つぶやきコミューン

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坂口恭平『しみ』

 文中敬称略  ver.1.01

 

 

『しみ』(毎日新聞出版)は、坂口恭平の最新の小説だ。帯を見ると「青春小説」であるらしいがよくわからない。その世界は、ロードムービー的な展開においてケルアックの『路上にて』のようにも、ラリったような世界のビジョンにおいてウィリアム・バロウズの世界のようにも見える。いわゆるビートニック世代の血統をひいた小説なのだろう。だが、そのビジョンから感じるものは、中南米や中東、あるいはインディアンのフォークロワのようでもあるし、ガルシア・マルケスのようなラテンアメリカ文学のマジックリアリズムの作品のようにも思える。

 

語り手である「ぼく」、マリオは、21歳。熊本の実家から東京へ戻るのために始めたヒッチハイクの旅が、スランプに陥ったころ、相模湖付近で、シミの乗った車に拾われる、車は、グレーのポルシェ1058年式の356、サンルーフのあるモデルだ。

 

けれども、シミがいる場所はどこでも世界が姿を変えてしまう。『徘徊タクシー』の認知症の曽祖母トキオは、恭平の車に乗るうちに自分一人で山口へ行くのだが、シミの場合には、同乗するぼく、マリオもその世界へと連れていってしまうのだ。

 

シミがいるところはどこでも世界が他のどこにでも変わるし、シミもまた様々なものに姿を変えるのだった。

 

シミとともに八王子で生活するうちに、シミを含め八人の男にマリオは出会う。

 

いま、ぼくは八王子から遠く離れている。そもそも八王子に住んだことはない。八王子の地理はいまだよくわからない。いつもシミの車に乗っていたから、シミの目でしか八王子を知らないのだ。シミ以外と八王子に行ったことがない。八王子には、実際に八人の王子が暮らしていた。あくまでもそれはぼくの推測だ。たしかに住んでた。彼らはきっと王子だ。

 タカ、ヨギン、シモン、ニーチ、コウ、ハッサン、クレナイ、そして、シミ。pp7-8

 

実家のある高知から八王子へやってきて、今は中華料理屋ではたらいているニーチ

その五つ違いの兄弟のシモン

かつてメキシコで生活し、今は目黒で食べ物屋を営んでいるクレナイ

カサブランカ近くの村の音楽一家の末っ子として生まれたハッサン

ディズニーランドのアトラクションの設計にあたるコウ

底のない靴をはいていた行商人のヨギン

バークレー音大卒のベースギター弾きのタカ

 

バラバラな生まれ育ちとキャリアの持ち主なのに、なぜか一つのムラを形成している彼らに、ぼく、マリオが出会ったのはほぼ同時だった。

 

 ぼくたちはたまたま出会っただけだった。ぼくたちはたまたま同じ頃に出会った。しかし、なぜかぼくの目には強い共同体のように見えていたから不思議なものだ。pp92-93

 

『しみ』は、シミ一人の物語でなく、この八人の王子たちとマリオの群像劇なのだ。

 

彼らは、それぞれに、言葉と音楽の力によって、その周囲に独自のレイヤーを生成し、独立国家を築いている人びと、いわば坂口恭平の分身のような存在だ。世界は、その内部の風景が外部化することで、彼らの周辺で変容し続ける。

 

そして、シミはその中の不在の中心点。至るところ(everywhere)にいるが、どこにもいない(nowhere)存在なのである。

 

  シミは相変わらず黙ったままだ。シミはどこかへ行っていた。夢の中じゃない。夢の話なんかシミは一度もしなかった。きっとシミは夢なんか見ない。一度もシミが眠っているところを見たことがないとニーチは言った。だから、いまだって寝ているんじゃない。そこかへ行ってるだけだ。p41

 

八人の王子のそれぞれが語り始める物語は、どこかしら常軌を逸し、過剰なイメージで溢れかかえっている。それが、シミの車による移動によって、連鎖しながら、音楽や踊りとともにどこまでも続いてゆく。それは、フェリーニの映画のような、日常性の中の細部が巨大に肥大化して、非日常に達してしまうような世界、カーニバルの世界である。

 

そう、シミが最初にマリオを連れて行った先も、自らが道化を演じるサーカスではなかったか。

 

 生ドラムの音が鳴った。幕の向こうにトラの腹が見えた。しかし、出てきたのは道化師だった。べつに鼻が赤いわけではない。化粧すらしていなかった。脂肪たっぷりの腹を出し、髪はぼさぼさで、やる気がまるで感じられない。一番目の客に唾を吐いた。叫び声が聞こえたが、騒ぎになることもなく、観客は黙って道化師のほうを見た。道化師はポップコーンを脇に抱えていた。それはシミだった。遠くから男が大きな声で「シミ!」と叫んだ。シミの服には血みたいな染みがついていた。額には紫色のあざが見える。いったいこれはサーカスなのか?そもそもトラがこんなところに出てきて大丈夫なのか? p23

 

『しみ』が、青春小説であるのは、それが二十代のころの坂口恭平の切実な経験に根ざしたフィクションであり、8人の登場人物のそれぞれにモデルが存在するのだろう。けれども、かつて感じ取っていた彼らの内なる世界を、連続するタペストリーのように広げることができるようになったのは、『現実宿り』や『けものになること』を経て、坂口恭平が夢や向こう側の世界を表現することができるようになったからである。

 

2017年5月20日のこの時点において誰もまだAmazonのレビューが書けないでいるように、おそらく多くの人は、『しみ』の前に戸惑いを隠せない。多くの人が考える「文学」の枠の中におさまらない何か。はたしてこれは傑作なのか、それとも頭のおかしい人のたわごとなのか。けれどもこれは文字で描かれた絵画としての詩なのだ。音に出して、『しみ』の16の章を読むならば、そこから湧き出す無限のイメージの豊かさと、無国籍な、日本文学のコンテキストをぶっとばして、世界文学の最前線で語られるフォークロアのような豊かで親密な響きに驚くにちがいない。

 

それは脳の3D空間に響く音楽の言葉にほかならない。それを受け取るには読者にも才能が必要だ。

 

どんな才能か。書かれたものを、途中で理性や合理主義によって否定することなく、そのままに受け取り想像し続ける才能、不撓不屈のイマジネーションである。

 

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