つぶやきコミューン

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岸政彦『はじめての沖縄』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略                    ver.1.01

 

 

岸政彦『はじめての沖縄』(よりみちパン!セ)は、私たち=「ナイチャー」(本土人)という視点で書かれた沖縄論だ。

 

それは社会学や哲学、現代思想の主流である境界線を曖昧にする流れに抗し、あえて境界線を意識し、その手前にとどまるというスタンスで書かれている。

 

境界線を越境するという物語は美しく、感動的であるが、ほかならぬその境界線そのものが「物語」を生み出しているのだという事実から私たちは目をそむけてはならないのである。

 

  もし境界線が易々と乗り越えられていく物語を、当の境界線を「構造的に押し付けている側」であるマジョリティの人びとが語ってしまった場合、自らが押し付けている壁を否定し、隠蔽し、その責任から逃避することになる。だから私は、私たちは、あくまでも境界線の傍に踏みとどまるべきなのである。(序 沖縄について考えることについて考える、p21)

 

そんなわけで、本書の中には、数多くの沖縄に関するエピソード、沖縄の人々の証言によるオーラルヒストリーが含まれるが、それらは何らかの一般化された物語、本土の犠牲となって虐げられたかわいそうな沖縄、あるいは逆に果敢に抵抗する闘争の拠点としての沖縄、亜熱帯の青い海と空の楽園沖縄、失われてしまった古きよき沖縄、といったテーマに奉仕することはない。

 

 私たちは沖縄というものを、マイナーなものとしての、弱いものとしての、少数者としての「女性」的なラベルのもとで語るのだが、しかし同時に、沖縄の人びとの、権力に対する抵抗、自由と自治を求める闘いに対するロマンティック話法もまた、私たちが沖縄を語る語り方のなかにしっかりと根を下ろしている。(終章、境界線を抱いて pp233-236)

 

だからといって、それらの物語が完全に無視されるわけでもない。それらは「私たち」の沖縄の見る目の中にも、また沖縄の人々の意識の中にも何らかの影を落としているからである。だから、そうした物語の周辺をめぐりながらも、個々のエピソードを特定の価値観へ紐づけてしまうような、こうした話法に引きずられることなく、あるがままの沖縄をとらえようという困難な試みを著者は続けるのである。

 

 さて、もしもこのような話法が、過度な一般化であり、ただのレベル貼りであるとするなら、私たちに残された他の選択肢は何だろうか。そうした単純化された沖縄にかわって、複雑な沖縄、流動的な沖縄、多層的な沖縄を描けば、問題は解決するのだろうか。

   だが、複雑な、流動的な、多様な沖縄を語ろうとするときでさえ、いかなる話法からも自由になろうとすることは、ほんとうに困難だ。そうした多様な沖縄は、それはそれで、ひとつの真逆の政治的話法を引きつけてしまうのである。(終章、境界線を抱いて pp237)

 

一種否定神学的とも言えるこの岸政彦の試みは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランスの開講講義である『言説の秩序』の語り口にも似ているし、ゴダールのどもりながら語る映画のナレーションにも似ている。沖縄について語らなければならず、しかし制度が私に強いるかたちで雄弁に語ってはならない。つまり、右であれ左であれ、「沖縄」を一般化するあらゆる企てに抗して、人々の生の言葉に寄り添いながら、ぎこちなく語り続けることである。

 

最初の章「自治の感覚」では、タクシーの運転手が紙ナプキンでバレリーナや、家に帰りたくなったら客を下ろすというエピソードの背後に、沖縄の自治の感覚を認めようとする。続く「沖縄を思って泣く」でも、図書館の職員が寒さを訴えた著者に電気ストーブを貸してくれたことに自治の感覚を認めるのである。

 

 私たちは、規則を破らないと、他人に親切にできない。だから、無意味な規則というものは、できるだけ破ったほうがよい、ということになる。そして、そういう「規則を破ることができるひと」が、沖縄にはたくさんいる。

  こういう感覚を、「自治の感覚」と呼びたい。自分たちのことは、自分たちで決める、という感覚。自分で決めて、自分のルールで、他人に優しくすることができる人びと。(沖縄を思って泣く、p70)

 

第三の章「彼方と過去」で提示されるのは、ある種のノスタルジーとともに語られる「沖縄のアメリカ」と米軍兵による犯罪の歴史である。それは、彼方に属しているだけでなく、過去のある時代へと属し、現在は存在しないはずのものである。それをどのようにとらえたらよいのだろうか。

 

  「沖縄のアメリカ」の痕跡は、その多くが、一九五〇年代から六〇年代にかけてに残されたものだ。だからそれは、はるか遠い彼方からやってきたというだけでない。それははるか遠い過去からやってきたものだ。沖縄のアメリカは、過去のアメリカであって、現在のアメリカには存在しない。それは逆説的にも、沖縄にしか存在しない。(彼方と過去、p88)

 

第四の章「変化と喪失」では、米軍のおかげで沖縄の近代的なインフラが整ったという考え方に対し、訪れる人口増と都市化の波で、沖縄が自ら変貌した経緯をとりあげる。

 

  戦後の沖縄の経済成長と社会変化は、おそらく米軍の存在がなくても、自分たちの人口増加と集中によって成し遂げられただろう。このことをさらに言い換えれば、次のようになる。沖縄は、米軍に「感謝する」必要はない。この成長と変化は、沖縄の人びとが、自分自身で成し遂げたことなのだ。(変化と喪失、p110)

 

第五の章「沖縄のはじまり」では、沖縄戦の数多いエピソードが紹介される。そこで顕著な物語は、泣き止まないと空襲で狙われるという理由で、日本兵により、沖縄の赤ちゃんや子どもが殺されたという物語である。それは沖縄の人々が被害者であるだけでなく、加害者でもあったという記憶として語られるのである。

 

  凄惨な地上戦の経験も、疎開先や避難所でみたふとした風景も、解釈できないような物語も、すべて沖縄の経験だ。私はこういう物語たちを、できるだけ多く聞き取り、残したいと思う。(沖縄のはじまり、pp140-141)

 

第六の章「たくさんの声、ひとつの境界線」では、著者によるオーラルヒストリーの聞き取り方法が紹介される。まずは、現地を見ること、そして次に人々の話を聞くこと、ときに立場を逆転しながら、自らが語ること。

 

 調査が進行すればするほど、沖縄の人びととの相互行為が進展すればするほど、その社会のイメージも、客観的で距離を置いた、静かでもの寂しい、つまり「視覚的」なイメージから、相互行為の状況に埋め込まれた、にぎやかで楽しい、つまり「聴覚的」なイメージになっていくのだ。基地や貧困に苦しむ人びと、という一面的なイメージから、複雑で流動的な人生を営む、しかたたかでたくましい人びとへ。(たくさんの声、ひとつの境界線、p159)

 

第七の章「ほんとうの沖縄、ふつうの沖縄」では、私たちの中で膨れ上がったあるべき沖縄、失われつつある沖縄のイメージと現実の沖縄の乖離が扱われる。那覇のバスターミナルや、農連市場に面影を認めるほんとうの沖縄はどこにあるのだろうか。そして本当に失われてしまったんだろうか。

 

  あらゆる沖縄のイメージ、あらゆる沖縄の知識は、反転した東京の姿である。私たちが沖縄をもてはやすとき、無意識に必ず私たちは日本をけなしている。沖縄を批判するとき、無意識に必ず日本を基準にしている。つまり私たちは誰も、沖縄のことなど語っていないのだ。私たちはひたすら、日本のことを、自分たちのことを語り続けているのである。(ほんとうの沖縄、ふつうの沖縄、p175)

 

そして第八の章「ねじれと分断」では、沖縄と日本の間に存在する分断、境界線について語られる。沖縄を愛する人々がつきつけられる境界線の存在。たとえば「土人」という言葉によって、呼び覚まされる沖縄人の中の日本に対する拒否の感覚。

 

 分断があり、亀裂がある。そして、その分断や亀裂の向こう側に、こちら側と向こう側の境界線がしっかりと横たわっている。

 もし、この「沖縄内部の分断や亀裂」と、「沖縄と内地との境界線」とを、たがいに相対化することなく同時に描くことができるとすれば、それはおそらく、「ここに人間が住んでいる」という単純な事実を通じてである、と思う。(ねじれと分断、p230)

 

実際には、これらの章には意図的にナンバーはふられていない。そのことは、『はじめての沖縄』は、著者自らが述べているように、どのから読み始めてよいということを意味する。可能な限り沖縄の既成のイメージを排しながら(それでも沖縄には無数の既成のイメージがつきまとう)、目の前の沖縄とそこに住む人びとの語りに対して、可能な限り誠実に向き合い、とらえようとする。

 

『はじめての沖縄』は、私たちに沖縄について、そして沖縄の抱えるさまざまな問題について、さまざまな逡巡やゆらぎの中で考えることを強いながらも、知らず知らずのうちに沖縄を好きにさせてしまう名著である。

 

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