つぶやきコミューン

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坂口恭平『けものになること』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

『けものになること』(河出書房新社)は、坂口恭平の小説だ。冒頭において、語り手は自分はドゥルーズであり、『千のプラトー』の「第十章 けものとなること」を書こうとしていると高らかに宣言する。こうしたフィクションの設定をフレームとしながら、自由に「けものとなること」の主題を、ドゥルーズ=ガタリの文体やテーマを意識しながら、変奏/変装してゆくーーーそんな作品である。

 

 われわれは『千のプラトー』を書いている。わたしは突然、第十章『けものになること』を書く羽目になった。しかし、われわれは二人だ。二人でそれぞれに二つも惑星を持っているのだから、それだけで複数だ。pp8-9

 

けれども、哲学書の縛りはきわめてゆるい。『けものになること』は、ときどき体言止めの連発や「〜するな、…せよ」などドゥルーズ=ガタリ的な語り口(スローガンの形で書くこと)や、機械、装置、器官、分子、速度、緯度と経度、地図、領土、平面、多様体、ダニといったおなじみの概念をテーマ的に取り上げるだろう。

 

精神分析から脱獄すること、自分を判断しないこと。簡単に臨床状態に陥らないこと。あらゆる状態に陥らないこと。その前に逃げること。健やかであれ。p8

 

『けものになること』は、またドゥルーズが好んで引用する一連の名前、カフカ、プルースト、ベルクソン、ヴァージニア・ウルフ、クライスト、メルヴィル、ケルアック、バロウズ、アルトー、ゴダール、フランシス・ベーコンを取り上げ、読解と批評を行うことだろう。しかし、その記述は、やがてドゥルーズが読まなかったであろう固有名詞、南方熊楠や宮沢賢治、土方巽を混交させることいとわない。

 

本は人と違う方法で、われわれの方法で使う必要がある。われわれはバロウズの全集を持っている。われわれはプルーストのメモ帳を夢日記を持っている。ケルアックが文字を書くときに使っていた自撮り写真、ピントの外れた無数の写真、ジョイスの食卓での『団欒録音』、レーモン・ルーセルの『ピアノ曲集』、収集していた『マッチ箱装画コレクション全集』、ニジンスキーの『棋譜』、アルトーの『航空券ファイル』、ローレンスの『自作動物図鑑』、熊楠の『精液点描画集』、メルヴィルのカットアップされてまったく別の残酷小説と化した『新・旧約聖書』、ラブクラフトの『病院カルテ』、ゴダールの『家計簿』、『現代・一遍ダンス曲集』、ベルクソン『直感記録』・『偶然記録』二部作、外骨の『性行為日記』、『盗撮写真集』、平賀源内の『スリについて』に至るまで、あらゆる本を無作為に選んでいる。本は物ではない、本は開かれた骸骨だ。まだ死んでいない体だ。触手を伸ばしている化学式、折れた大木。昆虫の抜けた足だ。今すぐ外科医を呼んで、その本を、足を、化学式を、体に接続し、まったく未知の無意識をつくりだすのだ。pp7-8

 

それゆえ、『けものになること』は単にわたしの、わたしたちの変身譚だけでなく、彼らの、様々な名前の変身譚であり、それは他者の言語の読解・批評をも含んだ試みである。どこまでが読解であり、どこから想像であるのか、その境界も定かではない。読解は、読み手の思考がまじるとき、「誤読」となる。誤読の力によって、『けものになること』は、さまざまな固有名詞について、自由な連想と批評を行い、新たなストーリーを創造し、自らの力の中に取り込んでゆく。

 

あるとき男はハックルベリ・フィンとなり、ウォルト・ディズニーとなる。千のプラトーにふさわしく、何十何百もの変身譚、わたしたちの、かれらの話が、けものになることが、けものの群れになることの舞台が、台地となって次々に継起する。

 

 男はハックルベリー・フィンだと名乗った。この時代に。今は二十一世紀だ。二十一世紀のハックルベリー・フィン。生きてられるはずがない。あの男が。あの浮浪児が。児童相談書にいれられてそれで終わりだ。p178

 

 ウォルトは晩年、ねずみと話せるようになったという。麻薬の対話。酩酊できないウォルトは不眠症ではなく、ねずみと一緒に起きていることを選んだ。p192

 

豊饒なるイメージの奔逸、連想の継起が続く『けものになること』の文章は、ロートレアモンの『マルドロールの歌』や、アンドレ・ブルトンによるシュルレアリスムの自動筆記に似ているが、それらもまた『けものになること』では批評や否定の対象となっている。批評は、否定神学の要領で、自らを定義する。

 

 シュルレアリスムは明らかに間違いである。あれには思考はない。ロートレアモンの誤読をそのまま放置し、それを一つの機関にしている。p166

 

ドゥルーズ自身もまたダダイズムに共感を寄せ、シュルレアリスムに批判的である。シュルレアリスムは国家という言い方にも、本家ドゥルーズは異議を唱えないだろう。

 

(…)でも実際のところ、おれらはわかっている、みせかけの世界と、おれわかっている世界、そういった円環を延々と続けても、ただのシュルレアリスムで終わってしまう。シュルレアリスムこそ国家だ。そうではなく、遺伝子の先の機械。『超』蝶。p171

 

自動筆記ではなく、誤読。わたしたちがここで経験する光景の継起は、自動筆記によって再現できない。

 

誤読は注意して行う必要がある。それは自動筆記では実現できないのである。これが自動筆記であるとどうして言えようか。わたしは光景を見ている。それだけだ。われわれが光景を見るとき、それが自動筆記であると言えない。それはただの行為ですらない。もはや早すぎて、時間が流れていることする忘れてしまっているのである。つまり、速度。しかも、それによる遅延。ディレイ。もしくは停止。それはすべてイリュージョンである。p168

 

ここにこそ、いかに『けものになること』を読むかの手がかりも書かれている。一つの方法は、文字による絵画として、何十何百という変容する光景が継起する長大なタペストリーとして、いわば言語によって描かれた鳥獣戯画のようなものとして、見ることだろう。

 

『けものになること』は、末尾に近づくと、しだいに加速し、その中には坂口恭平の身辺の記号が、洪水のように乱入してくる。いのちの電話、09081064666という、実際にダイアルを回せば坂口恭平が出るかもしれない携帯の番号までもが、反復強迫のように繰り返される。

 

 09081064666。それは通路だ。通路に一つも二つもない。唯一の通路。あらゆる通路は唯一のものだ。接続することもできない。それはただの通路。どこともつながっていない。もちろん点と点を結ぶ線である。それが通路。しかし、それは器官でもなければ感覚でもない。それは別の場所にある。ここにはない。どこにでもある。われわれはどこにでもいる。0908106466 6。p205

 

末尾になって気がつくであろう。『けものになること』は、言語として分節された、わたしたちの多様体の変容の過程そのものに他ならなかったことを。それは著者と読者の境界さえも破壊する通路としての書物である。それは壮大な実験である、散文詩の冒険なのである。あるいは、坂口恭平によるドゥルーズの即興演奏、どこまでがドゥルーズであり、どこからが坂口恭平であるかも定かでない何か。それこそがドゥルーズ=坂口の世界である。

 

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