つぶやきコミューン

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養老孟司『遺言。』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略  ver.1.01

 

 

解剖学者養老孟司の最新刊『遺言。』(新潮新書)は、25年ぶりの書き下ろしである。『バカの壁』以降出版された一連のベストセラーの養老本も、編集者を前にしたインタビュー起こしの語り下し本であったということだ。

 

本書のテーマは、感覚的所与の世界を生きる動物の世界と対比しながら、人間の言語の世界、意味の世界の特異性を明らかにすることである。そこでのキーワードとなるのは、「異なること」と、「同じこと」、つまり差異と同一性である。リンゴを例にとれば、あのリンゴ、このリンゴ、たくさんのリンゴがある。感覚的に見れば、そのリンゴの一つ一つは、異なっていて、どれ一つ同じではない世界に一つだけのリンゴである。しかし、言語がかたちづくる意味の世界では、すべてのリンゴはリンゴという「同じもの」とされる。端的に言えば、感覚の世界を生きるのが動物であり、意味の世界を生きるのが人間ということになる。

 

たとえば、著者が飼っている猫、まる。猫や犬はバカであると思っていた。けれども、そうやらそうでないらしい。

 

 猫も飼った。いまでも飼っている。まるという名前。じつはこの猫は『うちのまる』という写真集にもなった。家にいるときは、私がかならずまるに餌をやる。まるも心得ていて、私の顔を見ると、かならず餌をねだる。だから餌をやる。問題はそのあとである。食べ終わると、「ごちそうさま」の一言もない。フンと横を向いて、外へ出て行ってしまう。台所の戸が開いてないと、ガリガリひっかく。だから私が開けてやる。それでも「ありがとう」と言ったことは一度もない。恩知らずのバカめが。

 さて、もう一度戻って、動物はなぜ話せないのだろうか。バカだからだろうか。pp16-17

 

ある日、著者は「動物は絶対音感の持ち主」と書かれた文章を読み、愕然とする。絶対音感とは「ほかの音と比較せずに、音の高さがわかる能力」である。長年の疑問が氷解した思いがしたのだ。

 

  私の音は低い。家内の声は高い。私と家内が違う高さの音で「まる」と呼ぶ。まるはわれら夫婦が「別な音を出している」と思っているに違いない。声の高さが違うなら、違う音ですからね。p17

 

人間の場合も、絶対音感は誰でも生まれつき持ち合わせているものだが、言葉を身につけ意味の世界を生きる中で、特別な訓練を受けることがないなら、しだいに絶対音感は失われてしまう。声を感覚所与として聞く限り、意味の世界は現れてこないのではないか。

 

 目に光が入る、耳に音が入る。これを哲学では感覚所与という。とりあえず感覚器に与えられた第一次印象といってもいい。

 動物は感覚所与を使って生きている。それが私の最初の結論である。動物が言葉をしゃべらないという疑問は、このことから解ける。解けるような気がする。p30

 

動物がしゃべれない、字が読めないのは、感覚所与を優先してしまうからであるというのが著者の仮説であり、これをレバレッジとして人間の言語がかたちづくる意味の世界のさまざな問題を、横断しながら論じてゆく―――『遺言。』はそのように構成されている。以下本書の流れをざっと見渡すと次のようになる。

 

2章 もちろん、人間だからといっていつも意味の世界に生きているわけではない。たとえば突然文字の形と意味が一致しなくなることもある。科学とは、意味と感覚の乖離を調整する学問でもある。

3章では、人間はなぜ、その特質であるイコールの理解が可能なのか。その仕組みを説明する。

4章では、乱暴な物言いの背後にある単純化し、「同じ」と決めつける脳のはたらきが説明される。

5章では、この「同じ」がどこからくるか。とりわけ重要なのは目からの情報と耳からの情報がいかに脳の中で連合されるか、そのときに何が起こるかを考える。

6章では、意味の世界を生み出す意識の世界を俯瞰する。意識は、自らの意志でオンオフが可能なわけではない。眠っている間も脳は働き続けているので、意識は脳のはたらきの一部にすぎない。そのはたらきはどのようなものであろうか。

7章では「同じもの」がないことに価値を置くアートの世界について。芸術とは、「同じもの」によって埋め尽くされた意味の世界から逃れて、「違うもの」を生み出そうとする営みであり、それゆえコンピュータは芸術を生み出すことはない。

8章では、社会が「同じもの」へ、デジタル化と向かう理由を説明する。昨日の私と今日の私は同じではないが、同じとみなす建前の上にこの社会は成り立っている。

9章 人の視覚と聴覚が連合されるとき、そこに時空が生じる。時空の概念は、宇宙の始まりからではなく、人の意識とともに生まれる。19世紀と20〜21世紀の生物学の差違は情報概念の導入であった。生物は、遺伝子と脳という二つの情報系を生きる存在であり、生物学は情報学となったのである。

終章 実際には人間は感覚の世界と意味の世界の双方を生きており、意味の世界はなるべく感覚の世界を排除しようとする。意味を捨象した感覚の世界とはノイズの世界とみなされる。けれどもしだいに感覚の世界と意味の世界の齟齬は大きくなってきているのが21世紀の現在なのである。意識中心の都市と感覚中心の田舎。折り合いをどうつけるか、すべてはバランスの問題である。コンピュータの機能をつきつめてゆくと、神経系と遺伝子が等しくなるところまでゆきつく。そのめざすところは不死の存在である。

 

科学はつねに既知と未知の世界の間を彷徨するものだから、本書で述べられていることは、最新の科学的識見に基づいているとは言え、検証された知識と知識をつなぐ文章の中には、仮説にとどまっているものも少なくない。それゆえ、その結論のすべてをうのみにする必要もない。

 

タイトルの『遺言。』とはあくまで書き残しておきたい事柄程度の意味であり、著者にはまだまだ死ぬ気はないという。それをたたき台にして、より若い世代が考え、先に進むための材料の提供なのだ。

 

『遺言。』は、感覚的所与の世界と意識の生み出す意味の世界ー動物と人間のあいだの違いからスタートしながら、人間の営み、科学や芸術、さらには社会全体を俯瞰する壮大な視座を、提供し、私たちと私たちが生きる社会の現在、さらには過去や未来を、より根源的な次元で考えさせてくれる名著である。

 

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