つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
 
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
宮下奈都『羊と鋼の森』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋)は、若い新人調律師の日々の生活を描いた長編小説だ。羊と鋼の森は、ピアノの内部構造を表している。

 

山奥で育った外村(とむら)は、高校時代体育館で立ち会ったピアノの調律に魅せられ、やがて自らも調律師としての道を歩むようになる。

 

右も左もわからぬままに、先輩調律師のに連れられて、客の家を回るようになる。そして、調律を任されるようになる。しだいに自信を持ち、作業を一人でやるが、大きな失敗をやらかしてしまう。客の要求に応えられず、拒絶されることもあれば、ひどい状態のピアノを生まれ変わらせて、死んだようになっていた持ち主の目に生命の光がともらせることもある。

 

そんな中でも、外村が気になっていたのが、佐倉家の双子の姉妹、和音(かずね)と由仁(ゆに)だった。

 

美しい粒のそろった音を持つ和音、色彩感あふれる演奏の由仁。柳は妹の由仁の方を評価していたが、戸村のお気に入りは姉の和音の方だった。

 

しかし、ある日佐倉家から調律を断る連絡が来る。ピアノを弾けなくなったのだと言う。二人のうちどっちが?それ以上のことは何もわからなかった。

 

それまで淡々と調律師の客回りの日々を描くだけだったこの作品も、ここから一気に加速する。

 

外村は、素朴で素直だが、社交の才は乏しい、気の利かない男だ。ただ真面目に日々の仕事をこなし、事務所のピアノを調律する訓練を積んだり、家ではピアノ曲集を聴くだけの。有名なピアニストのピアノの調律をしたいという野望もない。

 

だが、この姉妹とともに、外山の心にも変化が生じ始めるのだった。

 

『羊と鋼の森』は、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』とは対照的に、ピアノの調律がテーマであるにもかかわらず、ほとんどクラシックの曲名が出てこない。これは大変な力業だ。名曲と演奏者が生み出すスリリングなドラマ、それにいっさい依拠せず、ピアノの内部構造をいじる地道な作業や、それが奏でる音そのものを、その変化を描こうとする。そのとき、見えてくるのは、外村の故郷の森の風景であり、ピアノの中に宿った羊のいる風景だ。

 

 綿羊牧場を身近に見て育った僕も、無意識のうちに家畜を貨幣価値に照らして見ている部分があるかもしれない。でも、今こうして羊のことを考えながら思い出すのは、風の通る緑の原で羊たちがのんびりと草を食んでいる風景だ。いい羊がいい音をつくる。それを僕は、豊かだと感じる。p66

 

季節で色を変える山の木や野鳥の姿も描かれる。いっしょに街を歩いても柳は気にかけない。それはそのまま外村の心のクオリアを描く描写となって、この作品の主音(ドミナント)を決定する。

 

 町が華やいで見えるのは、きっとオンコの実が色づいたせいだ。街路樹の赤で、見間違えるように通りが明るい。山中の実家で暮らしていた頃は、道端のオンコやコクワ、ヤマブドウが熟すのを待って、学校の行き帰りに一粒ずつ口に入れて歩いた。p29

 

柳は、そうした植物の名前を知っていることが戸山の調律師としての強みであると言うのだった。

 

「話術とか教養とかそういう意味じゃなくてさ。もっと調律の本体に役立つと俺は思う」

 調律の本体。どういうことか、よくわからない。僕はまだそのまわりをぐるぐるまわっているだけの見習いだった。

「なるべく具体的なものの名前を知っていて、細部を思い浮かべることができるっていうのは、案外重要なことなんだ」p33

 

もう一つ、『羊と鋼の森』の世界を特徴づけるのが、ベテラン調律師で社長でもある板鳥が引用する原民喜の言葉だ。

 

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」p57

 

高校の体育館での板鳥の調律に魅せられ、憧れて調律師としての道を歩み出した戸山にとって、それはそのまま自らがめざす調律の音となる。そして、宮下奈都がめざす小説の言葉なのかもしれない。

 

『羊と鋼の森』には、わがままなクライアントはいても、基本的に悪人の出てこない穏やかなドラマだ。調律師間のどろどろとした競争も、メーカーの利害のからんだ謀略も出てこない。先輩調律師の柳、社長の板鳥、事務の北川、基本的にはみないい人ばかりである。コミュニケーション能力の若干不足した職人肌の外山だが、もともと似た者同士の職場なので、大きな齟齬をきたすわけではない。そして、ほの暗い世界に光がさすように、しだいに周囲の理解と評価を得るようになってゆく。それが森の風景と共に、読者の心をゆっくりと癒してゆく。

 

そういう意味でも、キャラ立ちした人物が数多く登場する、ドラマチックな展開の『蜜蜂と遠雷』とは対照的な作品だ。

 

『羊と鋼の森』は、心が疲れたとき、思わず読み返したくなるような力を持った静かな名作である。 

  Kindle版

書評 | 11:10 | comments(0) | - | - |
コメント
コメントする









 

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.