JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
ひとは簡単に出来事を総括する。伊坂幸太郎の『ホワイトラビット』(新潮社)のテーマである白兎事件も、仙台の住宅街である男が一般人の家族を人質に立てこもった事件として語られる。しかし、実際に起こっていることは、はるかに複雑な、まったく別の何かである。
ここには、絶対的な善人も、絶対的な悪人も存在しない。
ある悪の組織は、別の組織から催促され、行動を迫られる。
強盗のように見える男は、実は妻を救うための行動を行おうとしている。
交通事故で家族を失った男は、その遠因となった占い師を射殺する。
一家の父親と思われた男は、実は別人なのかもしれない。
SIT隊員だと思った男も、実はなりすましであった。
そして無垢な人質であると思われた母と子も…
これだけでは何がなんだかよくわからないが、この謎と謎の関係がすっきり整理できてしまったら、ネタバレになってしまうからこれでいいのである。
言えるのは、きわめてシンプルな二つのルールである。
ある犯罪の被害者は別の犯罪の加害者でありうる。
そして
ある人が名前や身分を名のったからといって、本当にその人であるとは限らない。
このような疑惑の目でストーリーを見てゆくことが読者に要請される、というより、知らず知らずのうちに、そうなるように仕向けられるのである。
『ホワイトラビット』を、伊坂幸太郎の他の作品から区別する大きな特徴の一つは、自意識を持った語り手が存在するということである。この語り手は、たとえば暴力シーンの場合に、どうしても仕方ないからこういう酷い描写をしないわけにはいかないとの言い訳をする。そして、自らの語りそのもののあり方についても、ときにヴィクトール・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を例に挙げながら、自己言及的に語ろうとする。
「あの小説って、ところどころ変な感じですよね。急に作者が、『これは作者の特権だから、ここで話を前に戻そう』とか、『ずっとあとに出てくるはずの頁のために、ひとつ断っておかねばならない』とか、妙にしゃしゃりでてきて」
古くからある手法だ、と黒澤は言いかけたが、そもそも『レ・ミゼラブル』が古い小説であるし、わざわざ言うこともないか、とやめた。p25
『ホワイトラビット』の中では、語り手はたびたび視点を変える。語り手そのものは一定でありながらも、ある人物から見た事件と、別の人物から見た事件へと。そして、時に時間の針を巻き戻すことを厭わない。芥川の『藪の中』方式だが、『ホワイトラビット』の場合には、最終的にはそれらの複数の見え方は一つに統一されることになる。それこそが、探偵となった読者の果たす役割である。
『レ・ミゼラブル』――犯罪を犯しながら名士となったジャン・ヴァルジャンの話とともに、この作品全体でライトモチーフとして用いられるのが、星座のオリオン座の話である。物語に出てくる「オリオオリオ」なる男は、オリオン座に対する半端ない蘊蓄があり、その話が物語のキーワードとして登場するのである。
オリオン座は、肉眼でみつけやすい星座の筆頭だ。三つ星と呼ばれる二等星を目印に、上下に光る星を探すことができる。五角形の下に台形をくっつけたような形だとも言える。楽しみを奪うようで恐縮だが、このオリオン座が白兎事件全般に大きく絡んでくることは、物語の下地に織り込まれていることは、先にお伝えしたほうがいいかもしれない。p4
時に『レ・ミゼラブル』へと、あるいはオリオン座の話へと脱線しながら、それが後半の展開の重要なヒントになったりするのである。
『ホワイトラビット』では、『ルビンの壺が割れた』以上に、読み進めるうちに、真相が変わり続ける。『ルビンの壺が割れた』では、読者の知らない登場人物の行状が真実を少しずつ変えてゆくのだが、『ホワイトラビット』では登場人物の隠された行為が明らかになる中で、実は登場人物のアイデンティティそのものもゆらいでしまうのである。Aと思っていた人物はBであり、Cと思っていた人物はDであり、Eと思った人物は実は…という風に変装やなりすましが横行する世界である。
しかし、これは実は文学の世界では珍しいことではない。イギリスのシェイクスピアや、フランスのモリエール、ボーマルシェなど、17、18世紀の喜劇ではなりすましや入れ替わりは常套手段として行われたテクニックなのだ。
黒いは白い、白いは黒い。
作者伊坂幸太郎もまた、オセロゲームにたとえながら、意識的にそれを行っているふしがある。
それらが発覚するたびに読者は、それまでの事件に対する全体像を更新しなければならず、脳をフル稼働することが求められる。
『ホワイトラビット』において、物語はマスメディアが好んで語るようなストーリーとして構築されるよりも、むしろ被害者/加害者の二項対立だけでなく、登場人物のアイデンティそのものも混沌へと投げ込まれ、脱=構築される。
『ホワイトラビット』は、伊坂幸太郎がシェイクスピアに並び立つような、新たなステージに立ったことを示す、脱構築的なミステリーの傑作なのだ。
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