JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
第156回直木賞受賞作恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)は、ピアノコンクールを舞台にした青春群像である。
物語の台風の目となるのが、風間塵。まだ十六歳のあどけなさを残す少年だが、海外の巨匠のお墨付きの途方もない音楽性を持った「天才」として紹介される。さらに、彼の家は養蜂業を営んでおり、家にはピアノを持っていないといった噂が都市伝説のように広がってゆく。
けれども、風間塵の存在は、あくまでコンテスタントの中の主要人物の一人として、他の若手ピアニストと同等に扱われる。誰が主人公という風に重点化されることはないのである。
その中でも、ヒロイン的存在が、栄伝亜夜、天才少女として華々しくデビューし、内外のコンテストを制覇、さらにオーケストラとの共演まで重ねたアイドルでありながら、身内の不幸もあって13歳にして突然ピアノが弾けなくなり、表舞台から消えていたが、二十歳の今、このコンクールに再起を賭けようとする。
他方、成熟したピアニストとして現れるのが、父親がフランス人、母親がペルーの日系三世で、ジュリアード音楽院に学ぶマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。完璧な演奏技術だけでなく、さまざまな楽器もたしなみ、総合的な音楽性も抜群のスターである。だが、亜夜とは浅からぬ因縁があった。
こうした華々しい人間とのコントラストを浮き立たせるように、コンクールの年齢制限ぎりぎりで、妻子持ち28歳のサラリーマンピアニスト高島明石も登場する。何曲を弾きこなすのに、「天才」たちの何倍も練習しなくてはいけない人間なりの苦悩や望みを彼は体現するのである。
さらに、コンクールの審査を務める指導者世代のピアニスト嵯峨三枝子、ナサニエル・シルヴァーバーグや、それを伝えようとするメディアの人間仁科雅美といった人々を加え、実は十名程度の主要人物のやりとりや心情描写によって、この『蜜蜂と遠雷』は織りなされてゆくのである。
舞台となるのは、芳ヶ江国際ピアノコンクール。芳ヶ江は、海辺の都市、企業城下町であり、楽器の町、鰻が名物であるからおそらくは浜松あたりをモデルにした架空の都市であろう。小説世界を現実から引き離し設定の自由度を高めたり、モデル問題で要らぬ詮索を回避するために、架空の都市、架空のコンクールにしたのであろう。
物語は、一次予選、二次予選、三次予選、本選という形で進んでゆく。そのたびにコンテスタントはふるいにかけられる。四人のピアニストが均等に扱われるのは、その選考過程で、誰が勝ち残るかとの予想をつきにくくするためでもある。当然、選に漏れるピアニストも出てくるであろう。明暗が分かれる。そのためには、最初から特定のピアニスト中心に展開するわけにはゆかないのだ。
正直言うと、一次予選のころの演奏の描写は、形容詞による評価中心で、物足りなく感じてしまう。けれども、読み進めるにしたがってそれが、意識的に抑制し、セーブされたものであることがわかってくる。中盤に出てくる、宮沢賢治の詩をモチーフにしたオリジナルな課題曲『修羅と春』あたりから個々の音楽の内部にふみこんだ濃厚な描写がほとばしるようになり、三次予選、本選では爆発的なクライマックスを迎えることになる。
そのプロセスにおいて、しだいに表に出てくるのは、誰が何位となるかといった勝負ではなく、むしろ演奏者間の相互作用、ケミストリーである。型破りな風間塵という少年が、二酸化マンガンのような触媒となって、他のピアニストたちの内面へと働きかけ、彼等を一層自由にし、進化させてゆくのである。そこでの主眼は、まさにコミュニケーションとしての音楽である。
しかし、風間塵は、コンクールの枠にはまらない存在であり、規定違反をおかすときが出てくるかもしれない。
そのとき、審査員たちはどう彼を扱うのか、まさにその度量が、はかられる。
恩田陸は、ピアノコンクールというイベントを、外的な仕組みからではなく、複数のピアニストたちの対話と内面の独白の積み重ねによって綿密に、かつダイナミックに描きあげる。何という力業。
そして、その中で浮かび上がってくるテーマは、自由に音楽することの喜び、音楽賛歌である。
『夜のピクニック』から十二年、恩田陸はいまや巨匠の風格を漂わせる小説家となった。『蜜蜂と遠雷』は、まさにその証明である。
PS 以上の文章は、紙のバージョンによるものだが、2段組み507ページの紙の書籍と、電子版とでは大きな違いがある。まず電子版の場合にはいくらページを増やしても厚みに影響しないので、一段組となっている。また冒頭にある目次とコンクールの課題曲の一覧は、紙バージョンで横書きになっているが、電子版ではすべて縦書きに変更されている。