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松山洋平『イスラーム思想を読みとく』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略  ver.1.01

 

 

日本人がイスラーム思想を理解するには多くの困難が伴う。その困難は、必ずしも日本人がキリスト教思想を理解する困難とは同じではない。日本人がイスラーム思想を正しく理解できないのは、自ら養ってきた宗教観をイスラームに投影するからである。

 

日本人の宗教観は、宗教を単に心の中で信仰することではなく、信仰と何らかの儀式を実践する「技術の体系」を同一視することにある。

 

つまり、宗教が説くある行為を行うことが信仰と表裏一体としてとらえるのである。逆に、その行為を行わないことは、その宗教を捨てることに直結する。そのように日本人はとらえようとする。

 

 「信仰の有無」と「行為の正当性」を分けて考えられないため、「或る行為をする者がムスリムである」=「その行為はイスラームで正当化された行為である」と考えてしまうのです。p41

 

そこから次のような誤解も生じる。

 

イスラームで禁じられた酒を飲むことと、ムスリムであることは両立しない。

 

『クアルーン』でジハード(聖戦)を説いているゆえに、すべてのムスリムはテロリストである。あるいは、もしもイスラームの教えにテロリストが反するのなら、これを破門しないのはおかしい。

 

しかし、実際には飲酒をやめないムスリムは存在するが、その事実によって彼らがイスラームをやめたり、資格を失ったりすることはない。なぜなら、ムスリムであるためには、心の中でアッラーを信じるということ以外何も必要ないからである。

 

また、テロリストたちが、穏健なムスリムとは、考え方を異にすることはあっても、それによって破門されることもない。そもそもイスラームには、中心となる権威としての教会そのものが存在しないのである。

 

こうした、日本人の発想からは理解が困難なイスラームの発想を重点的に解説したのが、松山洋平『イスラームの思想を読みとく』(ちくま新書)である。

 

序章 日本のイスラーム理解および第一章 ムスリムはなぜ「過激派」を破門しないのか?では徹底して、こうした誤解をその発想の根源にまで遡りながら、解消させるべく丁寧な解説が行われる。

 

さらに第二章 イスラームマップを読みとくでは、イスラームのうちのスンナ派内の流派と考え方の相違について系譜学的な説明が行われる。大きくわけると、スンナ派には思弁神学の流れと、反思弁神学の流れとしての「ハディースの徒」がある(ハディースとはムハンマドや教友らの言行録)。さらに「ハディースの徒」より派生した「サラフ主義」と「ジハード主義」(アルカイーダ、IS)が説明される。

 

「思弁神学」というのは、神学的な論争を行うさいに、「クルアーンやハディースの引用」のみならず「理性にもとづく論理的な立論」を神学の典拠として尊重する潮流のことです。(…)

「思弁神学」の潮流に対峙するもうひとつの潮流は、「ハディーズの徒」と呼ばれます。(…)こちらの潮流は、思弁哲学の潮流に属する学派とは異なり、「理性にもとづく論理的な立論」を神学の一次的典拠とすることに反対します。クルアーンやハディースといったテキストの文言と、理性にもとづく論理的な立論を併用するのではなく、あくまでテクストの文言のみを第一の典拠にするべきだと考えます。p105

 

そして第三章 「穏健派」と「過激派」の見解の相違はどこにあるのか?では、ISなどの「過激派」と「穏健派」の、カリフやジハードをめぐる考え方の相違がどこにあるのかが説明される。IS行為の不当性は議論されても、カリフ制やジハードそのもの正当性は疑われることはないのがイスラームの世界である。

 

第四章 解釈の正当性をめぐる問いでは、時代に応じたイスラームの教えの解釈の鍵となる、イジュティハードとタクリードについて説明が行われ(イジュティハードは議論の活性化に、タクリードは硬直化につながる)、さらに宗教市場自由化など今後の展望が与えられることだろう。

 

  イジュティハードとは、j-h-dを語根とする動詞“jitahada”の動名詞で、「法学者が、個別的な典拠(を精査すること)をつうじて、法規定を演繹することに最善の努力を尽くすこと」を意味します。

 簡単に言えば、特定の問題についての適切な典拠を見つけ出し、特定の法解釈を独自に/自力で導き出すことを意味します。

  一方のタクリードは、q-l-dを語根とする動詞“qallada”の動名詞で、「証拠や典拠を知ることなく、他人の見解に従うこと」を意味します。pp199-200

 

イスラームの基本的なロジックについては、中田考の一連の著作によって詳しく解説されているが、あくまでイスラームの内的なロジックをていねいに説明するものであるため、依然としてふだんイスラームになじみのない人間には釈然としない部分がいくつか残る。本書の序章および第一章は、特にそうした日本人の宗教的なバックグラウンドから生じる疑問点を解消すべくカスタマイズされており、他のどの書物よりもわかりやすいイスラーム入門書となっている。また、第二章以降読むことで、イスラーム内部にある考え方の多様性と、それぞれにある内的なロジック、さらにはイスラーム世界で起きていることが格段に理解できるようになることだろう。

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