つぶやきコミューン

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千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』PART3 (制作論としての『勉強の哲学』)

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略  ver.1.01

 

 

『勉強の哲学』と『メイキング・オブ・勉強の哲学』のあいだに

 

この1月に出版された千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』(文藝春秋)は、先に電子書籍として発行された『メイキング・オブ・勉強の哲学』(文春e-book)に新たに「第四章 欠如のページをめくること」と巻末の「資料篇」を加えたいわば完全版です。

 

この二つが加わることで、単に『勉強の哲学』の注釈の域をはるかに超えて、別の世界へと踏み込んだチャレンジングな企画となりました。すなわち、勉強論の方法がそのまま論文や書物といった成果へとつながるような制作論です。

 

まず、『勉強の哲学』とはどのような内容だったのでしょうか。実は『勉強の哲学』の「結論」で6ページにわたるまとめがあるのですが、それでも長く全体が見渡すのは困難なので、さらに大ざっぱに第一章から第三章までのあらすじをまとめると次のようになります。

 

勉強とは変身自己破壊である。本物の勉強とは恐るべきものである。

 

勉強とは、日常とは異なる言語操作の体系をまるごと受け入れることなのだから。

 

勉強することによって、その場のノリに合わない、浮いた存在になる。

 

しかし、そのままでとどまるのではなく、さらに勉強することで、日常の世界と勉強の世界を自由に切り替え、行き来できるような存在となる。これが来たるべきバカである。

 

勉強を進める上で、二つの方法がある。ツッコミに相当するアイロニーと、ボケに相当するユーモアである

 

いずれの場合も、やりだすとキリがなくなる。しかし、どのような勉強もどこかでとりあえずの完成が必要である。

 

どこかでキリをつけなくてはならないのだ。

 

そのための有限化の技術が必要となってくる。根拠のないままに決着をつける決断主義は悪しき方法である。

 

決断主義に代わるベターな方法は、享楽的こだわりである。享楽的こだわりは個人の生活史の中で、出来事の影響と無意識の選択の結果生まれたものである。だから、自らの享楽的こだわりを発見するには、欲望年表が有効な手段となりうるのだ。

 

享楽的こだわりによって、有限化し、作業を完了させ、仮の結論を出す。しかし、そこで終わることはなく、また絶えず比較を続けながら、次の仮措定へと移行する終わりなき作業が勉強なのである。

 

『勉強の哲学』の実作過程である『メイキング・オブ・勉強の哲学』につながるのは、まず上の中の言語操作の部分です。『勉強の哲学』の「結論」では、「特定の環境における用法から解放され、別の用法を与え直す可能性に開かれた言語のあり方」を「器官なき言語」と呼びながら次のように要約しています。

 

 器官なき言語で遊ぶこと――――レゴ・ブロックのピースを組み合わせるように、言葉を自由に組み合わせる言葉遊びこそが、生の可能性を豊かに想像することだ。このような「玩具的な言語使用」こそが、あらゆる勉強において根本的である。

 深い勉強、ラディカル・ラーニングとは、ある環境に癒着していたこれまでの自分を、玩具的な言語使用の意識化によって自己破壊し、可能性の空間に身を置くことである。(『勉強の哲学』pp216-217)

 

そして、この「玩具的な言語使用」の具体的な方法が書かれたのが、四章の後半にまとめられた「ノート術 勉強のタイムライン」であり「書く技術 横断的に発想する」そして「アウトライナーと有限性」なのです。

 

「結論」では、これらのページが以下のように要約されています。

 

  勉強を継続する=生活のなかで勉強のタイムラインを維持する。そのために便利なのがノートアプリである。複数のノートブック(フォルダ)を作成し、複数の勉強を同時並行的に進め、それらのあいだで相乗効果が起きることを期待する。アプリを拠点にしていれば、しばらく勉強から離れたとしても、また戻ることができる。

 書く技術は、「書くことで考える」習慣によって向上することだろう。自由連想的に書いていくフリーライティングを勧めたい。そのためにはアウトライナーが便利だろう。アウトライナーでの箇条書きも、勉強の有限化である。思考を短く切り出し、仮固定で操作する。長く書こうとすると構えてしまうならば、仮固定の思考を積み重ねていく書き方を基本とするのがよい。(『勉強の哲学』p221)

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』への導線としては、この二つの部分を押さえておけば大丈夫でしょう。「資料編」の中におさめられたアウトライナーやツイッター、手書きのメモ類は、具体的にこの作業がどのようなものであるかを教えてくれます。

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』では、まず「第一章 なぜ勉強を語るか 駒場講演」『勉強の哲学』のコンセプトや成立事情がどのようなものであるかを駒場での講演の場で明らかにしています。「来たるべきバカ」の定義もよりわかりやすくなっています。

 

 アイロニーとユーモアの言語技術を自覚して、最終的には、そのギアを自由に入れたり入れなかったりできるようになる。場に応じて浮く/浮かないのスイッチング、複数のノリの行き来をできるようになること。それこそが、サブタイトルにある「来たるべきバカ」なのです。

(『メイキング・オブ・勉強の哲学』p23)

 

また「千葉雅也の欲望年表」という形で、千葉が接したり、影響を受けたりした文化的レイヤーを時系列で記述していることで自らの研究の素地を明らかにしています。

 

さらに「第二章 メイキング・オブ・勉強の哲学」では佐々木敦との対談の中で、ノートやアウトライナーを引用しながら、その作成のプロセスに解説を加えています。

 

まずはバラバラな思いつきを箇条書きにして、それを整理する。さらに自らツッコミを入れることで、問題点をより鮮明にさせながら、問いと答えの応酬の中で、変形させてゆく。明らかにされるのは、必ずしも当初の計画と本とは同じ結論ではなかったということです。特に、「享楽的こだわり」が導入される前には、決断主義が結論だったという部分は重要です。いったん伸びた枝を途中で切断し、別の枝を接木するプロセスが明らかにされるのです。

 

  実は、当初は「決断主義」だったんですよ。ところが最終的に、『勉強の哲学』では決断主義を批判することになりました。だから、考えの根本的なところが、語り下ろしの時点からは変わっているのです。

(『メイキング・オブ・勉強の哲学』p107)

 

「第三章 別のエコノミーへ」では、第一章で提示された「欲望年表」との関連づけで『勉強の哲学』の解説が行われます。『勉強の哲学』の原点が子供時代の遊びにあったとする冒頭の記述は、幼少時の工作や絵、自作したゲームがそのまま現在の建築や絵画の創作活動、さらには新政府の活動へとつながっているとする坂口恭平の『独立国家のつくりかた』を連想させます(さらに135pでは坂口恭平との類似性が言及されます)。千葉雅也もまた幼少時の欲望の対象であるモノのコレクション、さらにはモノの名前のコレクションがそのまま現在につながっていると語るのです。

 

 オリジナルのカードゲームにしても、友達も同じようなことをやっていて、お互いの作ったカードを交換し合ったりしていました。この話でのカードや王冠というのは、いわば仮想通貨、地域通貨みたいなものです。つまり僕らは小学校時代、別のエコノミーを、別の体系を作る遊びをずっとやっていた。いま、僕が自分なりの新たな概念を作り、それでもってひとつの哲学システムを構築することをしているのも、そうした遊びに遠くつながっているのかもしれません。

(『メイキング・オブ・勉強の哲学』pp131-132)

 

「欠如のページをめくること」

 

しかし、さらに重要なのは「第四章 欠如のページをめくること」で、これはサルトルの『存在と無』やモーリス・ブランショの批評を想起させる誘惑的な素晴らしい文章です。ここでは書くことの哲学的意味が考察されています。フリーライティングを勧めるのはなぜか、それは書くこと、言語化することによって、頭の中のカオスとなった状態を整理し、悩みに決着をつけるためなのです。

 

  カウンセリングでは人間=他者に話すわけですが、広い意味で言えば、ノートというのも自分にとって他者です。ノートに書くというのも、自分の思考にいくらか他者性を介入させることであり、僕はそれによってカウンセリングに似た効果を得ることができると考えています。(『メイキング・オブ・勉強の哲学』p142)

 

対象を理性的に考察するために必要なのは、距離です。著者は、ここでジジェクが『斜めから見る』で抽出したラカンの欠如の概念を導入しながら、欠如を介在させることで、対象に距離をとり、不安を解消させることを提案するのです。

 

 ラカンの精神分析理論によれば、人間にとって欠如とは悪いものではなく、むしろ欠如が維持されている状態が必要なのです。欠如があれば人は不安にはならない。人は対象に近づきすぎて不安になる。近づきすぎて、息苦しくなり、不安になる。(『メイキング・オブ・勉強の哲学』p143)

 

そして考えに距離を置くためのノートの空白こそが、その欠如であるとするのです。

 

  欠如があるということは、いま自分の置かれている状況の、さらにその先があることを意味しています。いま自分が置かれている状況であっぷあっぷなのではなくて、まだその先に余地がある。その余地に向けて、新たなことを継ぎ足したくなる。ラカン的にはそれが「欲望」なのです。(『メイキング・オブ・勉強の哲学』p144)

 

けれども、広大な空白が目の前に広がっているだけでは、これもまた不安につながります。そこで、A4の紙一枚に区切る必要がでてきます。

 

欠如がなくなれば、欲望もなくなる。だから、どのように欠如を維持するかが、勉強のユートピアである現代の課題ということになります。

 

  ノートを使ってみましょう。アウトライナーでアイデアを箇条書きにしてみましょう、というのは、欲望を広げるための手段の提示なのです。欲望が、区切られた空白のページをめくることによって延長されていく。 

 現代においては、現代社会と直結した接続過剰的なツールと、そこから逃れるためのツールを区別して使いこなすのがいいと考えています。

(『メイキング・オブ・勉強の哲学』p146)

 

さらに、第四章では単機能のディバイスである紙の本のすばらしさ、カードと占いの関係などが展開されています。一枚のカードをつくること、それは日常とは切り離された世界をつくりあげることです。そして、そのカードを操作することによって生まれる占いも、あらゆる創造的な行為と同様に、現実から切り離された余白、欠如の提示であり、それゆえ1枚の白紙同様、欲望し続けることを可能にするものであるというビジョンが、「制作論」の究極の言葉が最後に語られるのです。

 

 占いもまた、日々ノートに何かを書いてはページをめくること、アウトライナーの箇条書きを少しずつ増やすことと、本質的に同じ「製作」なのです。欲望し続けるために、欠如のページをめくる。それがノート術の本質でもあり、占いの本質でもあり、芸術の本質でもあるのです。(『メイキング・オブ・勉強の哲学』p154)

 

結論:享楽的こだわりの重要性について

 

『勉強の哲学』という本の隠れた面白さは、フーコーやドゥルース、デリダが他の哲学者や、他の時代の思想の研究から得た成果を、自己啓発書という擬態のもとに、言語による主体化の実践的な方法として提示し直したことです。とりわけ、「享楽的こだわり」の概念は、ポストモダン思想の核心とも言えるものです。つまり哲学という理性的、論理的な行為の下で起こっていることは、感性的、非理性的、無意識的な別の原理による陰の支配が存在するということ。たとえば、デリダの脱構築は、キーワードの多義性に注目しながら、論理の下に潜む「享楽的こだわり」を明らかにする行為とも言えるでしょう。「享楽的こだわり」は、別の言葉で表すなら、主体の内在的原理であり、個人における志向性の傾向、快感原則の傾向にほかなりません。

 

また、ツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)も、哲学の二つの流れということができるでしょう。たとえば、根拠を、根拠の根拠を問い続けたフッサールは、ツッコミの巨匠ですし、デリダの脱=構築も彼一流のツッコミ芸ということができます。逆に、各時代の有名無名の無数の文献まで踏破しながら、言語の規則性から、その時代の視座を語ろうとしたフーコーは究極のボケの巨匠ということができるでしょう。彼が『言葉と物』の序文で語ったボルヘスの支那の百科辞典の笑いとは、私たちの日常から遊離した言語のキモさからくる笑いであり、要するにフーコーの本音は「ボルヘスはん、おもろいボケかましてまんな、ほなわてもいっちょ古典主義時代をネタにしてボケかましてみまひょか」ということなのです。そして、ユーモアとアイロニーを語ったドゥルーズはというと、ボケとツッコミの双方に通じた二刀流の達人ということができます。エンドレスなツッコミに、ボケを掛け合わせて、有限化するという千葉雅也の手法自体、きわめてドゥルーズ的なのです。


学問という論理的な行為の下でも、無意識的、感性的、情念的な衝動が支配するのは回避できないとしたら、むしろ「享楽的こだわり」こそが私たちの文章を私たちのものとするものであるならば、それを積極的に技術として活用しようというコペルニクス的転換が、『勉強の哲学』の中には、存在します。

 

形式化された方法論をどんなに詳細に論じても、何かを主張する論文を生み出す方法はできあがりません。具体的な主題を選んで文章を書かせる力は、衝動は、つねに論理の外部からやってきます。何かを勉強し、何かを書きあげるモチベーションこそが、「享楽的こだわり」であり、それはアイロニーとユーモアが臨界点に達した時に、有限化の方法としてはじめて登場するどころか、主題の選択の瞬間からつねにすでにそこにあったと言うことができるのです。

 

「享楽的こだわり」を語ることによって、『勉強の哲学』は、血の通わない、骨組みだけの形式的方法論を超えて、読者がそれぞれに主体的に起源を見つけ、生成させ、カスタマイズ可能な方法へと進化したのです。

 

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