つぶやきコミューン

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安冨歩『超訳論語』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

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儒学の主要教典である孔子の『論語』は、相反する二つの側面を持っているとみなされてきた。一つは支配者にとって好都合な封建社会の道徳としての『論語』であり、もう一つは理想主義的な学問の精神と倫理を説いた書物としての『論語』である。

 

どのように読むかによって、全く正反対の性格を持ちうるのが『論語』という古典の奥の深さ、偉大さであると言えよう。

 

封建道徳としての『論語』は、「忠」や「孝」など『論語』の中の諸概念を、同時代的な意味へ置き換えながら、教条主義的に読むことによって可能になる。

 

理想主義的な革命思想としての『論語』は、客観的方法により本来の字句の意味に立ち返りながら、テキストを主観的な方法により内在的に読むことによって可能になる。

 

客観的な方法とは文献や資料によって、言葉の意味の範囲を限定することである。

 

 たとえば現在では、「忠」という言葉は「主君や国家にひたすら尽くすこと」という意味で受け取られている。しかし「ひたすら尽くす」というような意味は、後代に生じたものであって、孔子・孟子の時代には、そのようには用いられていなかった。この歴史的事実を知らなければ、孔子の「忠」という言葉を正しく受け止めることはできない。

 

主観的な方法とは、残された書物の言葉と、対話を行うことによってのみ可能である。

 

 客観的方法では達成できない意味そのものの把握は、主観的方法によらざるをえない。

 それは真実の込められた言葉を、一人の人間として身体で受け止め、それが完全に納得できるまでしっかりと抱くという方法である。

 そうしてその言葉が、私自身の身体に響くのを待つのである。

 実のところ、言葉の意味を知るには、それ以外の方法はない。

 

一見初心者向けの早わかり『論語』に見える安富歩『超訳論語』は、実は言葉の原義に立ち返りながら、本来の主張をあぶりだすことで、『論語』に学問の精神に基づいたラディカルな革命思想としての輝きを与える試みである。

 

『論語』の思想とは何かという問いに、著者はこう答える。

 

「学習」という概念を人間社会の秩序の基礎とする思想である。

論語の冒頭は、「学んで時にこれを習う、亦たよろこばしからずや。」という言葉である。この言葉に、論語の思想の全ての基礎が込められている、と私は考える。

 

「超訳」というと、初心者に向けて、原文より多少離れても単純化しわかりやすくした訳のように思われがちだが、『超訳論語』は違っている。「學而時習之」という5文字が『超訳論語』の冒頭では、行間に隠れた潜在的な意味を引きだしながら、次のようなかたちで展開されている。

 

 何かを学ぶことは、危険な行為だ。

 なぜならそれは、自分の感覚を売り渡すことになるから。

 しかし、学んだことを自分のものにするために努力を重ねていれば、あるときふと本当の意味での理解が起きて、自分自身のものになる。

 学んだことを自分自身のものとして、感覚を取り戻す。

 それが「習う」ということだ。それはまさに悦びではないか。

 

「学ぶ」という行為と「習う」という行為の間にある違いを説明しながら、この5文字を5つの文へと置き換えているのである。

 

学ぶことの危険、自分から別の存在となる変身、そしてさらなる学問によって、その変身の違和感が緩和された次の段階へと達すること、この弁証法的ステップはそのまま『勉強の哲学』で千葉雅也が繰り返した図式に相当する。つまり、『論語』そのものが何よりも勉強の哲学だったということなのだ。

 

安富歩は学と習の間のこの関係を、「学習回路」の名前で呼び、それを「仁」や「君子」といった『論語』の基本概念の中に組み込んでいる。

 

  学習回路を開いている状態が「仁」であり、仁たり得る者を「君子」と呼ぶ。

  このような「学習」の作動している状態が「仁」であり、それができる人を「君子」と呼ぶ。君子は、自分の直面する困難を学ぶ機会と受けとめて挑戦し、何か過ちを犯せば、すぐに反省して改める。このような学習を通じて変化し、成長するのが、君子のあり方である。

 

ここには、「仁」を一般的な意味の「思いやり」や「情け」と解したのでは決して到達できない世界がある。さらに、「忠」や「恕」といった概念も、言葉の成立に込められた文字通りの意味にこだわるとき、その真価を発揮する。以下は、『論語』のエッセンスも見事な要約ともなっている。

 

  それゆえ君子には、如何なる圧力にも屈しない「勇」が必要である。どんな状況でも、命を脅かされたとしても、自分自身を見失わず、学習過程を守り抜き、自らの心の中心にいる状態が「忠」であり、心のままに偽らない姿が「恕」である。「忠恕」の状態にあるときに、君子の前には進むべき「道」が広がっているので、通の「選択」を迫られることがない。その道を進む中でみえてくる為すべきことが「義」である。

 

「忠」は、外的な社会関係への盲従ではなく、内なる基準である心への忠実さを表す概念となる。このことによって、支配者に好都合な道徳としての『論語』の既成概念は、完全に覆される。『論語』を、社会制度や家族制度へと縛りつけ家畜化しようとした試みより、解放し、本来のワイルドな輝きを取り戻す試みこそが、この『超訳論語』の狙いと言えるだろう。

 

 私は、このような論語の思想は、現代の日本社会でなんとなく「正しい」と考えられていることをことごとく否定し、まったく異なった倫理を体系的に提示しているように思える。『論語』は、古臭い保守的な書物ではなく、衝撃的で前衛的な革命の書だと、私には思えるのである。

 

この傾向は、特に「子路第十三3」の超訳である一四七〜一五一の「政治は名を正すことから始まる」に顕著である。一四八にはこうある。

 

「(…)名が正しくなければ、言葉が現実の事態に順応しなくなる。言葉が事態に順応していなければ、人々は事実を認識できなくなるので、当然ながら、仕事はうまくいかなくなる」

 

あるいは一四九。

 

「仕事がうまくなければ、人々の関係はおかしくなって、コミュニケーションが狂ってくる。そうなれば、どんな行事をやっても、つまらなくなる。そんな状態では、皆が保身に走り、本当のことを口にしなくなる。それでは誰が悪事を働いて、誰が正しいことをしているのか、さっぱりわからなくなる」

 

『超訳論語』の中には、今の政治の乱れを鋭く指摘し、正す言葉も多く含まれる。古典が不滅であるとはそういうことだ。

 

超訳された『論語』の語句の中には、学校の漢文の時間に習ったのとほぼ同じ意味のものもあれば、まったく異なる光を与えられるものもある。それらを通じて、感じ取られるのは、孔子という人の生きた思想、感動的なまでのその息吹きである。

 

 

 

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