それは華厳(経)の言葉で、「理事無碍(万物はひとまとまりであり相互に縁起によって関連している)」と呼ばれるような世界である。その際、波動(ホログラム)と物質(アナログ装置)と知能(デジタル演算)の三重の関係性の中で、人間と機械を同一なものとして扱うことができる。理事無碍に関しては、以下落合陽一のメディア・アートの近作にも通じる解説がなされるが、簡略な要約は不可能であるため割愛する。

 

コンピュータ技術の進化は著しく、それまで不可能だった光・音・磁場・空気・電波に至るまで情報化が可能となり、それらはスマートフォンやSiri、Amazon Echoにも応用されている。その結果、私たちはコンピュータによって処理された自然環境を生きるようになっている。その先にあるのは、スマホが個人のさまざまな生活情報記録するような、コンピュータが人類の補集合となる世界である。さらにコンピュータが会話のイントネーションやニュアンスを補完する世界、言語以外の手段でコミュニケーションを行う世界が来るだろう。

 

人間のコミュニケーションの限界は、言語の限界である。言語を介する限り、その枠組みに縛られ、元の現象にあった多くの情報が失われてしまう。

 

 言語で記述した瞬間に、その枠組みに規定され、その裏にある非論理的な現象空間、生のデータで表現されるものに接続する回路が無意識になる。「現象 to 現象」の多大な可能性が、言語化した瞬間に人間に理解不可能な空間へと縮減されてしまうのだ。pp104-105

 

しかし、ARやVRの進歩で、コミュニケーションの手段が進化すれば、言語を介さずに空間そのものを伝えることができる。イルカやクジラのように、「現象 to 現象」のコミュニケーションが可能となるのである。『情熱大陸 科学社・落合陽一』の最後で紹介されたイルカのコミュニケーション技術の研究も、このような未来的ビジョンのもとに位置づけられるのである。

 

 

3.オープンソースの倫理と資本主義の精神

 

共産主義という資本主義の富の偏在を超克する試みが失敗する一方で、インターネットの登場を契機とした資本主義の変貌が顕著である。ベーシックインカム、オープンソース、クラウドファンディング、ブロックチェーンなど人間の信頼を可視化する評価経済や非中央集権型コンピューティングによるエコシステムの枠組みが広がりつつある。第三章では、<近代>における社会構造を読みといたカール・マルクスやマックス・ウェーバーの思想に立ち返りながら、このような最近のエコシステムが社会構造をどのように更新しようとするのかを考察する。

 

弁証法に基づく唯物史観を説いたマルクスは政治的上部構造は、経済的下部構造により規定されると主張し、ウェーバーは資本主義に形成の過程によるプロテスタンティズムの役割を強調した。その延長上に、落合陽一はオープンソースの精神を置こうとする。

 

(…)デジタルネイチャー化する世界において、このプロテスタンティズムに対応する共通プロトコルとしてのイデオロギーに与するのはオープンソースの精神である。この精神が資本主義の変化を促す際に、重要な役割を果たすのはブロックチェーンなどの価値の保証のためのテクノロジーである。このときマルクスの言う下部構造とはテクノロジーそのものである。つまり、テクノロジーとそれを受容する人間側の相互作用によって、現代の資本主義は変化しつつある。テクノロジーと人間は新たな生態系を為しているといえるのだ。p121

 

今日インターネットサーバーの通信プロトコルに関する基礎技術のほとんどを占めるオープンソースは、開発者の著作権表記を保持しつつも、誰でも改変・再配布可能な仕組みである。ソースコードの公開、改変、配布の自由は、一種のイデオロギーとして世界中の開発者に共有されている。オープンソースはスタートアップのベンチャーにとってはマネタイズの障壁になるが、いったんインフラが発達すると、エコシステムの活発化につながる。資本主義の精神を推進するものは、もはやプロテスタンティズムではなく、プラットフォームから次のプラットフォームへと資本の再投下をもたらすオープンソースの精神に他ならない。

 

 そして今日においては、プロテスタンティズム的な宗教的支柱の代わりにあるもの、我々の社会の下部構造としての資本主義を、さらにその外側から規定しているのは、「オープンソースの倫理」だ。その相補的エコシステムが自然化している。p126

 

しかし、オープンソースが拡大した世界は、実際には、共産主義的になるどころか、イノベーションが短期間でリセットされ、常にゼロベースの競争を強いられる市場原理の極限の世界となっている。たとえば、一時商品たりえた「絵文字アプリ」がプラットフォーム上で標準搭載されると、社会的インフラの「下駄」の一部となり、その商品価値を失う。このプロセスをそのまま延長してゆくと、20世紀の全体主義とは異なる、新たな全体主義に行き着くのだと落合陽一は言う。

 

オープン化したソフトウェアがもたらした、万人に開かれた知識と技術の「下駄」。それに追従する人間が多いと、インターネットは全体主義的(機械知能と人間知能の相互干渉による全体最適化システム)になっていく。これはレイ・カーツワイルの言った技術的特異点(Techinological Singularity)に通じる議論だ。新しい知見はすぐに普及してその価値を失う。新技術の登場とコモディティ化が短期間で繰り返される社会となっていくだろう。p132

 

オープンソースの思想がそれほど力を持たなかった場合には、従来の資本主義の道を歩み、知識や技術は集中され、プラットフォームは拡大を続けることになる。ベーシックインカムが意味を持つのは、オープンソースが支配的となった社会においてのみである。

 

現在のところ、拮抗している「オープンソースの精神」と「資本主義の精神」だが、その行き着く先は、オープンソースの過剰によってバブル崩壊のような信用低下をもたらすこともあるし、またAndoroidoやApp Storeなど社会的インフラとなったプラットフォームを、資本に依存する状態の不安定さも無視できない。紆余曲折を経たその先に予想されるのは、トークンエコノミーやブロックチェーンの利用による非中央集権型のオープンソース資本主義である。

 

オープンソースは、単にインターネットやコンピュータの世界だけでなく、ゲノム編集やiPS細胞の製造といったバイオの分野やハードウェアの分野など、他の分野にも拡大しつつある。

 

 こうした変化は、オープンソースの思想が社会全体に行き渡り、さまざまな分野で知的なインフラの整備が進みつつあることを示している。資本主義から分化したオープンソースが下部構造となることで、資本主義ーオープンソースの相互作用が形成される現象が、あらゆる情報産業でも生まれ始めているのだ。p142

 

オープンソースの普及によって、新たな発明や発見の実用化は早まり、トークンエコノミーやブロックチェーンの発達で、資金調達は容易となり、株式市場への依存度も低下する。その先にはあるのは、「人間知能と機械知能の全体最適化」による新たな全体主義である。

 

 いずれあらゆる価値は、分散型の信頼システムとトークンエコノミーの価値交換手法によって技術に対しての投機マネーと接続され、オープンソースと資本主義の対立は、より密な経済的連携によって安定した構造へと軟着陸するだろう。それは新しい全体主義の形であり、そこでは西洋的なピラミッドではない、東洋的再帰構造からなる「回転系自然なエコシステム」が形成されるはずだ。p148

 

インターネット内外でのオープンソースの倫理は、トークンエコノミーやブロックチェーンなどの分散型経済システムとの相乗作用の中、経済においてデジタルネイチャー(計数機自然)的な環境を形成するのである。

 

続く第四章では、明治期に行われた「近代」を規定する概念語の再検討より始め、デジタルネイチャー化がもたらす人間の身体性と倫理観の変化、さらには民主主義の未来を考察することになる。(【後編】に続く)

 

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関連ページ:

落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【後編】

 

『情熱大陸 #978 「科学者・落合陽一」』スーパーダイジェスト

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