つぶやきコミューン

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会田誠『「色ざんげ」が書けなくて』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略  ver.1.01

 

 

幻冬舎の電子書籍レーベル幻冬舎plus+は、著者やタイトルは面白そうでつい買いそうになるタイトルが多いのだが、いざ買ってみると30分とたたぬうちに読み終わって食い足りないということもしばしばだ。要点も、三つくらい拾えば十分で、レビューを書くとほとんどネタばれになりかねない。それゆえなかなか取り上げることが難しいレーベルなのである。

 

そんな中で、がっつりと読みごたえがあり、ディープな内容ゆえにいささか長いとさえ感じるのが、美術家会田誠の『「色ざんげ」がかけなくて』である。3章程度が相場の幻冬舎plusの中で「色ざんげが書けなくて」(その一)から(その九)まであり、話題も「オナニー」「セックス」「同性愛」「ポルノ」など多岐にわたる。

 

絵画の中で性的表現が多いと一般に考えられる会田だが、なぜ『色ざんげ』ではなく、『「色ざんげ」が書けなくて』なのか。『色ざんげ』とは、いわば性的体験の告白である。そして、性的体験の告白、異性であれ同性であれ、相手を伴うのが普通である。

 

 しかしそれはおいそれと書けないわけです。なぜなら恋愛とセックスには相手がいて、その相手の人生は、自分とパラレルにまだ現在進行形だから、自分一人が恥をかく分には構わないので、オナニーの話はノリノリで書けるけど、セックスとなると、いろいろとややこしい事態が発生する危険性は大なわけです。

 

だから、死後何十年か経って公開される形でもない限り、やはり会田誠をしても、「色ざんげ」は書けないということになる。

 

では、この『「色ざんげ」が書けなくて』は一体どのような文章かというと、一言で言えば妄想的性愛論、中でも中心となるのが、通常セックスの代用品とみなされるオナニーの価値の擁護、称揚である。

 

会田誠は、マスターベーション、千摺り、自慰、手淫といった、他のもろもろの名称をそれぞれに理由をあげながら斥け、この名称にこだわる。

 

 すなわち、僕は、ドイツ語から来た「オナニー」という言葉の語感を愛しており、行為としては同じものを指すにもかかわらず、それ以外の名称が愛せない、という不思議な現象があります(…)

 

オナニーという響きの中には、「女になる」世界がある。男性の場合、想像の中で「女になる」ことなしにオナニーは成立しない。

 

オナニーをしながら好きな子=Xちゃんのことを想っていると、そのうち自分という“みっともない肉体を伴った男”の存在はイマジネーションの世界から消え、この世(宇宙)は“可愛いXちゃんだけ”になります。つまり、気がつくと自分がXちゃんになっているのです。

 

男と女の性が混然一体となっているところに、会田誠はオナニーの至上の価値を認める。

 

男性性/女性性という二項対立がなく、すべてが溶け合って渾然一体となった世界。何の過不足もなく、百パーセント充足した世界。その完全なる平穏は、個人のイマジネーションの中においてはニルバーナであり、千年王国であります。

 

そして、アンチ・リアル・セックスとしてのオナニーに、セックスの代用品ではなく、独立した至高の価値を、人生の目的さえも認めるのである。

 

多くの(主に日本のサブカル/オタク界隈の)識者が指摘する通り、オナニーはセックスの代替品などではけしてなく、まさしく人生の目的そのものであります。 

 

さらに、性表現と実際の犯罪的性行為を結びつけ、危険視する見方に関しても与することがない。余りに、荒唐無稽で、現実離れした二次元の表現が、犯罪に直結するということがあるだろうか。

 

妄想が荒唐無稽になればなるほど、リアル空間から隔絶されてゆくという、純粋オナニーの妄想の基本原理も知らないんですか?

 

性犯罪は、こうした性表現によって引き起こされるのではなく、別の衝動によって引き起こされるのではないか。

 

逆に、会田誠は二次元的な性表現に、地球レベルでの人口問題のソリューションさえ見い出そうとする。

 

 僕は時々夢想します(とはいえよっぽどヒマな時に限りますが)―――いつの日か、アフリカの男たちが非実在二次元美少女にハアハアして、ついでに日本から伝播したコミュ障や引きこもりにも患り、気がつけば人口増加は抑止され、血なまぐさい部族間抗争をやる闘争心も消え失せ……とにかくそんなこんなでいろいろとあった末、地球全体が現代日本のような腑抜けた平和に包まれることを。

 

『「色ざんげ」が書けなくて』は、あくまで男性サイドの性的妄想が中心であり、それゆえ人類半分にあてはまる視点からの考察でしかないが、そこでは多くの人が抱えながらも、日の目を見ることのない性的妄想の数々が披歴されている。キリスト教世界のような罪の意識による縛りこそないものの、オナニーはセックスよりも格好悪い弱者の専売特許のような考え方が、男性の中に根づいているからだ。しかし、そこには思春期より始まる等身大の私たちの脳内の肖像画があることは確かである。

 

スタイリッシュで、格好いいセックスではなく、卑小な自分の姿を見つめることになる、リアルな性的妄想の数々を告白する究極の正直さこそ、『「色ざんげ」が書けなくて』の最大の美点である。

 

関連ページ:

会田誠『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』 
会田誠『青春と変態』

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