つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< April 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
 
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
斎藤環『思春期のポストモダン 成熟はいかにして可能か』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

斎藤環『思春期のポストモダン 成熟はいかにして可能か』(幻冬舎新書)は、精神科医による思春期特有のさまざまな病や問題行動を、社会との関係において論じた著作である。ここでの「ポストモダン」は、ジャック・ラカンの精神分析理論に依拠しながら、「主体の不在」という意味合いで用いられている。さらに、「成熟」という言葉に関しても、逆説的な意味を持って用いられている。というのも、社会が成熟するポストモダンの時代においては、成熟する期間そのものが限りなく引きのばされる傾向にあるからである。

 

 いわゆる成熟社会では、青年のモラトリアム期間が延長される傾向がある。つまり、「自分が何ものか」を問い続ける期間が延びる。だから、個人がなかなか成熟しにくくなるのは当然なのだ。

 

通常、若者が何らかの問題ある言動に及ぶとき、世間がそれに対して心的な病のレッテルを貼りたがる。特に近年では、専門の医師以外の人間が、自分にとって不都合な、あるいは理解不能な言動をとる若者に対し、「発達障害」の名を用いる傾向が顕著である。

 

  コミュニケーションがうまくいかなかったり、理解できない振る舞いをする人に対して、あっさり発達障害のレッテルを貼る。発達障害ならば脳の異常に違いないと判断し、そもそも脳がおかしいのだからコミュニケーションはできないと決めつける。こういう堂々巡りの理屈ができあがり、レッテルを貼られた人がどんどん疎外されてしまう。

 

何らかの社会的な障害が生じる場合に、それは果たして病因によるものとすべきであろうか。

 

著者の立場は、このような「発達障害」の、一般の人やメディアによる乱用の風潮に対し、反対の立場をとっている。

 

というのも、今日の社会においては、個人の側に何の病因がなくても、家族や学校、職場のような社会との関係性において、「不登校」や「ひきこもり」といった行動を発現する場合が多いからである。病因そのものではなく、関係性に潜むファクターを「病因論的ドライブ」と著者は呼んでいる。

 

 社会が悪い、とは一概に言えない。しかし、家族や個人が悪い、とも言い切れない。強いて言えば、問題は常に「関係」の中にある。個人と家族、個人と社会、あるいは家族と社会、それぞれの関係の中に。繰り返すが、これはいままで言われてきた「環境因子」とは微妙に異なる。

 なぜなら僕が言いたいのは、個人、家族、社会のそれぞれに、はっきりと指摘できるような病理がなかったとしても、それぞれの「関係」が病理性をはらんでしまうことがある、ということだからだ。

 ほぼ「健常」であるはずの「個人」に、病理的な言動を強いるもの。単純に環境や社会、あるいは個人の状況に還元できないような、この関係的要因を、僕はかつて「病院論的ドライブ」と命名した。

 

いかにして病理なしに、さまざまな思春期の問題行動は生じるのかが、本書の主要な課題である。時代によって、それまでには問題にならなかった「気質」が、社会との間に大きな齟齬をきたし、「不登校」や「ひきこもり」といった行動を誘発する場合もある。時代により社会への適応の条件も変化するのである。

 

 ある「気質」を持つことはなんら「病気」ではない。ただ、時代や社会ごとに「有利な気質」と「不利な気質」が存在する。そうであるなら、精神病の多くは、社会状況のありようと気質の相互関係で生じる場合もある、と言いうるだろう。

 

著者は、若者の向かいやすい傾向を、非社会的モード全般を指す「ひきこもり系」と、コミュニケーションが巧みで友人が多く、行動的で活発な「じぶん探し系」の二つのモードに分類する。しかし、これらは排他的なものではなく、社会との接点の生じ方によって左右されるもので、病因的に内在するものではない。このような二極化の傾向は、メールを好む「ひきこもり系」と携帯電話を好む「じぶん探し系」という形で、インターネット社会においては一層加速化してゆく。

 

このような視点から、「境界性人格障害」や俗に「多重人格」と呼ばれる「解離性同一性障害」、PTSD(外傷的ストレス障害)などさまざまな障害の症状に関しても、時代の社会問題との関係において、著者は細かく解説してゆくのである。

 

このように述べると、本書はかなり難解で専門的な書物の印象を与えるかもしれないが、斎藤環は『戦闘美少女の精神分析』や『キャラクター精神分析:マンガ・文学・日本人』などの著書もあり、カルチャー、サブカルチャーに通じ自在に論じることのできる論者である。新海誠のアニメ『ほしのこえ』や『新世紀エヴァンゲリオン』といったアニメ作品もタイムリーな場面で援用され、それが本書の読みやすさ、楽しさにつながっている。

 

 この少年は最後まで、戦士として成長することを拒み続け、しかしそんな自分も受け入れられず、ひょっとすると自分の一部かもしれない敵と戦い続ける。物語の背後に、なんだかやたら壮大な世界観を予感させつつも、この作品は、最初にテレビで放映された時点ではストーリー的に破綻してしまう。ひとことで言えば、作家の個人的心情が映り込みすぎてしまったといおうか。

 しかし、それにもかかわらず、『エヴァ』は現代における思春期心性の閉塞感を象徴的に描いた傑作として、アニメファンにとどまらず、すでに中年になった「オトナ」まで巻き込んで、熱狂的に支持された。この作品については、その後、実にさまざまな解釈がなされたのだが、僕にはなんといっても、現代における成熟の困難性がきわめてリアルに描かれていた点が印象的だった。

 

摂食障害の問題に関しても、ツィギーからカレン・カーペンターズ、ジャネット・ジャクソンといった著名人をカバーしながら、その文化的側面を掘り下げるなど、半端ない造詣を感じさせる。ツィギーの本名がレスリー・ホーンビーであることを知ったのも、本書が初めてであった。

 

 一九六六年に一六歳でデビューしたロンドン出身のモデル、レスリー・ホーンビーは、身長一六八センチ、体重四一キロの細身の体で、小枝(twig)のように手足が細いことから「ツィギー(Twiggy)」と呼ばれ、たいへんな人気を集めた。彼女は世界的に名を知られることになった最初のファッション・モデルであり、その存在はやはりビートルズとならんで社会現象とまで言われた。

 ツィギー・ブームは日本にも到来し、このブームがきっかけとなって、欧米で、ついで日本でも摂食障害の患者が急増したとされている。

 

若者に対する論点というのは、いつの時代もほとんど同じようなトーンを持っており、それによって振り回されてはならないという視点は著者に一貫している。「病」として囲い込むことで、一般の人が対処することがより困難になるという側面も無視できないのである。

 

本書は2007年に出版されたもので、とりわけネット上の用例に関しては、SNSがMixi止まりであるなど、時代を感じさせるものになっているが、本書の内容は、その扱う若者の傾向に関しても、若者に対する社会の見方に関してもいさかも変わってはいない。斎藤環は、若者の社会的な不適合の行為を、一般的な風潮に流され個人の病理に還元することなく、個人、家庭、社会の関係性にあるとし、その関係性に介入することで、そこに解決策を見出そうとする。この意味において、『思春期のポストモダン』は、今の世界を正面から真っ正直にとらえ、対処しようとする誠意ある書物であると言えるだろう。

コメント
コメントする









 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://mkamiya.jugem.jp/trackback/672
 

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.