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國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

私たちは、〜する/〜されるという区分、能動態と受動態の区分を、当然のものとして考えがちである。少なくとも他の形を考えることが困難である。しかし、なじみのある英語の文法に限ってみても、そもそも受動態とは他動詞に限ってのみ可能な態である。受動態となる前の他動詞を用いた文が能動態であると言えるとしても、自動詞を用いた文が他動詞を用いた文と同じ能動態であるというのは、おかしな言い方ではなかろうか。be 動詞の後ろに動詞の過去分詞を置くと受動態になるとされるが、それは他動詞の場合であって、自動詞の場合には、He is gone.(彼は行ってしまった)のように、状態の完了を表す文となる。They sell the book at the store.(その本はあの店で売っている)という英文は、The book is sold at the store.という受動態にすることが可能であるが、The book sells well.(この本はよく売れる)という能動態では動作の対象であったものを主語にした文(能動受動態)も可能である。人が何かを考えるという行為も、主語ー目的語の関係で表す他動的なものと考えられがちだが、英語にはIt never occurred to me that she was telling a lie.(彼女が嘘をついているとも思いもよらなかった)のような表現もある。このような英文の存在が暗示するのは、考えというものが主体の動作の対象というよりも、主体において生じる出来事のようにみなす発想の存在である。このように、英語表現のいたるところに、能動態と受動態の二つの区分によっては分類されない、グレーゾーンの世界が存在する。

 

そして、かつてのインド=ヨーロッパ語には、能動態と受動態以外に、「中動態」という態が存在したことが歴史的な事実として確認されている。失われた態、中動態とはいかなるものだったのか。それは、なぜに、どのような経緯によって失われてしまったのか。
 

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)が取り上げるのは、この大きな歴史的な謎である。そして、エミール・バンヴェニストの議論より始め、古代ギリシアの世界までさかのぼる。そして、章が進むにつれて、日本の英語学者細江逸記や、ハンナ・アレント、ハイデガー、ドゥルーズ、デリダ、スピノザといった哲学者の記述をとりあげながら、しだいに中動態の輪郭が明確になるように書かれているのである。

 

中動態のイメージは、主体/客体の二分割を相対化する第三項であるがゆえに、ポストモダン思考の格好のアバターとして神秘化されやすい。このような神秘化のプロセスを回避するために、思弁による哲学的な議論中心にではなく、たえず言語学の研究成果を参照しながら進める必要があるのだ。

 

 能動態と受動態の対立を大前提としたうえで、それに収まらない第三項として中動態を取り上げるやり方が問題なのは、それがこの態を、不必要に特別扱いすることにつながるからである。それはしばしば神秘化の様相を呈する。特に哲学においてこの傾向は著しい。

 哲学ではこの一〇〇年ほど、西洋近代哲学に固有の<主体/客体>構造が疑問視されてきたとう経緯があるため、おの構造を能動/受動の文法構造に重ねつつ中動態を称揚するという事例が散見される。p76

 

その名前から誤解してはならないのは、能動態と受動態の間にあった中動態が失われたのではないということである。

 

  能動態と受動態の区別が新しいものであるとはどういうことかと言うと、かつて、能動態でも受動態でもない「中動態 middle voice」なる態が存在していて、これが能動態と対立していたというのである。すなわち、もともと存在していたのは、能動態と受動態の区別ではなく、能動態と中動態の区別だった。p34(原文の強調は傍点)

 

そうした中で浮かび上がってくるのは、能動態と受動態以外に中動態があったのではなく、能動態と中動態が先行し、その後しだいに受動態により中動態がとって変わられたという歴史的経緯なのであり、中動態は再帰代名詞を用いた文のように、動作の結果が主体のもとにとどまるような行為に用いられたらしいという事実である。

 

中動態を詳しく論じたバンヴェニストの議論をたどるうちに、やがて私たちはデリダのバンヴェニスト批判を『哲学の余白に』に収められた「繋辞の代補」の中に辿り直すことになるだろう。かつては、道場破りの武芸者のように私たちがデリダに拍手を送ったその現場を今振り返ってみると、ここでのデリダの批判は、言いがかりに近いものであり、むしろバンヴェニストの言語論のすばらしさに目を開かれる思いがする。

 

 言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。p111

 

あるいはハンナ・アレントの意志をめぐる議論の中でも、今の私たちが信じることがないような熱意をもって、アレントは絶対的な始まりとしての意志の概念を擁護しようとしたことを知るのである。フーコーの権力論は、能動性と中動性の対立によって正しく定義されるとみなしうるが、アレントの権力論では、さまざまな思い込みから能動/受動の図式にこだわり、中動性の正しい理解をさまたげているように見える。

 

中動態の生成と受動態の発生や転化が、単にヨーロッパのみならず日本語でも同じような経緯が見られることを研究したのが、英語学者で岡倉天心の弟岡倉由三郎の弟子細江逸記の論文「我が國語の動詞の相(voice)を論じ、動詞の活用形式の分岐に至りし原理の一端に及ぶ」であった。

 

  これは、そのタイトルの示す通り、日本語における「相」、すなわち文法上の態を論じたものだが、これほどの昔に書かれたと思えぬほど正確にインド=ヨーロッパ諸語における態の変遷を記述しつつ、これを日本語の動詞の変遷と比較し、両者が中動態を共有していたこと、そしてそれのみならず、、中動態が他の形態へと「分岐」するその様までもが両者において共通していたことを指摘した論文である。p178

 

それによって、日本語の「ゆ」「らゆ」、「る」「らる」の系列こそがそれに相当したことも私たちは知る。

 

意志に関してナイーブな議論を展開したアレントと対照的に、「意志」の概念を警戒したハイデガーが相対化したのは、「放下(Gelassenheit)」の概念においてであった。意志することがなぜまずいのか、それは過去を忘却し、回想を、ひいては思考そのものを放棄するからである。そして、「放下」の概念において、ハイデガーが目指したのも、まざに能動態と受動態の外部の世界であった。

 

さらにドゥルーズの『意味の論理学』において中動態をめぐる議論は深化される。『意味の論理学』は存在はどのように表現されるかという問題をめぐるが、その存在の仕方は能動態でも受動態でもない意味の表層に属するものである。ドゥルーズは、動詞中心主義を唱えるが、その動詞とは活用を持たない不定法の動詞なのだ。
 

そして、本書の議論がクライマックスに達するのは、スピノザをめぐる議論においてである。というのも、神は自然であるとするスピノザの哲学においては、神の外部の行為者を想定する受動態そのものが、ありえない前提であるからだ。いかにして、人間における能動や受動の概念を定義するのか。スピノザに新たな光が投げかけられる。この論考は、國分功一郎の論考の中でもひときわ高くそびえるものであり、ここで明らかにされた「中動態的存在論」によって、スピノザの『エチカ』やドゥルーズの『スピノザと表現の問題』の謎めいた記述が、雲が晴れたように明らかにされることだろう。

 

  われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。pp256-257

 

そして最後を結ぶのは、メルヴィルの『ビリー・バッド』という小説の中における善と悪、徳と悪徳の問題である。人ははたして、自らの自由意志によって行動を選択することができるのかという根源的な問いが、再び提起される。

 

『中動態の世界』は、言語史的な考証をはらみつつも、同時に主体の倫理に関わるという意味において、きわめて哲学的な書物である。私たちの行動は、能動態/受動態という分割によって、自らの意志で何かを行ったか、他から強制されて何かを行ったかに区別することを求められる。そして、そこに自由意志と責任の概念も発生する。しかし、中動態という態を導入することで、このような区分が必ずしも事実に即したものでないことが明らかになる。「自由意志」のある世界が必ずしも、私たちが自由な世界ではないのである。

 

『中動態の世界』は、私たちを近代の主体の呪縛から解放し、さらには現代においてスピノザ的に考え、あるいは生きる方法を可能にしてくれるような書物である。それは、私たちの思考を「尋問する言語」より解放し、より自由にしてくれることだろう。

 

関連ページ:

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