つぶやきコミューン

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岸政彦『ビニール傘』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

『ビニール傘』(新潮社)は、『断片的なものの社会学』の著者岸政彦の初の小説集である。

 

『断片的なものの社会学』を読んだ時に、この本は小説よりも小説的であると感じた。名もなき人々の生きた声が、これほどリアルに伝わった社会学の本はかつてなかった。それだけに、岸政彦が小説を書いたとしても、そこに何の違和感も感じなかったのが正直なところだ。要は、取材した声を、なるべくあるがままに伝えるか、それともそれらにフィクションの要素をとりまぜて、物語のかたちで構成し直すかの違いである。フィクションの場合には、そこに、自分の私生活の断片や、感じ方といった要素も、さりげなくすべりこませることができるだろう。

 

『ビニール傘』はともに大阪を舞台とした「ビニール傘」「背中の月」の二編からなっている。「ビニール傘」は本文70ページほど(うち12pは11枚の写真で占められる)、「背中の月」は45ページほど(うち写真は7p7枚)の長さなので短編集と言ってよいだろう。しかし、両者の構成はかなり異なっている。

 

「ビニール傘」は、断片的な内的独白で構成される小説である。この物語を読みだした読者は最初戸惑うにちがいない。はじめ、ああこれはタクシーの運転手を主人公とした話なのだなと考える。

 

 十七時ころ、ユニバで客をおろして街中に戻る途中、此花区役所を通り過ぎたところで右折して小さな運河を渡る橋の上で、若い女がスマホに目を落としたままでこちらも見ずに手を上げていた。停車してドアをあけると、スマホを睨んだまま乗り込んできて、小さな声で新地、とだけ言った。p7

 

女性客を乗せたタクシーから、一行の空白をはさんで、次の段落は路上に出てしまいっている。

 

 なんとなく、誰かと話をしたいな、と思った。たとえば、黒い髪の、水商売の女なんかと。つらいことがあれば聞いてやりたい。自分の話なんかしないで、ただ話を聞いてやるのに。

 歩行者信号が赤になった。いつもなら気にせずに歩いて渡るけど、横からタクシーが出てきたから、しかたなく立ち止まった。タクシーの運転手って、どういう仕事だろう、とふと思う。p9

 

話題の持続性は保ちつつも、いつのまにか内的モノローグの主は清掃夫へと変わっていることに読者は気づくのである。様々なビルへと派遣される彼は、エレベーターから降りた女とすれちがう。その女はどうやら、さきほどのタクシーをおりたばかりの客のようだ。

 

しかし、一行の空白をはさんで次の内的独白はコンビニ店員のそれに代わる。そのたびに風景は大阪の内部を少しずつ移動してゆく。最初のタクシーは、此花区役所近辺からはじまっていた。次のビルの清掃員は堂島周辺、そしてコンビニは北港通に面している。

 

 俺は女にお釣りを渡してから、レンジで温めた弁当を薄い茶色のレジ袋に入れて、手渡した。ありがとうございます。女は弁当を受け取るときにもういちど俺の目を見た。p11

 

問題はこの断章だ。私たちはコンビニ店員の話に耳を傾けていたはずだ。しかし、そこから彼は女の素性を想像し始める。すると女の部屋に描写は移る。そして、いつの間にかカップ麺をワープゾーンにしたかのように、一行の空白もはさまずに大阪港へと描写は移ってしまう。こんな風にだ。

 

 テーブルの上をもういちどよく見ると、カップ麺の食べ残しがそのままになっている。

 俺はカップ麺から目をそむけ、テトラポットの上に座ると、ぼんやりと大阪港の海を眺めた。日曜日で、港で働くものも誰もいない。いつも、見渡すかぎり無人の堤防にひとりで座って、足をぶらぶらさせながら、曇り空の海をいつまでも眺める。もう長いこと、日雇いの仕事のない日曜日は、西島のワンルームから出て、すこし歩いたところにある労働者向けの大衆食堂でカツカレーを食ってから、裏の駐車場にたくさんある猫たちにコンビニで売っているいちばん安い缶詰をあげて、それから小さな古本屋をのぞいたあと、港のほうまでぶらぶらと散歩して、海を見るのが習慣になっている。pp13-14

 

コンビニ店員の話と思っていると、いつのまにか日雇い労働者の独白に変わっている。そして空白の有無でさえも、もはや話者の入れ替わりの保証にはならないと知るのである。読者の前に置かれるのは、複数の話者の独白の断片である。そして通常の小説を読むようなリニアの流れに沿って、読む解くことの困難につきあたる。小説を構成する段落の一つ一つは、次々に開かれたパネルクイズのパネル、あるいはジグソーパズルのピースのように読者の前に投げ出され、読者はそれを想像力を使って再構成することを余儀なくされるのである。そういう意味で、「ビニール傘」は一種の謎解き小説、ミステリーと言えるかもしれない。

 

一体これは誰の物語であり、ここに出てくる男と女は他のどこで出てきた男、女と同じなのか、そんな逡巡、試行錯誤を強いられるのがビニール傘の1の部分である。この部分はすべて男のモノローグからなっている。

 

これに比べると2の部分はいくらか与しやすい。一人の女の独白からなっている。彼女は和歌山の出身で、美容師として大阪で働いていたがその後ガールズバーで働くようになる。その間に男と付き合っては別れる。おそらく、気播仂譴靴臣砲涼かと交際したのかもしれないし、そうでないのかもしれない。他の男とはただすれちがっただけなのだろう。それを暗示するようにこんな文章がある。

 

 たまたま出会うタクシーの運転手とかコンビニの店員とか、街にはいろんな男がいるのに、そのうちの誰と付き合えばいいのか、誰も教えてくれない。付き合ってみて失敗だったときでも、時間は戻らない。p71

 

彼女には女の友人がいた。しかし突然部屋で自殺をしてしまう。1に登場してきた男の誰かは、この友人と付き合ったのかもしれないし、どこかですれ違っただけかもしれない。レビュアーとして、私に言えることは、「ビニール傘」という小説のゲームの規則であり、ゲームの結果ではない。というのも、それを読み解くことは、読者一人一人に与えられた楽しみであり、特権であるからだ。

 

けれども、実は「ビニール傘」はジグソーパズルを完成するような能動的な読解を試みることなしに読み流すことがも可能なのだ。

 

それを可能にするのは、登場人物の無名性であり、言語の均質性である。1を構成する男たちは、みな「俺」で語り、会話になると大阪弁をしゃべる。2の部分ではモノローグの女性の名前の候補は挙がるが特定されることはない。そして、男たちの誰も女の名前を呼ぶことはない。それゆえに、たとえそこに異なる話者の言葉がまじろうと、全体がフラットなテキスチャーとなって読者の前に現れる。それは街中に無数に仕掛けられた防犯カメラのように、そこに生きる人の生活の断片断片を匿名性のもとにとらえ続けるのである。

 

そこから浮かび上がってくるのは、大阪に生活する、決して裕福でない人たちの生活であり、彼らが日々暮らしている街の風景、部屋の光景である。彼ら/彼女たちの多くは、決して蓄えも多くなく、どん底というほどでないにしても、その日暮らしを強いられている。(マックではなく)マクドでの食事、部屋に放置されたカップ麺、ビニール傘もまた、そうした生活の象徴である。平凡に毎日が過ぎてゆくように見えるときもある。しかしそのような生活の何というはかなさか。平凡な、そこそこの生活は、あるときに急に終わりを告げ、絶望に突き当たる。女性の友人の一人は、自ら命を絶つ。そして、彼女もまた大阪での生活を終える(ところから物語は始まる)。

 

「ビニール傘」を読み進めるうちに、何十何百という大阪の地名が現れては消える。その迷宮の中に、話者というアバターを通じて、読者はもぐりこむ。袖すり合うも他生の縁というが、遭遇する人物と視点を取り換えることもできる。そんなゲーム空間の中の彷徨を通して、大阪ミナミの下町エリアのリアル、都市の無意識にアクセスすることを「ビニール傘」は可能にするのである。
 

大正1

 

「月の背中」は、同じように、大阪を舞台とした物語であるが、その構成は前衛的な手法を用いた「ビニール傘」に比べると、かなり古典的である。登場人物は、大正地区2DKに住む一人の男、妻との共稼ぎである。会社からもリストラを迫られ、その未来にも暗雲が垂れ込めかけたころ、さらなる不幸が彼を襲う。その後、彼のとった行動は?といったシンプルな物語である。

 

大正2

 

その中で、重要な役割を果たしているのが、一軒の廃屋である。

 

 環状線の電車のなかから、いつも見える廃屋がある。野田と福島のあいだの左側の、街路樹に隠れるようにしてひっそりとひとりで立っているその小さな廃屋は、いまの会社に入ってから毎朝なんとなく目に入っていたが、急速に崩壊していくのが気になって、そのうち意識して見るようになった。人が住まなくなった家はおどろくほど早く崩れ去っていく。毎朝まいあさ、少しずつ形を変えていって、いまでは数本の柱が半分ぐらいの屋根をやっと支える程度になっている。家というものは、どうして人が住まなくなるとこんなにもすぐに崩れてしまうのだろう。p83

 

それは、投影された生活の可塑性そのものである。意識がそうした対象を選択的にとりあげるとき、ひとは何かの崩壊が自分の周辺で起こりつつあることに気がついているのであろう。「月の背中」は、「ビニール傘」よりも、一層フィッツジェラルド的な崩壊のテーマをクローズアップして取り上げた秀作であり、「ビニール傘」よりもさらに好きな作品である。

 

PS 本としての『ビニール傘』の魅力を一段と高めているのが、カバーだけでなく本文の間に挿入された鈴木育郎の写真の数々である。

 

関連ページ:

岸政彦『断片的なものの社会学』

岸政彦・雨宮まみ『愛と欲望の雑談』

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