つぶやきコミューン

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辻田真佐憲『文部省の研究 「理想の日本人」を求めた百五十年』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

辻田真佐憲『文部省の研究 「理想の日本人」を求めた百五十年』(文春新書)は、文部省(2001年以降文部科学省)の百五十年の歴史を二百数十ページの新書に圧縮したきわめて情報密度の高い力作である。そこでのテーマは、文部省の方針の中に盛り込まれた「理想の日本人像」である。時代のニーズや内外のさまざまな圧力にさらされながら、「理想の日本人像」は常にグローバリズムとナショナリズムの間で揺れ動いていたことが明らかにされる。

 

辻田は、文部省の歴史を6つの時代に分け章立てし、それぞれの時代に要約的なテーマを与えている。その流れをおおまかにまとめると次のようになる。

 

第一章 文部省の誕生と理想の百科争鳴(1868〜1891年)

1869年に設置された大学校(翌年大学に改称)は最高学府と教育行政機関を兼ねていたが、国学派と儒学派、洋学派が対立していた。1871年の文部省の設置により洋学派が主流となる。この文部省の基礎を固めたのは佐賀藩出身の江藤新平と大木喬任であった。初めての教育法令である1972年の「学制前文」では、『学問のすすめ』などの影響もあり、牧歌的に個人の独立が国家の富強に結びつけられ、1879年の「教育令」も同様だったが、同年に出された「教学聖旨」は儒学派からの反撃であり、1880年には「改正教育令」が出され、自由主義から干渉主義への転換がはかられた。1890年に「教育勅語」が出され、自由主義でも干渉主義でもない「第三の道」が模索されることになる。

 

第二章 転落する文部省 動揺する「教育勅語」(1892〜1926年)

1890年に発布された「教育勅語」は、上からの国体主義によって、近代化途上の国家にふさわしい「理想の日本人像」を示すものであったが、あくまで弱小国の日本に合わせたものであったため、国力が増すにつれ「古すぎる」との批判にさらされることになる。また、勅令主義と内務省への隷属によりしだいに文部省は弱体化する。日清戦争のころ世界主義を唱えた西園寺君望の考えは広く受け入れられるものではなかったが、当時の第一次国定教科書はかなり開明的でリベラルであった。日露戦争後「忠君愛国」を説く国家主義への転換がはかられ、1910年の第二期国定教科書にも反映される。第一次世界大戦後、高等教育が拡充し、大正デモクラシーや普通選挙運動が花開く一方で、関東大震災や内外の動乱もあり、1923年の「国民生活作興詔書」は一層国家主義の色彩を強める。ただ、第三期国定教科書は、国家主義一辺倒ではなく、国際主義のニーズも反映しながら、多方面の意見をくんだものであった。

 

第三章 思想官庁の反撃と蹉跌(1926〜1945年)

大正から昭和に時代が変わると、文部省は思想的、経済的な国難に対応する「思想官庁」としての役割が求められ、組織はめまぐるしく変化することになる。1929年には「教化総動員運動」が開始され、1931年には国民精神文化研究所が設置、「国体主義」「日本精神」を推進するイデオロギーの牙城となる。1933年より使用された第四期の国定教科書は第二期以上に「忠君愛国」の傾向を深めることになる。1935年の天皇機関説事件を機に、一気に異端思想に対する取り締まりが強化されてゆく。「天皇に無条件で奉仕する臣民」を、この時代の「理想の日本人像」としたのが、1937年の『国体の本義』だが、それは国民だけでなく、文部省自身をも縛るものだった。1939年には「青少年学徒ニ賜リタル勅語」、1940年には『臣民の道』が出され、普遍主義が否定され、共同体主義が称揚される。1941年より国家主義一辺倒の第五期国定教科書が使用開始となるが、戦局の悪化にともない、文部省も縮小を余儀なくされ、1945年の敗戦を迎えるのである

 

第四章 文部省の独立と高すぎた理想(1945〜1956年)

GHQは軍国主義のみならず修身・歴史教育の排除を指示してきたが、文部省は面従腹背しながらも戦前よりの懸案となっていた教育改革に着手しようとしていた。GHQは新しい「教育勅語」を構想したが、実現には至らなかった。1946年には天皇の「人間宣言」が出されるが、それは天皇の神格を否定すると同時に敗戦後の国民に指針を示すものであった。GHQの肝入りで、1947年の「教育基本法」「学校教育法」の発布、「学習指導要領」の公表、「教育委員会法」の発布など、数々の教育改革が進められる。「教育基本法」では、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間」としての理想の日本人像が提示され、「教育勅語」に置き換わった。しかし、東西冷戦時代の始まりとともに、戦後教育の転換が始まる。同時に、それは日教組との対決の歴史でもあった。それを積極的に推し進めたのが第五次吉田内閣の文部大臣大達茂雄であり、大達の剛腕により文部省はサービス官庁から監督官庁へとカムバックを果たす。1955年に自由民主党が発足、いわゆる「五五年体制」のもと、文部省は中央集権的な機能を取り戻すことになる。

 

第五章 企業戦士育成の光と影(1956〜1990年)

日本が高度成長期に入ると、文部省は文教族や経済界との関係を深めるようになる。勤務評定の実施や道徳の特設、学力テストの実施などにより、日教組に対し優位に立ったが、これは多分に日教組の自滅の面もあった。この時期の理想の日本人を示す中教審の「期待される人間像」の中には「職業の尊さを知り、勤労の徳を身に付けた社会人」の項が盛り込まれる。空前の盛り上がりを見せた安保紛争と大学紛争もやがて沈静化し、学生運動の闘士は企業戦士へと鞍替えし、理想の日本人像は達成されたのだった。1970年代後半から80年代にかけては、高校・大学の進学率も急上昇し、文部省も「ゆとり教育」へと向かう一方で、国歌国旗問題や教科書問題が争点となる。1983年の中曽根内閣による臨教審の設置は文部省に危機感をもたらす。そこでの理想の日本人像は、日本人としての枠をはめられた上での、個性や創造性の重視であった。文部省は日教組との戦いには勝利したものの、これ以降自由化を求める民間勢力と対峙を迫られることになる。

 

第六章 グローバリズムとナショナリズムの狭間で(1991〜2017年)

1990年以降、ソ連崩壊、バブル崩壊、自民党の下野と激変する世の中で、日本の教育はグローバリズムとナショナリズムの間をさまようようになる。「国歌国旗法」は本来の意図とは別の統制的な方向に向かい、2000年の「教育改革国民会議」の方向性と「ゆとり教育」の実施は、エリートへの資源の集中投下を意味し、国民の間に分断を生むものだった。2001年には省庁再編で、文部科学省が誕生、2006年に始まる教育再生会議では「ゆとり教育」が見直される。同年の教育基本法でも普遍的な価値に加え、「伝統」などの共同体的価値の強調された。それ以降2009年の民主党政権下でも、第二次安倍内閣下でも、ナショナリズムへの対応とグローバリズムへの対応の双方はつねに求められ続けているのである。

 

過去の歴史を扱いながらも、本書の内容はきわめてビビッドで、時事的な話題に直結する、本書の面白さは三つの点に要約される。

1)明治期の文部省の開設以来、言葉こそ変えながらも、グローバリズムとナショナリズムの二曲という現在とも共通した同じテーマの間の逡巡を繰り返している。

2)文部省自体の内的な論理によってではなく、内外の諸勢力の圧力・要請によって、その時期ごとに最適解が決定されるため、文部省の方向性は、そのまま時代の意識やニーズをダイレクトに反映している。

3)私たち自身がどのような教育を受け、育ったかという時代背景も明らかになり、自分の意識自体を客観視し、相対化する座標軸を設定することが可能になる。

 

さらに著者の『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』『ふしぎな君が代』『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』といった明治以降の日本を扱った歴史的著作の背景を説明するだけでなく、それらを相互に結びつけ、補完し合う働きさえするものと言えよう。本書を読めば、『教育勅語』をめぐる今日の議論もまったく新しい光のもとで見ることができるであろうし、過去繰り返された多くの議論を踏まえた上で、実装可能な新しい教育方針を模索することも可能になるだろう。

 

『文部省の研究』は、いったん私たちを取り巻く社会状況から距離を置き、歴史の俯瞰的視座のもとで日本の教育を透視することを可能にする良書である。

 

関連ページ:

『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』
『たのしいプロパガンダ』
『ふしぎな君が代』
『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』

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