つぶやきコミューン

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伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

  Kindle版

 

私たちの多くは、視覚に頼った生活を当然のことと考えている。そして、目の見えない人については、単に私たちの知覚の総体より視覚を除いたもの、つまり目をつぶったりアイマスクした状態と同じように考えがちである。しかし、長い間目の見えないままに生活している人の感覚や思考は、決してそのような引き算によって規定できるものではない。

 

映画化されたアメコミのヒーローの『デアデビル』や、日本映画で勝新太郎が演じる『座頭市』では、目が見えないにもかかわらず、極限にまで発達した他の感覚によって、敵と互角以上に渡り合う。そんなイメージも他方にはある。

 

視覚を持ち続けている私たちの目の見えない人に対する認識は、おそらくこの両極端の間のどこかをさまよっているのではないだろうか。

 

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどのように見ているのか』(光文社文庫)は、想像力をめぐらせるだけでは行き止まりになってしまうこの問いに対し正面から答える快著である。

 

何人もの目の見えない人に対する取材を通して、明らかにされる目に見える人との最大の違いは、空間認識の違いである。私たちが単なる町のついた駅名と認識する「大岡山」を、目の見えない人は本当に「山」と認識したというのである。

 

 私木の下さんはまず大岡山駅の改札口で待ち合わせて、交差点をわたってすぐの大学正門を抜け、私の研究室がある西9号館にに向かって歩きはじめました。その途中、一五メートルほどの緩やかな坂道を下っていたときです。木下さんが言いました。「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」。

 私はそれを聞いて、かなりびっくりしてしまいました。なぜなら木下さんが、そこを「山の斜面」だと言ったからです。毎日のようにそこを行き来していましたが、私にとってそれはただの「坂道」でした「ありませんでした。

 つまり私にとってそれは、大岡山駅という「出発点」と、西9号館という「目的地」をつなぐ道順の一部でしかなく、曲がってしまえばもう忘れてしまうような、空間的にも意味的にも他の空間や道から分節化された「部分」でしかなかった。それに対して木下さんが口にしたのは、もっと俯瞰的で空間をとらえるイメージでした。

 

目の見える人は二次元のイメージでとらえがちなのに対し、目の見えない人は三次元の空間としてとらえるのである。「富士山」と聞いて浮かべるイメージも、目の見える人は「八の字の末広がり」の平面的な富士山をイメージするが、目の見えない人は「上が少し欠けた円すい形」の富士山を思い浮かべるという。

 

目の見えない人の世界は、目の見える人に比べて、情報量が少ない。次々に目に飛び込んでくる情報に気をとられ、空間全体を3Dで把握することがおろそかになってしまう。それに対し、情報量が少ない目の見えない人の世界では、数少ない情報と情報を関連付ける中で自然の空間の俯瞰的な把握が行われてしまうのである。

 

ここに潜む大きな違いは、目の見えない人には固定された「視点」がないということである。視点がないのでどちらが表でどちらが裏といった区別もない。さらに、「視点」がないので「死角」もない。

 

(…)見えない人というのは、そもそも見ないわけですから、「見ようとすると見えない場所が生まれる」という逆説から自由なのです。視覚がないから死角がない。大岡「山」の例でも感じた、自分の立ち位置にとらわれない、俯瞰的で抽象的な捉え方です。見えない人は、物事のあり方を、「自分にとってどう見えるのか」ではなく、「諸部分の関係が客観的にどうなっているか」によって把握しようとする。この客観性こそ、見えない人特有の三次元的な理解を可能にしているものでしょう。

 

著者が、本書を通して紹介するのは、ユクスキュルの言葉を借りると、目の見えない人の「環世界」である。

 

さらに目の見えない人の感覚を調べる中で、著者がたどりつくのは、「見る」ことや「読む」ことを目から切り離して考えるということである。点字を目の見えない人は、指で「触れる」のではなく「読む」のであり、人は耳や手、お尻によってさえ(たとえば車で山道を走る場合のように)、物を「見る」ことができるということなのだ。さらに目の見えない人の身体の使い方はどうなのかを、ブラインドサーフィンやブラインドサッカーなどのスポーツを通して明らかにし、ソーシャルビューという言葉を通した絵画の鑑賞といった異なる世界にまで私たちを導いてゆく。

 

実際には、目の見えない人もその経歴や生活によって同じ能力を持っているとは限らないし、点字を使わない人もいる。そうした多様性の余地を残しながらも、本書は考えるだけではゆきどまりになる問題を、ずっと先まで推し進めることに成功している。

 

著者は、生物学者に憧れながらも、大学三年より「文転」し美学の研究へと進んだ変わり種であるが、その理由は大学の生物学教育の細分化に抵抗を感じたためだという。生命についての大きなビジョンを得るために、美学という知覚を統合的に認識する学問世界へ進んだのであり、そのめざすところは「身体」と周囲の環境との関わりの探究である。

 

著者の思考は一つの学問の内部に収まらない柔軟で広がりのあるものだが、それゆえにこそ目から鱗が落ちるような発見が本書の至る所に見られる。福岡伸一が述べているように、本当に楽しみな書き手の誕生である。伊藤亜紗の目の見えない人の環世界の探究は、次なる著書でもさらなる発見を見せてくれるだろう。

 

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