つぶやきコミューン

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千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

勉強の価値を説く本、勉強の方法を紹介する本は多い。先生や親、大人世界の住人たちは勉強はよいことだと言う。しかし、子どもの世界では勉強は必要悪なのだろう。一方で、子ども時代のルサンチマンを晴らすべく、成長した書き手によって勉強は悪しきイメージを与えられてきた。「ガリ勉」という言葉があるように、子どもの側から見れば自分たち遊び仲間との関係を断絶させながら、大人の価値観に迎合するも、いわば抜け駆け的行為、裏切りとして、悪しきイメージを与えられてきた。誰もが経験する勉強に関しては、このようにダブルスタンダードの言説が世の中に流通している。しかし、ここで語られる負の側面とは、主として競争社会の白黒をつけるツールとしての勉強であり、勉強、学習の本当の恐ろしさではない。同時に、勉強すること、学習することの楽しさも語られてはいない。

 

千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋)は、勉強することの意味やメリット、デメリット、基本となる考え方、具体的な方法に至るまで、ラディカルに語った学習のバイブル的な本である。その基本概念は、勉強は変身であり、自己破壊であるというものだ。どういうことだろうか?

 

 勉強とは、自己破壊である。

 では、何のために勉強するのか?

 何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

 それは「自由になる」ためです。

  どういう自由か?これまでの「ノリ」から自由になるのです。p18

 

 

 

勉強はそれまでの自分を破壊する変身である。しかし、それには代償もつきまとう。

 

 私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい「可能性」を開くために、深く勉強するのです。けれども、後ろ髪を引かれるでしょうーーーー私たちは、なじみの環境において、「その環境ならではのことをノッてやれていた」からです。ところが、この勉強論は、あろうことか、それをできなくさせようとしているーーー勉強によってむしろ、能力の喪失が起こる。p19

 

『勉強の哲学』は、「来たるべきバカのために」というサブタイトルが付与されている。学ぶ前に、人は単なるバカである。しかし、学ぶことによって変身し、自由な存在となる。しかし、変身は周囲との関係性を変化させてしまう。

 

たとえば、著者が用いていないわかりやすい例を挙げるなら、梶原一騎原作の『空手バカ一代』(実話とは異同があるがその真偽はここでは問わない)では、大山倍達は山ごもりして空手の修業をする。それまで、ヤクザの用心棒として、自堕落な日々を過ごしていた彼は一念発起して、様々なトレーニングを課す。人里から離れ、世間との関係性が切断する。山を下り、元の生活に戻りたいという衝動が夜な夜な襲ってくる。そこで、片方の眉をそぎ落す。つまり自らキモイ存在になることで、変身を全うしようとするのである。かくして山から下りた大山は、無敵の強さを身につけた存在になるが、「ケンカ空手」との悪名を着せられてしまう。つまり、世間からは完全に浮いてしまうわけだ。その後、牛と闘ったり、アメリカに渡ったりの長い紆余曲折を経て、「空手バカ」として世界からも認められるようになるのである。

 

つまり、勉強→変身→関係の断絶・キモい存在→空手バカとしての世間の認証

 

というプロセスを経ている。これが「来るべきバカ」に至るプロセスだ。こと学問に限らず、スポーツや武道、芸術、習い事に関しても、勉強すること、学習することは、その過程において、変身によるネガティブな側面を抜かして語ることはできない。

 

必ず途中にやって来るのは、それまでのノリのいい自分の否定である。

 

『勉強の哲学』は、自己啓発書の一種と考えるのは誤りではないが、一般の自己啓発書がユートピア思想であるのに対し、『勉強の哲学』はリアリズムによるディストピア思想でもある点が根本的に異なる。本書における千葉雅也の最大の成果は、勉強善玉論にも勉強悪玉論にも傾くことなく、勉強・学習の持つダブルバインド的な性格をクローズアップさせたことにある。

 

勉強は、学習は、世間一般に対する二重の関係性を持っている。それはまず先行する世代による若い世代への規範の押しつけ、洗脳である。だが、若い世代が自由を獲得するのも、この勉強というツールを通じてである。わかりやすく言い換えるなら、ある国が被支配民に対し、武道を押しつけたとしよう。しかし、その武道は、同時に民衆を強化し、反乱や抵抗運動の武器となる可能性も秘めている。あらゆる学問も、芸術も、スポーツも、武道も、この学習内容が、それを与える権威や権力に対抗したり、否定したりする武器になりうるという共通の性格を持っている。その中心となるのが言語という存在である。

 

 言語習得とは、ある環境において、ものをどう考えるかの根っこのレベルで「洗脳」を受けるようなことなのです。これは非常に根深い。言葉ひとつのレベルでイデオロギーを刷り込まれている。これを自覚するのはなかなか難しいでしょう。だから、こう言わねばならない。言語を通して、私たちは、他者にのっとられている。pp33-34

(…)言語は、私たちの環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して「距離をとる」ためのものでもある。p39

 

どのような分野であれ、深く学習することによって人は自由になる。しかし、その自由さ、新しいノリは必然的に周囲との軋轢、葛藤を生む。これは語っている言語が同じでなくなったためである。つまり、学習の弊害とは自由になりすぎて、それまでしたがっていた同調圧力を否定するような言動を自然にとってしまうことなのである。

 

 勉強とは結局、別のノリに引っ越すことですが、この勉強論で光を当てたいのは、以前のノリ1から新しいノリ2へ引っ越す途中での、二つのノリの「あいだ」です。そこにフォーカスするのが本書の特徴です。

 二つのノリのあいだで、私たちは居心地の悪い思いをする―――。

 以前のノリ1と別のノリ2のあいだで、自分が引き裂かれるような状態。

 あるいは、

 二つの環境のコードのあいだで、板挟みになる。p40

 

同調圧力に抗する拠点としての言語の自由な使用は、また詩や小説のような文学表現へと高まる可能性を持っている。言語には二種類の使用法がある。「塩をとって」のような「道具的」な言語使用と詩やダジャレのような「玩具的」な言語使用。これはそのまま吉本隆明が『言語にとって美とは何か』で提示した指示表出と自己表出という言語の二重の性格に、ニュアンスの差はあれ対応する。

 

詩のような言語の玩具的な使用、言葉を不透明な物質のように扱う使用ができてこそ、世間と癒着した自己を相対化するツールとしての言語はその全き使命を果たすことが可能となる。社会学でも、フランス料理でも、特殊な勉強課題があるが、それとは別にあらゆる分野に共通の一般勉強法というものが存在する。

 

 一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。それは言語操作によって、特定の環境のノリと癒着していない、別の可能性を考えられるようになることである。p53

 

さらにもう一歩進めれば、

 

 自由になる、つまり、環境の外部=可能性の空間を開くには、「道具的言語使用」のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウェイトを移す必要がある。p56

 

AIが可能とするというディープ・ラーニング、深い勉強を人間の私たちも行う必要がある。著者がラディカル・ラーニングと呼ぶ深い勉強法は「言語偏重になり、言葉遊びの力を解放すること」によって可能となるのである。

 

以上は、「第一章 勉強と言語 言語偏重の人になる」の図式そのものというよりも、世間一般と本書の基本概念である第一章の内容との落差を埋めるための便宜的な説明である。第二章以下は、読む楽しみを損なわないように、しかし来たるべき読者の好奇心には応える程度に簡略にまとめたい。

 

「第二章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス」では、ツッコミとボケの二つの技術が、勉強を深める方法として、ナンセンスの概念とともに提示される。ともに、共同性から分離し、場から浮く二つの方法であるツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアを研究することで学習の本質が見えてくる。

 

 ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである。p64

 

ツッコミとボケの本質は以下のように要約される。

 

 ツッコミとは、周りが当然のように言っている話に対し、「そうじゃないだろ」と否定を向けること。これは、シリアスに言えば、「疑って批判」することです。

 ボケとは、一人だけ急に、「ズレた発言」をすることですね。ツッコミと対比するならば、ボケの場合では、勝手にその場のノリからズレていて、孤立した感じを与えるでしょう。p70

 

しかし、学問の方法としてのツッコミには大きな欠点がある。ツッコミとはコードの根拠の攻撃である。ことごとく根拠をちゃぶ台返ししてしまうツッコミはどこまで行ってもキリがない。環境依存でしかない言語の真の意味を問いかけることよりそれは生じる。

 

これに対し、ユーモアはズレた発言を連想的に行い、その場の話をすりかえてしまうジャズの即興演奏のようなものである。

 

際限のないツッコミ=イロニーは「言語なき現実のナンセンス」に陥り、根拠の底なしへ向かう。際限のないボケ=ユーモアは、「意味飽和のナンセンス」に陥り、エントロピー極大化の熱死状態に行き着く。つまり、いずれもキリがないのである。

 

これに対し、たまたま懐かしい時代の思い出の一つとして出た「ドラゴンボール」をキャラクターの一挙手一投足にこだわり細々と語ってしまうユーモアもある。このコードの全体から部分へと話が縮減される縮減的ユーモアは、個人のこだわり、享楽へと結びついた「形態のナンセンス」にゆきつく。

 

個人のこだわり、享楽に基づく「形態のナンセンス」にはユーモアの接続過剰を断ち切る力がある。

 

個々人が持つさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば「仮固定」を可能にする。p112

 

わかりやすく言いかえるなら、学問のとりあえずの足場となるのは、話し出したら止まらないくらいこれが好きという個人の嗜好、欲望に帰着するということである。

 

本書の方法の第一としてあげるのが有限化、つまりどこかでキリをつけるということである。「第三章 決断ではなく中断」では、問題意識を追いかけ、キーワードをピックアップする方法を紹介するが、そのときぶつかる勉強の際限なさをいかに解消すべきか。

 

 勉強は二つの方向できりがなくなる―――追求と連想、アイロニーとユーモアです。言い換えれば、「深追いのしすぎ」「目移り」になる。勉強はアイロニーが基本なので、「深追いしているうちに目移りしてしまう」というのが、よく起こることです。p135

 

その際やってはいけないのが、エイヤッと決めてしまう決断主義だ。なぜなら決断するときの自分は空っぽな存在だからだ。そして同時に行われるのは偶然の選択の真理化である。その道をとらないとすれば、自分なりに比較しつつキリをつけなくてはいけない。

 

どこかで比較を中断し、仮固定しなければならない。そして、勉強の進行とともに、その仮固定は、移動してゆくしかない。信頼できる他者は、同じように比較し続ける人、同じように勉強し続ける人である。勉強は、続くよ、どこまでもの永続学習論だ。

 

ここへきて、千葉の前著である『別のしかたで ツイッター哲学』の主張とも本書は完全にリンクすることになる。仮固定の足場は、個人の享楽、こだわりである。このこだわりは個人の生活史の中で環境依存的に決定されるが、それを距離をおいて把握し直すため、自分自身に対する精神分析のオルターナティブとなる「欲望年表」の作成を著者は勧め、後半その方法を紹介している。

 

享楽的なこだわりとは、実は自分のバカな部分である。それを方法論的に勉強の中で深化させることにより、ひとはただのバカから、いったんキモさを身につけ、キモさをアク抜きする中で、一周まわって「来たるべきバカ」になるのである。

 

「第4章 勉強を有限化させる技術」で語られるのは、これまで必ずしも明示的な形で語られたわけではないが、学問を始める人のには必須の常識であり、教師の位置づけや入門書→教科書・基本書→一般書→専門書の学習順序など、プロ・モードでの文章の書き方などエッセンシャルな事柄が語られている。大学入学した学生には、全員に配布したいような内容だ。その後に続くEvernoteやアウトライナーを活用したアイデアの実装方法などの紹介は割愛するが、第四章の中でも、最も重要と思われる「まともな本」の定義の説明をあげて、内容の紹介を終えることにしよう。

 

 情報の比較を続けている、つまり、勉強をつ続けている人たちは、何らかの「知的な相互信頼の空間」に属している。それは「研究」であり、最もシビアに言えば「学問」です。(…)

 本書の始めで、信頼できる著者、「まともな本」、とう表現をしました。

 信頼性の―――絶対的ではなく、相対的な根拠とは、その著者・文献が、「知的な相互信頼の空間から信頼を受けているかどうか」である。

 もう少し詳しく言えば、専門分野の業界や、学問の世界に直接・間接の関わりがあり、同種のテーマに関する他者との建設的な議論が背景にあるかどうか、です。pp188-189

 

本書には、学習、あるいは学問の入門書としての性格以外に、哲学書、思想書としての性格も、著者は持たせていて、その重層的な構成が大きな魅力の一つとなっている。巻末の「結論」では、本書のエッセンスがコンパクトに要約され、「補遺」では本文中では明示的に語られていない参照すべき書籍や関連する人物などの解説も付加されており、至れりつくせりの親切な構成となってるのである。

 

Kindle版は4月14日(金)より配信スタート

 

関連ページ:

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千葉雅也監修『哲子の部屋掘
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